01
外の音楽が歪んで聴こえた。ボオンボオンと哀れに、遠くに。
僕は小便をした。誰かに聞かれるのを恐れて水を流しながらした。小便はボボボという音を立てて便器の中の荒れた水面に消えた。黄色かった。知らない酒を飲んだせいかも知れないし、さっき栄養ドリンクを飲んだせいかも知れない。棚の上に本が並んでいる。すべて洋書だった。彼らは本を読むという行為に増して、その本を読んだという事実を楽しむのだ。彼らが誰もが目にする場所に本を並べるのはそのためである。壁に貼られた写真を僕は見た。家主のケイが写っている。彼女は誰とでも肩を組み、同じポーズで写真に写る。幸せそうな同じ表情をした彼女が、壁のあちこちから僕を眺めている。これは共同作業だ。彼女の視線から得た力で、僕は力一杯、便器に向けて放尿するのだ。ここには彼女によって作られた神秘的なカオスがある。外の音楽が変わった。
「なかなか出てこれないでしょう?」
部屋に戻るとソファにけだるそうに腰掛けたアツコが言った。
「壁一面に飾られた彼女のセンスを見ていると、そこがパラダイスなんじゃないかって思い始めるのよ。実際にはトイレだけど」
彼女は透明な酒の入った小さなワイングラスを持ったまま、口を押さえて笑った。
部屋は狭かった。人は多かった。10人近くいたかも知れない。彼らはそれぞれ側にいる誰かと話し、多くは笑っていた。僕はまどろんでいた。ワインとビールとマリファナを交互に摂取したせいかも知れない。音楽はまだ遠くに聴こえた。音量の大きさと距離はここでは矛盾しない。大きな音を立てながら、音楽は遠くで響いている。飾り気のある部屋だった。天井から吊り下げられた黒い布切れにカラフルなバッジが付けられている。レンジや棚の上に小物が並び、本棚に彼女の好きな柄の表紙が表を向いている。ベランダで二人の影がタバコを吸っている。ソファに腰掛けて頬杖をついて話を聞いている男。笑うたびに手を叩く女。テーブルにこぼれたままのポテトチップス。ミカがベッドの上からベランダにいる男達に向かって注意する。外ではあんまり騒がないで、苦情が来るのよ。
シンクに溜まった大人しい不穏な空気。
「君は、あー、君は初めてかな?」
隣に腰掛けていた男が言った。
僕はそちらを見た。それからもとの姿勢に戻った。今の僕はソファの縁を何よりも愛している。ひじとみぞおちで抱えると言い表せない心地良さがあるし、クーラーの風がちょうど当たるので涼しいのだ。それに窓の向こうの夜の景色には不思議な魅力があった。失われた過去の情景、みたいな。
「君は、あー、初めてかな?」
僕が何も反応しないので、彼は同じセリフを言った。そこで僕は身を起こして彼の言葉に付き合うことにした。ソファの縁にはひどく後ろ髪を引かれたが。
「僕に言ったと思わなかったんですよ」
「重力には誰も逆らえないさ」
「なんです?」
「気だるさも重力の一種だよ、君は重力を楽しんでいたんだろう」
彼が何を言っているのかわからなかったから、
「初めてですよ」と僕は言った。それから、
「いや、初めてじゃないな。何度か来ている。あなたとは初めてですね」と言い直した。
「本当かい?」
「ええ、本当ですとも」
「僕は彼女の誘いにはほとんど必ず来ているんだけどね。すると、呼ばれなかったパーティがあったのかな」
彼はテーブルの上の過去を――つまり空中を――見つめ始めた。遠い目線。楽しむような、微かな喜びに溢れたような。その男は整った顔立ちをしていた。少しさっぱりとしすぎてはいたが、顔のパーツはどれも整っていた。今風の髪型を後ろに流し、シャツの襟は立てていた。髭は薄かった。彼が過去を振り返る横顔には惹かれるものがあったが、疲れた僕にはソファの縁のほうが魅力的に思われた。猫は陽だまりを好むのだ。彼が何も言おうとしないので、僕は再びねそべった。
緩やかに落下するアパートの一室。
それから僕の意識。ソファの縁がこれほど心地良いのは、僕とソファの間に深い関係があるせいかも知れない。ソファは母体であり、僕は胎児だ。親指をしゃぶろうかと思ったが、ここが自分の部屋ではないことを思い出して止めた。実際には爪を少しかじったかも知れない。台所でつけっぱなしになっている明りが眩しかった。光はテーブルの上のワイングラスの縁にアクセントを置いて、小さく輝いている。
「こういうのは放っておけないんだな」
彼が言った。僕は無視した。
「こういうのは放っておけないんだ」
彼がもう一度言ったので、僕は身を起こした。
「なんです?」
「こういうのは許せないんだ」
彼はテーブルの上のポテトチップスを拾い集めていた。
「つい片付けたくなってしまうんだよ」
彼は手際よくテーブルの上を片付けた。僕はそれを眺めていた。彼はワイングラスを一箇所に集め、アイスクリームのカップを全て重ねた。ポケットから出したハンカチでテーブルをひと拭きすると、小さく畳んでテーブルの端に置いた。
「君は?音楽は?」彼は言った。
「いろいろですよ」
「というと?例えばこんなの?」彼は部屋に流れている音楽を顎で差した。
「嫌いじゃないですよ、実は。ダンスミュージックだからと言って馬鹿には出来ません。いろいろですよ、本当に」
僕は面倒臭く感じた。彼らは音楽の知識で人間を測るのが好きなのだ。好きな音楽、好きな小説、映画、考え方、服装。それらを聞きだすのに成功すると、彼らは胸の中で「なあんだ、その程度の人間か」と呟くのだ。好きに測れば良いが、測らせるのもなんだか癪だった。僕は今流行のアーティストの名前を言った。
「まさか」と彼は言った。「それは何かの冗談だろう?」
「聴いちゃいけませんか?」
「いけないねえ。それは罪だよ」
「どうして?」
「君がそういう人間じゃないからさ。流行りに乗せられて生きるような人間ではないでしょう」
「そんなことありませんよ。何も考えずに流されるままに生きているんです。どうしてそんなふうに思うんですか」僕は笑った。
「現にこうして、僕との会話をうまく行かないように頭で楽しんでいるじゃないか」
彼は笑った。僕は身を起こした。彼は会話の間に誰かが置いて行ったワイングラスを端に寄せた。ほかの多くのワイングラスと同じ集まりになるように。
「好きな音楽を聴いていたいんですよ。ところが、人はそれを許そうとしないでしょう。知識の競争に僕を巻き込もうとするんです。音楽の話がひと通り終わると、彼らは必ずこう言う。それで?好きな映画は?ってね。彼らは他人の知識量が知りたくてうずうずしているんです。僕が好きな映画のタイトルを言うと、彼らはがっかりするか、あんまり詳しくないんだね、なんて笑うんです。放っておいて欲しいんですよ。無知で馬鹿な人間と思われていたいんです」
「君をレースに巻き込もうなんて思ってないさ」
「そうですか?巻き込もうとする誰もがそう思ってるような気がするけど」
「僕は違う」
「勝手にレースしてれば良いんです。彼らは音楽じゃなくレースを楽しんでいるんですから」
「それで?」
「僕の知識量が少ないからって、どうして僕の好きな作品の価値が低いと思われなくちゃならないんです?競争なんてうんざりなんですよ。ところが、彼らは一旦レースして相手の実力を測らないと、笑顔で話すことも出来ないんだ」
「わかるとも」
「嫌になるのは、いつの間にか同じことを僕が他人にしているってことですよ。明日になると全部忘れて、僕は自分の知識を増やすことに必死になるんだ」
「わかるとも」
彼はそう言って、僕の服のシミを見つけた。いつの間にかワインをこぼしたらしかった。彼はテーブルの端のハンカチを持ってキッチンへ行くと、それを湿らせて戻ってきた。彼のまつ毛はきれいにカールしていた。僕の服のシミを濡れたハンカチで何度も叩いて、彼は腕時計を見て言った。
「そろそろ帰らなくちゃならないんだ」
それから立ち上がってこう言った。
「駅まで送って行ってくれないかな。もう少し話したいんだ」
僕はいいですよ、と言って彼の後から玄関を出た。外は暑かった。湿り気のある嫌な暑さだった。