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02

 夏の夜があった。湿った風と涼しさを感じさせる夏の空気が。虫が鳴いていた。家の間から月が出ていた。月の光は樹々のざわめきに合わせて空気中に浸透した。薄暗い休息があった。どの家も電気を消して寝静まっている。電柱に貼られた黄色い看板、暗闇の中の物干し竿、長く伸びた庭の草木。強い風が吹くたびに濃い青空を背景に電線が揺れた。彼はゲイかも知れない。彼を見送りながら僕はそう思った。結論から言うと、そうではなかった。ただその時の僕には、彼の親密さには初対面のぎこちさなを越える、生の馴れ馴れしさがあるように感じたのだ。それは温かった。それから居心地が良かった。濡れた花びらの奥の湿りのように。

 彼は振り返らずに歩いた。心地良さが背中に溢れていた。

 駅に着くと彼は言った。

 「タクシーで帰ると良い。これを使いなよ」

 彼は札を数枚僕に渡した。それからこう続けた。

 「シャツのシミはもしかしたらもう取れないかも知れない。念の為に帰ったらすぐに洗うと良い。それでも取れなかったら、僕に連絡をくれないかな。特別な方法があるんだ。それからケイやみんなによろしく言っておいてよ。きちんと挨拶せずに出てきたからね」

 そう言って彼は綺麗な型紙に書いた電話番号を僕に渡した。彼がそれをいつ書いたのかわからない。いつも持っているのかも知れないし、僕のためにさっき書いたのかも知れない。彼は作ったような綺麗な笑顔を僕に見せると、背筋を伸ばして駅のロータリーへ向かって歩いて行った。彼はタクシーに乗り込むと、満足そうな表情で僕の前を過ぎて行った。彼の去った後の駅は、呆れるほど人気が無かった。虫の声がロータリーを支配していた。騒がしく寂しい広い空間。後は何もない。

 ケイの家に戻ると、アツコがまだソファの上でまどろんでいた。

 「どこへ?」彼女は言った。

 「彼を送っていたんだよ」僕は言った。

 「彼って?」

 「彼さ、名前を聞かなかったな。僕と一緒に出て行った彼さ」

 「ずっとお話をしていた?」

 「そう。白いシャツを着た髭の薄い」

 「モリくんね、彼はモリって言うのよ」

 「モリさんね。なかなか立派な人だね。酔ってつい興奮して話してしまったけど、丁寧に対応してくれたよ。それに帰りのタクシー代まで。なかなか立派な人じゃないか」

 彼女は何も言わなかった。笑みを浮かべたままソファにもたれていた。どうして何も言わないのだろう?しかし、彼女の身体は揺れていた。腕やふとももの膨らみ。首筋から腰に至る肉付き。脂肪の果実。彼女は身体を震わせるたびに、生暖かい性の吐息を漏らした。花びらの涎。




 その週の終わりには、僕は彼に会っていた。僕らはお互いの駅の中間で待ち合わせし、二人で飲みに出かけた。彼は別のシャツを着ていた。ブルーのスリムで小綺麗なシャツを。彼は痩せているというのでは無かった。決して太ってはいなかったが、肉が全くないというのでも無かった。僕が彼に抱いた印象からすると、彼は余計な肉が全くないぐらいがちょうど良いのに。

 「音楽の話をしよう」彼は言った。

 彼はゆったりと酒を飲んだ。決して飲み過ぎるということは無かった。その仕草には一種の優美さがあった。絶えず自分を客観視する演技的な洗練された仕草だ。そういう意味で、彼は俳優なのだ。人生のあらゆる場面で演技していなくては気が済まないのだ。しかし、ほとんど気に障らなかった。そうした彼の演技は、彼の自分に対する厳しさの表れに思えたからだ。彼は肘をテーブルについていた。そして微笑んでいた。明りがあった。柔らかなシャレた明りが。彼はその明りに照らされて僕の話に耳を傾けた。彼は音楽を愛しているのだ。だから僕の話にさえ音楽的美しさを見出し、いつまでも聴いていられるのだ。

「君の本当の音楽の趣味が知りたいんだよ。僕は初めて見たときから、直感でわかったんだ。君とは趣味が合いそうだってね。そういうのは、なんとなくわかるものだろう?話し方や、服装、それから考え方や、ちょっとした仕草。そういうものから何気なしにね。君と僕は相性が良いんだよ。きっと君もそう感じているはずだ」

 彼の言葉は確かだった。僕らの関係には不思議なほど居心地の良さがあった。例えば、黙って向かいあっていることは苦痛でなかった。長年付き合った女とリビングで過ごしているような安心感があったのだ。とはいえ、たいていはずっとどちらかが話していた。彼といると次々と話したいことが浮かんで、会話が終わらないのだ。それは彼も同じらしかった。僕らは向い合って話し続けた。この居心地の良さはなんだろう?必然的に、僕らは前世について語ることになる。出会ってすぐに感じ始める居心地の良さを説明するのに、これほど便利な言葉がほかにあるだろうか?

 彼は舌で唇を舐めた。それが癖だった。

 強いていえば、僕らは互いをよく褒めた。彼は時々、ひどく辛辣になった。パーティに来ていた人々を口撃し、悪口を言った。彼らはスノブだ、無能だ、退屈だ。彼はそう言った。初めは遠慮がちに聞いていた僕も、いつの間にか一緒になって悪口を言った。酒の力があったかも知れない。彼の話術のせいかも知れない。それから、得体の知れないこの親密感のせいかも知れない。いずれにしても、僕らは彼らを馬鹿にし、最後はこう締めくくった。

 「けど、君は別さ」

 これはセックスだ。恥ずかしい快感があったのだから。褒め合うたびに僕は汗をかいた。じっとりとした秘密の汗だ。嘘はつかなかった。僕は本当の気持からいつも彼を褒めたのだった。彼の驚くほどの知識量や、突拍子もない意見や、あるいは感受性の豊かに思われる感想は客観的に考えても優れたものだった。しかし、それももはやわからない。僕らは褒めるために優れたところを探していたのか、それとも褒めるところがあったから褒め合ったのか。快感がそこにある限り、自分の感情を正確に見いだせない。

 僕らは互いを褒めるために、貶める誰かを探した。

 ひとつ疑問があった。彼は決して遅くまで飲もうとしなかった。その日も、僕は朝まで飲む覚悟があった。しかし彼は言った。

 「もうこんな時間だ、そろそろ帰ろう」

 彼がどうしてそんなに早く帰りたがるのかわからなかった。彼は酒もほとんど飲まなかった。

 

 

 




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