婚約者に置き去りにされたので、星を見てから帰ります
「エドガール様は、お帰りになったそうです」
受付へ確かめに行った侍女の言葉を、私は一度で理解できなかった。
王立天文台の窓からは、まだ月が見える。二人であれを見ようと誘った婚約者は、入り口で知り合いに挨拶をしてくると言って、階段を下りたきり戻ってこなかった。少し長い挨拶だとは思っていた。私の順番が来るたび、あとから来た人に望遠鏡を譲りながら。
「具合でも悪くなったの? それとも、お家で何か」
「いいえ。お知り合いの方と、ベルナール家の夜会へ向かわれたと。受付に、従僕を通してお言付けがあったそうで……」
マルトは、そこで口をつぐんだ。下の階から最後の見学者たちの笑い声が聞こえる。子供が父親に、もう一度見たかったとねだっていた。
私たちの横を、丸めた星図を抱えた職員が通った。私は壁へ寄り、邪魔にならないようにした。それから、マルトの顔を見た。
「続きがあるのね。ちゃんと教えて」
「リゼット様は、星がお好きだから残られるだろう、と。帰りはご自宅の馬車をお呼びするようにとのことです」
腹の底が、冷たくなった。
帰りは僕が送るから。そう言われて、うちの馬車は帰してある。マルトがそのことを確かめたとき、彼は笑っていた。婚約者を送り届けるくらい、任せてほしいと。
それは、ほんの二時間ほど前のことだった。
「一緒に夜会へ行ったのは、女性?」
「……はい」
マルトがうつむいた。怒りを堪えているように、唇を強く結んでいる。
私は窓の外へ目を戻した。夜会に着ていけるほど華やかな服ではない。望遠鏡に引っかけないよう、袖の細い青いドレスを選んだ。高いところは冷えるからと、母が薄い肩掛けを足してくれた。
彼に、よく似合うと言ってもらえると思っていた。
「私、ここへ来たいとは言ったけれど」
声にしたら、喉が痛くなった。
「あなたより星が大切だから、一人にしていいとは言っていないのに」
マルトが一歩近づいた。私は手を上げて止めた。今、肩に触れられたら、ここで泣いてしまう。
一年半前のエドガールは、私が冬の星の話をしただけで、次の夜会では窓辺へ連れていってくれた。名前は知らないけれど、あの明るい星なら見つけた、と得意そうに言った。私も知らなかったから、二人で笑った。
最近は、約束のあとに別の用が入ることが増えた。それでも今日は彼から誘ってくれたのだ。嬉しくて、何度も案内状の日付を確かめた。
「お嬢様。受付から、使いを出していただけるそうです。お屋敷へ迎えを頼みましょう」
私はうなずいた。歩き出そうとすると、さっき星図を運んでいた男性が、こちらへ戻ってきた。
灰色の上着の袖が少し捲られていた。大きな手で扉を押さえ、私とマルトを交互に見る。
「お帰りの馬車をお待ちですか。下の待合には暖炉があります。お使いを頼むのでしたら、管理人へお声掛けを」
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
いつもの癖でそう言うと、悔しくて目の奥が熱くなった。
私は約束の時間に来て、彼を待っていただけだ。それなのに、どうして私が謝っているのだろう。
「……迎えを、お願いしたいです。家の馬車は、もう帰してしまったので」
「分かりました。ご住所を伺っても?」
マルトが説明してくれた。男性は近くの職員を呼び、管理人へ取り次ぐよう頼んだ。私の婚約者がどこへ行ったのかは、尋ねなかった。
私は肩掛けの端を握り、扉の向こうを見た。長い望遠鏡が、開いた窓から空へ向いている。踏み台のそばには、もう誰も並んでいなかった。
「今夜の見学は、終わりでしょうか」
「まだ月をご覧になっていませんか。片づける前ですので、よろしければ」
彼は私の顔を見て、少し言葉を止めた。涙に気づいたのかもしれない。
「目を擦ると、見えにくくなるので。少し落ち着かれてからでも、大丈夫です」
泣かないでくださいと言われなかったことに、ほっとした。
ハンカチを出して、目の下に当てた。マルトが私の背中へそっと手を添える。今度は、止めなかった。
「見ます。せっかく、ここまで来たんですもの」
声はまだ震えていた。それでも、踏み台の方へ足を出した。
「星を見てから帰ります。エドガールを待つために、来たんじゃありませんから」
男性は、望遠鏡の脇へ寄った。
「今なら、月の縁のところがよく見えます。こちらへ。まずは、片目を軽く閉じてみてください」
覗き口へ顔を寄せる。最初は何も見えず、白い光が端に揺れただけだった。彼が立つ位置を教えてくれて、もう少し身体を動かした。
次の瞬間、大きな月が目の前へ飛び込んできた。
「……穴がある」
思わず顔を離した。窓の外を見ると、月はいつもの月だった。白くて、滑らかで、手を伸ばしても届かない。
もう一度覗く。やっぱり穴がある。丸い縁の内側に暗いところがあって、その隣には、ぎざぎざした影が並んでいる。
「平らでは、ないんですね」
「ええ。高いところも低いところもあります。光と影の境をご覧になると、分かりやすいですよ」
「私、白いお皿みたいなものかと……」
言ってから、恥ずかしくなった。学問をしている人に向かって、お皿などと。
けれど彼は、楽しそうに笑った。
「私は初めて見たとき、焼き損ねたパンのようだと思いました。先生には、もう少し丁寧に描きなさいと言われましたが」
覗き口に当てかけた額を止め、私は彼を見た。
「パンだと思ったまま、描いたんですか」
「はい。今でも残っています。見学の方には、お見せしていません」
小さく笑ってしまった。鼻が詰まっていたので、妙な音になった。
彼はまた月の方へ手を向けた。私は覗き直した。知っているつもりだった月に、こんなに細かなものがある。じっと見ていると、暗い縁の奥まで覗けそうな気がした。
「マルトも、見て。あそこ、本当にでこぼこしているの」
踏み台から下りて場所を空けると、マルトは戸惑いながら前へ出た。そして同じように顔を寄せ、まあ、と声を漏らした。
その声を聞いて、男性が嬉しそうにした。自分が月を作ったわけでもないのに、よく見えていますね、と何度もうなずいている。
私の胸はまだ痛かった。それでも、月を見た驚きまで嘘にはならなかった。
迎えの馬車が着く頃には、エドガールに話したいとは思わなくなっていた。
ただ、家に帰りたかった。母の顔を見て、あの人が私を置いていったと、ちゃんと言いたかった。
階段を下りる前に名を尋ねると、男性はアルマン・ヴェルネと名乗った。
「リゼット・アルノーです。今夜は、ありがとうございました」
「こちらこそ。月をご覧いただけて、よかったです」
彼は丁寧に頭を下げた。慰めの言葉を探している様子はなかった。私も、笑顔で平気だと証明しなくて済んだ。
馬車に乗って扉が閉まると、我慢していた涙が落ちた。マルトが私の肩を抱く。今夜の服を選んでいた自分を思い出して、悔しくて、声が出た。
好きな人と月を見たかった。それだけのことが、どうしてこんなに難しかったのだろう。
* * *
「星を、そんなに楽しみにしていたとは思わなかったんだ」
翌日の昼、エドガールは我が家の応接間でそう言った。
私の隣には父が座っている。母は窓際の椅子にいて、誰も彼にお茶を勧めていなかった。
エドガールは卓上の菓子へ一度目をやり、それから私を見た。
「急に誘われてね。以前から行きたかった集まりだったし、君はあそこが気に入ったようだったから。邪魔をせず、楽しんでもらおうと思って」
「私に何も言わず、馬車で行ってしまうことが?」
「従僕に伝えるよう頼んだだろう。彼が遅かったのなら、私から叱っておく」
彼の言葉が終わる前に、私は首を振った。
「あなたは、送ると言ったわ。二人で月を見ようと誘ったのも、あなたよ。私が待っているとは、思わなかったの?」
「君なら分かってくれると思ったんだ。知り合いの手前、断りにくかったし」
私のことは、断らなくてもいいのだ。
顔を見て、今夜は一緒にいたくなくなったと伝える必要もない。知らせさえ誰かに頼めば、最後にはこちらが許して、次も同じように待っている。
彼はそう思っていたのだと、初めてはっきり分かった。
「私は、嫌だった」
エドガールの眉が上がった。
「あなたが戻ると思って、二度も順番を譲ったの。初めて覗くとき、隣にいてほしかったから。なのに、あなたはとっくに別の場所へ行っていた。私がどこまで待つか、考えもしないで」
昨夜は涙で詰まった言葉が、今は次々に出た。
「分かってくれるなんて、勝手に決めないで。私は怒っているし、悲しかった。あなたの婚約者なら、そのくらい我慢するものだとは思わない」
「そこまで言わなくても……。悪かったよ。次は、君の行きたい場所へ行こう」
父の前だからか、彼は声を柔らかくした。
その顔に、昔の彼が重なった。最初の約束の日、私より先に来て、通りの花を眺めていた人。喜ばせようとしてくれたことも、確かにあった。
まだ好きでいたかった。ちゃんと謝ってくれれば、昨夜のことだけを忘れられるのではないかと、一瞬でも思った自分が悔しかった。
「次の約束は、しません」
左手の指輪を抜いた。昨夜、寝る前にも外しかけて、またはめたものだった。今は、卓上へ置いた。
「婚約を、終わりにしたいです」
エドガールは指輪を見たまま、しばらく動かなかった。
「リゼット。たった一晩のことだろう」
「あなたには、そうなのね」
喉が詰まり、少し息をついた。父は黙って待っていた。
「私には、これからずっとのことなの。結婚しても、断りにくい誰かを優先して、私は許す方に置いておくつもりでしょう。もう、それを待ちたくない」
「そんなつもりはない。約束するよ」
「昨夜も、約束したわ」
彼の顔が赤くなった。言い返そうとして、父の方へ向き直る。
「子爵。今は、お嬢様もお気持ちが高ぶっておられるようです。少し日を置いて――」
「娘は、昨夜も今朝も考えた。私たちは、その答えを聞いている」
父の声は静かだった。
エドガールは私に目を戻した。困ったように笑おうとして、うまくいかなかったらしい。
「本当に、終わりにするのか」
「ええ。私は、あなたと結婚しません」
言い切った途端、膝の上の手が震えた。言ってしまった。ずっと楽しみにしていた結婚を、自分でなくした。
それでも、指輪を取ろうとは思わなかった。
「謝ったじゃないか」
彼が小さく言った。その声に、今度は怒りより疲れを感じた。
「謝ったら、私が必ず許すと思わないで」
エドガールは唇を結んだ。何度か卓上の指輪を見て、最後にはそれを取った。いつも別れるときは私から次に会う日を尋ねたけれど、その日は何も聞かなかった。
扉が閉まってから、私は父の前で泣いた。父は困った顔で母を見たが、立ち去らなかった。母が隣へ座る場所を空け、黙ってハンカチを渡してくれた。
六日後、婚約は正式に解消された。
翌週の手帳には、彼と出かけるはずだった予定が残っていた。消しても、土曜日が丸一日空いていることには変わりがない。何をしてもよいと言われると、何をしたかったのか分からなくなった。
泣いた翌日、妙に腹が立つこともあった。彼が好きだった焼き菓子を、うっかり二つ買ってしまった自分にまで腹を立てて、帰ってから二つとも食べた。
その次の土曜日、天文台の公開日があると、母が教えてくれた。
私はしばらく返事をせず、窓の外を見た。昼間の空に、薄い月が浮かんでいる。
「……もう一度、見たいです」
「それなら、マルトと行っていらっしゃい。馬車は、帰るまで待たせましょうね」
母がそう言ったので、ようやく笑えた。
迎えが来なくなる心配をしなくていい。それだけで、出かける支度が少し楽だった。
* * *
「また、来てくださったんですね」
アルマン様は私を見つけると、そう言って笑った。
望遠鏡の前には子供連れが二組並んでいた。私はその後ろに立ち、もう一度見たくて、と答えた。
彼は、今夜もよく見えますよ、と嬉しそうにうなずいた。
「先日は、母にも月の話をしました。私の説明では、パンの形しか伝わらなかったようですけれど」
「それは、私の最初の説明がよくありませんでしたね」
隣のマルトが笑った。アルマン様も笑ってから、望遠鏡を覗く子供へ向き直った。
私たちの前にいた男の子は、片目を閉じようとすると両目を閉じてしまうらしい。アルマン様は急かさず、片方を手で覆ってみようかと提案した。ようやく見えたとき、男の子は大きな声を上げた。
彼も嬉しそうだった。あの夜、マルトが覗いたときと同じ顔をしている。
私の番が来ると、月は前に見た形とは違っていた。光と影の境が移り、前とは違う形が並んでいる。
私は前より長く覗き、最後に自分から場所を空けた。次の人が待っている。全部を覚えようとしなくても、また来ればよいのだと思えた。
見学を終えて下の展示室に戻ると、壁に何枚も月の絵が掛かっていた。
鉛筆で細かな影を描いたもの。黒い紙に白い線を引いたもの。私は端から順に眺め、同じ月でも見える場所が変わるのかと、説明の札を読んだ。
やがて上から下りてきたアルマン様が、少し離れたところで足を止めた。
「ここが分かりにくいでしょうか。皆様、よくそこに立ち止まられます」
「絵の方です。この影、山羊が走っているみたいに見えて」
指を差すと、彼は絵へ近づいた。しばらく黙って見て、それから小さく息を漏らした。
「……本当だ。角まである」
「でしょう? 先ほど望遠鏡でも見つけようとしたのですが、分かりませんでした」
「今夜は、この辺りが暗い側なので。もう少し日がたつと見えやすくなります。もっとも、ずっと同じ山羊の形に見えるわけではなくて」
彼は隣の絵を示し、光の向きと影の長さを説明した。途中で札の前に立ってしまったことに気づき、慌てて横へ避ける。
私は絵と彼の指を見比べた。分かったところから、また分からないところが出てくる。月の話は、夜空を見て綺麗だと言うだけでは終わらないらしかった。
「すみません。長くなりました。お引き留めしてしまって」
アルマン様が急に言った。
気づけば、マルトは少し後ろの椅子に座っている。私は首を振った。
「面白かったです。でも、最後のところは分かりませんでした。来月には、山羊が戻ってきますか」
「戻ってきます。ただし、同じ時刻に同じ窓から見えるとは限らないので」
また説明しかけた彼が、自分で口を閉じた。
私は笑った。
「続きを、聞いてもいいですか。馬車はちゃんと待っていますし、今夜は私が聞きたくて残っているので」
アルマン様は私の顔を見た。それから、展示室に残るほかの客と時計を確かめ、あと少しでしたらと答えた。
その慎重さが、嬉しかった。仕事中の人を独り占めするつもりはない。それでも、今なら話したいと思ってもらえたのが分かった。
帰り際、私は彼に婚約を終えたことを伝えた。
言うかどうか迷ったが、あの夜の続きを自分の口から話しておきたかった。アルマン様は驚き、それから、そうでしたか、とだけ言った。
「まだ、腹が立つんです。もう会わなくていいのに」
「また来てくださって、嬉しいです。でも、ここへ来るのはお辛いかもしれませんね」
「思い出します。でも、月も見たくて」
自分の返事を聞いて、少し笑った。
「まだ腹を立てているのに、月には見とれてしまいました」
「月の山羊までお探しでしたからね」
彼は言ってから、ふっと口元を緩めた。
私は帰りの馬車で、その顔を思い出した。月の影より、話しながら笑った人の顔の方が、鮮やかに残っていた。
その二週間後にも、私は天文台へ行った。
今度はマルトに加え、母も一緒だった。母は望遠鏡を覗いてから、確かに焼き損ねのパンねと言った。私は余計なことを教えたと後悔したけれど、アルマン様は楽しそうだった。
見学の終わりに、秋の流星について小さな話があった。いつ頃、多く見られそうか。明るい街中より、空が広く見える場所がよいこと。望遠鏡で一つの場所を覗くより、目で空を眺める方が見つけやすいこと。
「願い事は、どのくらい急いで言えば間に合いますか」
子供に尋ねられて、アルマン様は考え込んだ。
「私も、まだ間に合ったことがありません。見えた、と言った頃には消えています」
子供たちが笑った。彼は少し悔しそうに、それでも長く光るものはあるので、と付け足した。
私はその顔が好きだった。何でも知っている先生の顔より、自分も見たいと思っている人の顔が。
話が終わったあと、母は管理人の夫人と古い知人の話を始めた。私は掲示された星図の前に残り、紙を片づけるアルマン様に尋ねた。
「流れ星を見るときも、ずっとお仕事なのですか」
「観測をする夜もあります。今年は同僚と休みを交代できそうなので、一晩くらいは、ただ見ていようかと思っています」
「ただ、というのは?」
彼は紙の端をそろえながら笑った。
「草の上に寝転んで。紙も時計も置いて、出た、と騒ぐだけです。子供の頃、従兄弟とよくそうしていたので」
私は、真面目な顔で星図を運ぶ彼が、草の上で騒ぐところを想像した。想像してから、実際に見てみたくなった。
「楽しそうですね」
「ええ。こちらで見学の方にお話しするのも好きですが、ときどき自分の見たい方を見そびれます。今のを見ましたか、と聞かれて、私だけ見ていなかったり」
彼は机へ紙を置き、窓の方を見た。雲が流れて、月が隠れかけている。
「今夜も、あそこは避けてくれればいいのに」
小さな声だったので、私は笑ってしまった。
「雲に、お願いを?」
「たいてい聞いてもらえません」
アルマン様も笑った。それから少し考え、草の上で空を見られれば、見えない時間も楽しいのですが、と続けた。
「一人だと、見逃した光の話もできませんからね。昔は従兄弟に、大きかったのに、と何度も自慢されました。あれは半分くらい、嘘だったと思っています」
その言い方がおかしくて、私は声を上げた。
彼も笑っている。私が笑ったからではなく、本当にその従兄弟の顔を思い出しているようだった。そういう顔を、もっと近くで見たかった。
月を見せてもらったお礼ではない。この人が楽しんでいる隣に、私もいたいと思った。
「私も、一緒に寝転んでは駄目でしょうか」
アルマン様の手が止まった。
口にしてから、私は自分の言い方に気づいた。慌てて説明を足す。
「庭に、です。星を見るために。父の別邸に果樹園があって、秋は毎年、家族で泊まりに行くんです。木の低いところからは、空が広く見えます」
彼は黙って聞いていた。私は息を整え、今度はゆっくり言った。
「その夜、いらっしゃいませんか。何かを教えていただきたいのではなくて、私も、見つけたと騒いでみたいんです。アルマン様と」
彼の目が、私の顔に戻った。
「私と、ですか」
「ええ。あの……お嫌でなければ」
最後だけ声が弱くなった。慰めてもらう客としてではなく、相手を誘うのは思っていたより怖い。彼には彼の、会いたい人がいるかもしれなかった。
アルマン様は首を振った。
「嫌ではありません。行きたいです。とても。ただ、休みの日を確かめてから、お返事してもよいでしょうか」
とても、のところで顔が熱くなった。
私は母を振り返った。母はこちらを見ていた。話の途中から聞こえていたのかもしれない。私が別邸にお招きしたいと伝えると、まず父と日程を相談しましょう、と答えた。
母はアルマン様にも、どうぞいらしてくださいねと声を掛けた。私は嬉しくて、母と彼の顔を交互に見てしまった。
三日後、アルマン様から手紙が届いた。
勤務の交代が決まり、ぜひ伺いたいと書いてあった。父と母への挨拶のあとに、望遠鏡は持たずに参ります、と一行あった。
私はそこを何度も読んだ。それから返事に、二人分の敷物を用意してお待ちしています、と書いた。
まだ寒くなりきらない庭で、あの人と並んで空を見上げる。考えるだけで頬が緩んだ。星が好きなふりをして誘ったわけではない。でも、誰が隣にいるかは、もう私にとって大切だった。
* * *
天文台で月を見たあの夜から、七週間が過ぎていた。
アルマン様は、約束した夕方の時刻に別邸へ着いた。
天文台で見るより柔らかな上着を着て、小さな鞄を一つ持っていた。父への挨拶では少し緊張しているようで、食事の席に案内されると、椅子を引く前に私を見た。
私は笑った。来てくださって嬉しいですと言うと、彼は自分も楽しみにしていましたと答えた。その声を聞いた途端、朝から気にしていた雲の厚さが、少しどうでもよくなった。
もちろん、晴れてはほしかった。
夕食を終えて庭へ出ると、空の半分に雲が残っていた。昼間のうちに場所を決めておいた果樹園の端には、厚い敷物が二枚重ねてある。マルトが毛布を運んできて、夜更けには温かい飲み物を持ってくると言った。
私は二人分をお願いし、家の窓を見た。明かりの向こうに、父と母の姿がある。帰る場所がすぐそこに見える庭で、これから私は夜更かしをする。
「本当に、寝転んでいいのでしょうか」
アルマン様が敷物を見下ろしていた。
私は先に腰を下ろした。いつもなら母に注意されそうな姿勢で、裾を足元へそろえる。肘をつき、ゆっくり身体を後ろへ倒した。
空が、急に広くなった。
「わあ……」
起きて見上げるのとは違った。枝の先が視界の端へ退き、雲のないところには、細かな光が思ったよりたくさんあった。
私は横に立つ彼を見た。
「こちらへ。今日は、私の先生をしなくていいんです」
アルマン様が笑った。少し困ったように見えた顔が、ふっとほどける。
「では、遠慮なく」
彼は私の隣に腰を下ろした。十分に間を空けてから横になり、頭の下へ両手を組んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。草の匂いがする。屋敷の中で誰かが扉を閉める音がして、それから虫の声が聞こえた。
「広いですね」
アルマン様が言った。
専門家らしい説明ではなく、私が今思ったのと同じことだった。それが嬉しくて、私はうなずいた。
「気に入っていただけましたか」
「とても。今、何も書き留めなくてよいことも」
彼はそう言って、大きく息を吐いた。
私は横顔を見た。椅子に座っているときより、額に髪が落ちている。雲の切れ目を目で追う口元が、少し笑っていた。
こんなふうに過ごしたかったのだと分かって、胸の中が温かくなった。
最初の光は、私だけが見た。
雲の薄い端を、一筋がすっと走った。あっと声を上げて指を差した頃には、もう消えていた。
「今、あそこに!」
「どちらですか。……ああ、見逃しました」
アルマン様が悔しそうに顔をしかめた。
「大きかったです。ここから、ここまで」
「その言い方は、従兄弟によく似ていますね」
私は笑って、嘘ではありませんと抗議した。彼は笑いながら、信じています、と返した。
次の一筋は、彼が先に見つけた。私が横を向いて彼の話を聞いている間だった。見えましたかと尋ねられ、正直に首を振ると、彼はまったく同じように、大きかったのですが、と言った。
「今、少し仕返しをしましたね」
「少しだけ」
彼の笑い声が近くで響いた。
私は毛布を顎のところまで引き上げた。顔が緩んでいるのを見られそうだった。暗くてよかったと思い、それから、もっとよく彼の顔を見たいとも思った。
雲が広がり、しばらく何も見えなくなった。
私は空へ文句を言う代わりに、来る途中の道の話を聞いた。アルマン様は、道端の牛に馬車を止められたという。牛はのんびりこちらを見ていたのに、御者だけが焦っていたそうだ。
彼自身も焦ったのかと尋ねると、少し迷ってから、はいと答えた。
「早く着きたかったので。途中から、何度も時計を見てしまいました」
「間に合ってくださいましたよ。お食事にも」
「食事だけが、楽しみだったわけではありません」
その声が少し変わったので、私は彼の方を見た。
彼もこちらを向いていた。隣にいるのに、目が合うと胸が忙しくなる。
「……星、でしょうか」
「それもあります。でも、星だけなら、もっと近い場所で見られます」
すぐには返事ができなかった。
彼はまた空へ目を戻し、小さく笑った。
「お誘いを受けた日のうちに、来るつもりで休みの相談をしました。あの場ですぐに、お返事をしたかったのですが」
私は毛布の端を握った。
待ち合わせの場所で、来ない人の理由を考えていた夜を思い出した。今日は隣で、自分から来たかったと話す人がいる。私もその人の声を聞きたくて、ここへ招いた。
「私も、返事が来る前から、敷物のことを考えていました」
アルマン様が顔を向けた。
「あなたが寝転んで、楽しそうにしているところを見たかったんです。いつも見せてくださる側だから、今度は私も、一緒に驚きたくて」
雲の向こうが、少し明るくなった。私はつい空を見た。
そのとき、枝の上を長い光が走った。
「あれ!」
思わず彼の袖をつかんだ。アルマン様も声を上げ、二人で同じ方を見た。白い線はすぐに消えたけれど、目の奥にまだ残っていた。
「見ましたか。今のは、長かったですね」
「見ました。間に合いました」
彼は子供のように笑っていた。口元を隠さず、誰かに説明する言葉を探しもせず、ただ嬉しそうに。
私はその顔を見て、星を見逃しても構わないと思った。
「アルマン様が、好きです」
彼の笑顔が止まった。
自分でも驚くほど、唐突に言ってしまった。けれど、今の顔を見ながら伝えたかった。私は袖をつかんでいた手を、少し緩めた。
「月を見せてくださったからだけではありません。お話が長くなって、ご自分で困るところも。雲に文句を言うところも。……今、そんなふうに笑うところも、好きです」
暗がりで話すのは、楽ではなかった。彼が黙ると、返事を想像する隙間ができてしまう。
それでも、曖昧なお礼には戻したくなかった。
「また、一緒に出かけたいです。星を見る日だけでなくても。私、あなたの恋人になりたいんです」
彼が身体を起こした。私は少し遅れて起き上がり、毛布を膝へ落とした。
アルマン様は、まず私の手を見た。それから目を合わせ、手を差し出した。
「私もです。あなたに会いたくて、ここへ来ました」
その手に、私は自分の手を重ねた。冷えていた指が、温かい掌に包まれる。
「リゼット様が好きです。もう一度、月を見に来てくださった日から、次も会えないかと思っていました。私の話を面白がって、一緒に山羊を探してくださったでしょう。あんなふうに話していると、時間を忘れます」
彼は一度、言葉を切った。つないだ手に、少し力がこもった。
「今夜は、教えるために呼ばれたのではないと分かって、嬉しかった。あなたの隣へ来ていいのだと、そのことばかり考えていました」
胸が熱くなり、笑おうとすると目が潤んだ。
彼は困ったように眉を下げたが、私が笑っていると分かると、ほっとした顔になった。
「嬉しいです。今、顔を見られるのが恥ずかしいくらい」
私が言うと、彼は驚いたあと、少し笑った。
「見たいです。私も、どんな顔をしているか分かりませんが」
「きっと、二人とも同じです。……手を、離さないでください」
彼はうなずき、もう片方の手を私の頬へ近づけかけた。途中で止まったので、私は首をかしげた。
「髪に、草が」
あまりに真面目な声で言われて、私は吹き出した。
取ってもらっている間、彼の襟にも細い枯れ葉がついているのを見つけた。空いている手でそれを拾い、二人で顔を見合わせた。せっかく告白したのに、揃ってこんな格好をしている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「もう少し、近くへ来てもいいですか」
アルマン様が尋ねた。
私はうなずき、自分から敷物の上を少し詰めた。触れた肩の温かさに、さっきまで楽にしていた姿勢が分からなくなる。
彼は私の顔を見て、ゆっくり近づいた。私も目を閉じた。唇が触れると、握っていた指に力が入り、彼がそっと握り返してくれた。
離れてからも、私はすぐに空を見上げられなかった。
彼の上着へ額を寄せると、低く笑う声が聞こえた。からかわれているのではなく、彼も嬉しくて仕方がないのだと分かった。
「願い事、言えませんでしたね」
私が呟くと、彼は少し考えた。
「私は、今夜のうちに一つ、叶いました」
顔を上げると、彼は照れたように笑っていた。私はもう一度、その肩へ額を押しつけた。
遠くで窓が開く音がし、マルトが飲み物を運んでくるのが見えた。私は慌てて離れようとしたけれど、アルマン様は手を放さなかった。恥ずかしくて彼を見ると、今度は少しだけ、得意そうだった。
* * *
翌朝、私は朝食に遅れた。
目が覚めたときには、窓から部屋の奥まで日が差していた。慌てて着替え、髪を結ってもらい、食堂へ駆け込むと、母が落ち着いてお茶を飲んでいた。
「おはよう、リゼット。よく眠れた?」
「……はい。少し、眠りすぎました」
父の隣の席には、まだ誰もいなかった。
私が座った直後に扉が開き、アルマン様が入ってきた。きちんと身支度をしていたけれど、髪の一か所だけが、どうしても言うことを聞かなかったらしい。
目が合うと、二人とも笑ってしまった。
「失礼いたしました。目覚ましの時計を、止めた記憶はあるのですが」
「私も、マルトに返事をした記憶はあります」
父が新聞を畳み、二人とも座りなさいと言った。その口元が少し緩んでいたので、私は余計に恥ずかしくなった。
昨夜は温かい飲み物を二杯ずつ飲み、もう一本だけと言いながら何度も空を見た。最後はマルトに、明日の朝食には、お二人とも起きてくださいね、と叱られた。
客室の前で別れるとき、アルマン様が小声でおやすみなさいと言った。その声を、今朝も思い出していた。
朝食のあと、彼は父と母に、私との交際を望んでいると話した。
私も同じ気持ちですと、自分の口で言った。昨夜の星を理由にしなくても、その言葉を言えた。
父は、まず二人でよく話しなさいと答え、母は、今朝はもうよく話していたようねと笑った。
帰る馬車を待つ間、私は玄関の前で彼と並んだ。
昼の光の中では、昨夜より顔がよく見える。そのせいか、手をつなぐまでに少し時間がかかった。私が指先を近づけると、彼の方から握ってくれた。
「リゼット、と呼んでいただけますか。二人でいるときは」
彼は私の顔を見て、慎重に名前を呼んだ。聞き慣れたはずの自分の名が、ずいぶん違って聞こえた。
私も、アルマン、と呼んだ。彼が笑ったので、もう一度呼びたくなった。
「次は、いつ会えますか」
尋ねると、彼はいったん手を離し、鞄から手帳を出した。次の公開見学の日を言いかけて、それから私を見た。
「その前の日曜日なら、午後から空いています。晴れていなくても、会っていただけますか」
「ええ。今度は昼間に。二人とも、ちゃんと起きてから」
アルマンが声を立てて笑った。
私は手帳をしまった彼と、もう一度手をつないだ。月の山羊の話も、あの牛の話の続きも聞きたい。星が見えなくても、好きな人と話したいことは、まだたくさんあった。
馬車へ乗る前に彼が手の甲へ口づけたので、私は次の日曜日まで待つのが、急に長く感じられた。
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