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~ 伍ノ刻   矛先 ~

 月曜日。


 その日から、火乃澤高校は定期テスト一週間前の期間に突入していた。部活動も全面的に休止となり、生徒達にとっては試験の勉強に追われる日々が続くことになる。


 入間美月も例外ではなく、その日は早めに帰宅して試験の勉強に取り組んでいた。文系科目はともかく、はっきり言って理系科目は苦手だ。しかし、一年生の間は文系も理系も関係なく履修しなければならないため、問答無用で数学も理科もやらされることになる。


 難解な数式と格闘し、既に数十分が経過していた。こんなことでは今度の試験が思いやられるが、もともと数学や理科は得意ではない。


 理科に関しては生物と化学なので、丸暗記すれば問題は無い。が、数式を相手に作業をせねばならない数学は、昔から美月との愛称が悪かった。


「やっぱり駄目だよね、数学は……。もう、頭にりんごでも置いて勉強するしかないのかなぁ……」


 一昔前に、どこぞの雑誌に載っていた頭のよくなるジンクスを思い出した美月が呟く。頭の上に乗せたりんごを落とさずに勉強することができたならば、その時に学んだ内容は驚くほどよく身につくという話だ。


 はっきり言って、かなり眉唾もののジンクスではある。それでも、こういった時に神頼みしたくなるのは、やはり人間の性だろう。この前はそれが原因でとんだ災難に巻き込まれたが、頭にりんごを乗せるだけならジョーカー様より罪はない。


 およそ馬鹿馬鹿しい話だとは思っていたが、美月は冷蔵庫の中からりんごを取り出すべく席を立った。ちょうど気分転換もしたかったことだし、いつまでも難問の前で頭を抱えていても仕方が無い。少し季節外れではあるが、勉強の後は使ったりんごでもかじって頭をリフレッシュしよう。


 そんな事を考えて部屋の扉に手をかけた時、机の上に置かれていた携帯電話が唐突に鳴り出した。着信音からして、どうやらメールらしい。


(後で確認すればいいかな……)


 一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、先日のジョーカー様の一件もある。また、おかしなメールでも送られてきていたらたまらない。


 自分はこのメールを見なければならない。なぜかそんな気がして、美月はとり憑かれたように携帯電話を手に取った。中を開けて確認すると、メールは優香からだった。立て続けに、二件もメールが送られてきている。


「こんな時間に、なんだろう……」


 時計を見ると、既に時刻は夜の十時を回っている。高校生が電話やメールでやり取りする時間としては遅いものではないが、試験を控えている時に、立て続けに二件もメールを送ってくるとはどういうことか。


 何か、勉強のことで相談でもあるのだろうか。そう思ってメールを見た美月は、その内容に思わず怪訝そうな顔して眉根を寄せた。



―倉持優香はワタシのにえとなった。


―助けたくば、森下公園まで来るが良い。



 最初のメールには、それだけしか書かれていない。慌てて次を見てみると、それは更に奇妙なものだった。



―儀式を仕損じた者には死の制裁が下る。


―次は、キミにしてあげようか・・・・・・?



 明らかに脅迫と受け取れる奇妙なメール。こんなメールを、優香が送ってくるはずがない。そして、今の美月に思い当たる節はただ一つだ。


「そんな……。どうして……」


 あまりの事に、携帯電話をつかんだまま呆然と立ち尽くす美月。儀式と、そして死の制裁。この言葉から想像できる相手は一人しかいないのだ。



――――ジョーカー様。



 警察に相談したことで、一連の事件は変質者の嫌がらせという話で落ち着いていた。夜間のパトロールも強化されているようだったし、ここ数日はメールも手紙も送られてくることはなかった。そのため、美月はジョーカー様の祟りなど、すっかり終わった事と思っていたのだ。


 ところが、そう思った矢先にジョーカー様と思しき相手からメールがあった。しかも、優香の携帯電話を通してである。恐らくは、何らかの方法で手に入れた優香の携帯を使ったのだろう。だとすれば、急がないと優香の身が危ない。


 ジョーカー様の事件は終わってはいなかった。そう思うと、美月はいてもたってもいられなくなり、階段を駆け下りて家を飛び出した。出かける際に両親が何か言っていたようだが、今の美月には頭に入らなかった。


 夜の路地裏を抜け、美月はメールにあった森下公園へと急ぐ。警察に連絡するという選択肢は、既に頭の中から抜けていた。息を切らしながら公園の入り口へたどり着くと、そこから先は真っ暗な闇が大きな口を開けて待ち構えていた。


 普段なら、決して一人でくることなどない夜の公園。痴漢に襲われやしないかという不安が頭をよぎるが、そんな事を言っている場合ではない。


 辺りの様子を探るようにしつつ、美月は公園の中へと足を踏み入れた。入り口付近には遊具が並び、その奥には中央の広場へと続く並木道が伸びている。そこを抜けると、噴水のある中央広場へと行けるのだ。


 園内の遊具を一通り見回してみたが、優香の姿は見当たらなかった。そうなると、残るは噴水のある中央広場である。


 夜の並木道は不気味だったが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。恐怖を押し殺し、美月は木々の間を中央広場めがけて進んでゆく。


 木々に覆われた場所は夏でも涼しいと言われているが、その日はどうにも蒸し暑かった。湿気を含んだ生暖かい風が吹き、否応無しに美月の恐怖感を煽り立てる。今にも何かが木の影から飛び出してきそうな感じだ。


 どのくらい歩いただろうか。いつもは数分で抜けられるであろう中央広場までの道が、今日に限ってやけに長く感じられた。知らず知らずのうちに、足取りが重くなっていたのだろうか。辺りを包む嫌な空気も相俟って、四方から闇が美月を押しつぶさんと迫っているように感じられて仕方が無い。


 もう少し行けば、目的の中央広場へ抜ける。そう思った矢先、美月の前に何かが風に舞いながら落ちてきた。闇の中でも妙に目立つ、白い色をしている物体だ。それが何かは分からなかったが、落ち葉の類ではないことだけは明白だった。

 

(なんだろう……)


 足元に落ちたその物体をつまみ上げ、美月は目を凝らしてそれを見た。


「ひっ……!!」


 次の瞬間、美月の顔が恐怖にひきつり硬直する。彼女が拾い上げたのは、落ち葉などでは断じてない。それは、一部を火であぶられたと思しき一枚のカード。半身を焼け焦げて失った、トランプのジョーカーだったのである。


 ジョーカー様の祟り。その言葉を思い出し、美月の背中を冷たい物が走った。やはり、祟りは実在したのか。それとも、これも変質者による単なる嫌がらせなのか。


 混乱する頭を落ち着かせようと、美月はなんとか平静を保とうと試みる。が、恐怖の感情は今や彼女の全身を支配し、冷静な判断力と言うものを奪い去っていた。


(このままでは危険だ!!)


 美月の本能が直感的にそう告げたとき、黒い塊が彼女の真上から降ってきた。漆黒のローブに身を包み、顔はフードと白塗りの仮面で隠されている。仮面の目と口は三日月型に曲がっており、目頭には星の絵が書き込まれていた。



――――トランプのジョーカーだ!!



 目の前に現れた怪人の姿を見て、美月は即座にそう判断した。そうしている間にも、彼女の前に現れた怪人は、懐からなにやら鈍く光るものを取り出して構える。


 怪人が取り出したのは、農作業などに使う鎌だった。よく手入れがされているらしく、闇の中でもその刃先が微かに鋭い光を放っているのがわかる。怪人はそれを振りかぶると、そのまま美月の頭めがけて刃を大きく振り下ろした。


「……っ!!」


 刃が空を斬る音がして、美月の肩を掠めた。あと少し反応するのが遅かったら、あれを脳天に叩きつけられていたことだろう。


 次の一撃が来ることを予感し、美月は慌ててその場から逃げ出した。相手が何者かは分からないが、武器を持った者に丸腰で、しかも女の自分が勝てるはずがない。


 悲鳴を上げることさえ忘れ、美月は今来た道を戻るようにして走った。その後ろからは、鎌を持った怪人がこちらを追って走っている足音が聞こえてくる。怪人の足はかなり速いらしく、足音は瞬く間に美月のすぐ後ろまで迫ってきていた。


「あっ……!!」


 慌てていて足元をよく見なかったのが災いした。道に転がっていた何かにつまずき、美月はバランスを崩して転倒する。ひざを大きくすりむいてしまったようだが、不思議と痛みは感じなかった。そんなことよりも、怪人に追われている恐怖の方が、よっぽど大きかったからだ。


 美月が転んだと同時に、後ろから追いかけてくる怪人の足音もまた止まった。地面に腰をつけたまま振り返ると、そこには先ほどの怪人が、鎌を構えて美月のことを見下ろしていた。


 ザクッという音がして、美月の首のすぐ横に鎌が振り下ろされた。銀色に光る刃が地面に突き刺さり、その鋭さを物語っている。


 怪人は攻撃を外したのではなく、意図して美月の首筋に鎌を振り下ろしたようだった。動きを止めるため、威嚇の意味も込めての攻撃だったのだろう。その証拠に、仮面の怪人は未だ動けないでいる美月の首めがけて、こんどは白い手袋に包まれた手をまっすぐに伸ばしてきたのだ。


 怪人の手は、美月が思っていたよりもずっと小さかった。よく見ると、背丈も決して高い方ではない。せいぜい美月と同じくらいか、もしかするとそれよりも低いだろう。


 だが、そんな小柄な外見に反し、怪人の力は凄まじいものがあった。動けない美月の首を容赦なく締め上げ、そのまま体を持ち上げる。


「かっ……はっ……」


 何かを叫ぼうとしたが、代わりに出たのはかすれた声だけだった。なんとか相手の手を引き剥がそうとするが、まったく力が入らない。腕がしびれ、意識も朦朧としてきた。これが本当に、自分と同じくらいの体格をした人間の成せる技なのだろうか。


 もう、これ以上は意識がもたない。諦めに近い感情が美月を支配しようとした時、ふいに仮面の怪人が首を締め付ける手が弱まった。怪人は仮面の奥から美月を見つめ、獣が唸るような低い声でしゃべりだした。


「オマエは……助かりたいか……?」


 地獄の底から響いてくるような、低くしわがれた声だった。仮面越しに語りかけてきているというのに、その口からは怪人の息が直接かかってくるような臭いが放たれる。獣臭い、鼻をつくような臭いだった。


「もう一度聞くぞ……。オマエは……助かりたいか……?」


 怪人が再び尋ねた。返答しようにも声の出せない美月は、なんとか首を動かして小さく頷くしかなかった。


「では、今から私の言う条件を呑め。その約束を守れば、オマエは助けてやろう……」


 美月が頷いたことを確認し、怪人は満足そうな口調で言った。


「中原雅史……。あの男に、金輪際近づくな。その約束を破れば、次はない。オマエも……オマエの友人もな」


 意外な人物の名前を口にされ、美月の顔に困惑の色が浮かんだ。


 火乃澤高校サッカー部のキャプテン、中原雅史。ジョーカー様は、彼と何らかの関わりがあるというのか。


 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。このままでは、本当に目の前の怪人に殺されてしまいかねないのだ。


 とにかく今は、この場を切り抜けることだ第一だ。そう考えた美月は、先ほどと同じように小さく頷いて見せた。すると、相手はそれに安心したのか、美月の首を締め付ける手が再び弱まった。


 これで助かった。まだ事情はよく飲み込めていなかったが、とにかく殺されないで済んだのだ。目の前にいる怪人の正体も気になったが、今はとにかく命を奪われなかったことを喜ぼう。


 ところが、そう美月が思った時、怪人は彼女の首を今までにないほどの力で締め上げた。指の一本一本が首筋に食い込み、骨のきしむ音さえ聞こえてくるような錯覚を覚える。


 苦しい。これでは息をするどころか、頭に血を送ることさえもできない。


 頚動脈を締め付けられ、入間美月の意識はそのまま深い闇の中へと落ちていった。美月が意識を失ったことを確認し、怪人はそのまま彼女の体を公園に植えてある木の側に放り投げる。そして、糸の切れた人形のように動かなくなった美月の姿を眺めると、そのまま暗闇の中へと姿を消した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 体を伝わる冷たい地面の感触に、美月は思わず飛び起きた。


 公園の暗がりの中、恐る恐る辺りの様子を見回して立ち上がってみる。腕に巻いた時計を見ると、既に時刻は午前一時を回っていた。どうやら随分と長い間、意識を失っていたらしい。


「私……助かったの……?」


 首筋にはまだ少し痛みが残っていたが、立って歩けないわけではない。確かめたいことはたくさんあったが、それよりも今は優香の事が心配だ。


 送られてきたメールの内容を信じるならば、優香もまた森下公園の中にいるはずである。怪人に行く手を阻まれて捜すことのできなかった中央広場。そこに行けば、もしかしたら優香もいるかもしれない。


 一瞬、既に優香は怪人に殺されてしまっているのではないかという不安がよぎった。が、すぐにその考えを頭の中で打ち消すと、美月は中央広場へと通じる並木道を再び走り出した。


 夜風が美月とすれ違い、半そでの服からむき出しの腕には鳥肌が立っていた。夏とはいえ、まだ梅雨も完全には明けていない。怪人の現れた時に吹いていた、生暖かい風は影を潜めている。それ故に、深夜は日中よりも冷えるようだった。


 並木道を抜け、美月の前に開けた場所が姿を現す。大きな噴水のある、森下公園の中央広場だ。


 深夜の公園には人影はなく、それは中央広場とて一緒だった。辺りはしんと静まり返り、噴水にたまった水が風に吹かれ、微かな波紋を立てている。


 一見して、何の変哲もない夜の公園である。が、それでも美月は、噴水の中に倒れている人の影を見落とすことはなかった。


「優香!!」


 噴水のへりに、まるで打ち捨てられたようにして仰向けに倒れている倉持優香。その姿を見た美月は、我を忘れて彼女の側へと駆け寄った。


 仰向けになって倒れている優香を噴水の中から引きずり出し、美月はその胸に耳を当ててみた。


 まだ、息はある。どうやら殺されたわけではないようで、美月と同じく気を失っていただけらしい。


 優香の体を噴水の近くにあったベンチまで運ぶと、美月はその肩をゆすって懸命に意識を取り戻させようと試みる。


「うっ……」


 程なくして、倉持優香は美月の目の前で目を覚ました。それを見た美月は思わず優香の手を取って喜ぶが、対する優香の表情は暗かった。


 聞くところによれば、彼女もまた奇妙なメールで呼び出され、この森下公園にやってきたらしい。そして、中央広場まで来たところで、何者かに襲われて噴水の中に沈められたというのだ。


「ねえ、優香。送られてきたメールだけど、今、ここで見ることができる?」


「うん……。でも、たぶん無理だよ。私の携帯、噴水の水に漬かっちゃったから……」


 そう言って、自分の携帯を取り出す優香。彼女の言う通り、噴水に水没したそれは使い物にならなくなっていた。


 なんとも後味の悪い話だったが、いつまでもこんなところで休んでいるわけにはいかない。うかうかしていると、またあの怪人が姿を現さないとも限らないのだ。


 ずぶ濡れの優香をそのままにしておくのは気が引けたが、それでも美月は彼女の手を取って公園の出口に向かい歩き出した。


 ここまで恐ろしい目に合わされて、そのまま家に帰るわけにもいかないだろう。頼りになるのかどうかは分からなかったが、美月達は近所の交番まで歩いて行くことに決めた。


 程なくして、交番の明かりが見えてきた。夜の街は人通りもなく、闇に包まれて静まり返っている。そんな中で、派出所の明かりだけが薄ぼんやりと辺りを照らしている。


「す、すいません……」


 夜勤の制服警官を目にして、美月と優香は恐る恐る派出所の中へと足を入れた。普通、こんな時間に女子高生が歩き回っていれば、補導されてもおかしくはない。だが、そんなことよりも、今はこの警官に保護してもらうことの方が大切だった。


「どうしたんだね、こんな時間に……」


 夜中に訪れた突然の来訪者。未成年の少女で、しかも片方はずぶ濡れとなれば、交番勤務の警察官もただ事ではないと察することができる。


 夜勤の巡査は美月と優香の姿をしげしげと眺めながら、何があったのかを尋ねようとした。そして、美月を椅子に座らせたところで、その視線は彼女の首筋に釘付けとなる。


「き、君……。その、首の痕は……」


 美月の首には、あの時の怪人によってつけられた指の痕がくっきりと残っていたのだ。暴漢にでも襲われたのかと思い、巡査はとりあえず美月達を落ち着かせることにした。二人の前にお茶を出し、警邏に出ていた相方も無線で呼び戻す。


「それじゃあ、とりあえず、何があったのかを聞かせてくれるかい?」


 ある程度の落ち着きを取り戻したと見て、巡査は美月達に尋ねた。


「はい……。実は、私のところに変なメールが来て……そのメールにしたがって公園に行ったら、急に襲われたんです」


「襲われた? それは、君の知っている人だったかい?」


「わかりません。変なローブと仮面で姿を隠していて、男なのか女なのかも……」


「それじゃあ、変質者ってことなのかな……? その人物に、君たちは何かされたのかい? まあ、言いたくなければ構わないが……できる限り、話してくれるかい?」


 暴漢に襲われたとなれば、少女達が性的な暴力を振るわれている可能性もある。問題が問題だけに、こういった被害者への対応は慎重にならざるを得ない。


 もっとも、美月達は首を締められて脅されただけで、それ以外には何もされてはいなかった。全てを聞き終えた巡査は、しばし難しい顔をして考え込んだ。


 警察署の方から連絡のあった、ストーカー事件。警邏の人数を増やしていたにも関わらず、このような被害が出てしまったことは遺憾である。


 だが、それ以上に疑問なのが、美月や優香を襲ったという怪人の存在だ。誘拐、レイプ、殺害など、ストーカーの考えそうなことは一切せずに、ただ脅かしただけである。それも許されざる罪ではあるのだが、どうにも犯人の要求しているものが分からない。


 結局、巡査一人の力では、納得の行く回答を出せそうになかった。その日にできたことは、せいぜい保護した美月と優香を自宅まで送り届けたことぐらいだろう。


 終わりを告げたと思われた、ジョーカー様の祟りを思わせる怪事件。警察の見回りをもあざ笑うかのようにして、怪人の恐怖は確実に美月達の現実を侵食し始めていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌日は生憎の曇り空だった。


 昨日の事件があってから、美月は再びふさぎこむ様になってしまった。亜衣の助けを借りて警察まで頼ったというのに、ジョーカー様の悪夢から逃れることができなかったのだ。


 あの後、家に帰ってからは、当然のことながらこっぴどく叱られた。まさに踏んだり蹴ったりの状況だったが、それでも学校というものは容赦ない。試験という名の現実的な問題もまた、刻一刻と実施日が迫ってきている。


「まったく……。あんな目にあったってのに、テストの勉強なんかしてらんないわよ……」


 誰に聞かせるともなく、美月は昨日のことを思い出して独りぼやいた。


 ジョーカー様と思しき人物は、美月に奇妙な約束をさせて立ち去った。しかし、それでもジョーカー様の脅威が完全に消え去ったわけではない。いつまた、あの道化師の仮面をかぶった者が美月の命を狙ってくるかと考えると、おちおち通学もできやしない。


 このままでは終われない。そう思った美月は、クラスの仲間に昨日の一件を話してみることにした。例のジョーカー様を一緒にやった、あのメンバーである。


 倉持優香に関しては、昨日の公園で同じような体験を共有しているために話すことはない。彼女が向かったのは残る二人のメンバー、安西尚美と咲村理沙のところだ。


 残念なことに、尚美はその日、学校を休んでいた。もともと遊び人の気があっただけに、夜遊びが過ぎて翌日の授業に出られなくなることも何度かあったような生徒である。が、それでも試験前に夜遊びをするほど馬鹿ではないはずだ。


 どうにも腑に落ちない何かを感じながら、仕方なく美月は理沙のところに行ってみる事にした。


 教室の斜め右上に位置する席が理沙の席だ。幸い、今は誰とも話をしていないらしい。机から教科書を出しているところを見ると、次の授業の準備でもしているのだろうか。


「ねえ、理沙……」


「なんだ、美月か。どうしたの?」


「実は、私、昨日ね……」


 重苦しい口を開きながら、美月は昨晩の出来事を理沙に話した。優香と美月がジョーカー様と思しき人物に呼び出され、危うく命を失いかけたという話である。


 理沙は最後まで黙って聞いていたが、美月が話し終わったのを見ると、何やら安堵した表情で椅子にもたれかかった。


「なるほどね。実は、美月のもらったメールだけど……私のところにも来たんだよね」


「えっ……! そ、それで……!?」


「なんだか気持ち悪かったからさ。そのまま消して、無視したのよ。でも、結果としてはそれで良かったのかな。わざわざ出て行って、怖い思いをしなくて済んだしさ」


「ちょっと! それ、どういう意味よ!!」


 理沙から語られた事実を知り、美月が憤慨した様子で詰め寄った。


 確かに理沙は、他の女子に比べればサバサバした性格の持ち主だ。それに、先週の怪メールや手紙、動物死体のことを考えれば、妙なメールに警戒心を持ってしまうのもわからないではない。


 だが、それでも、友人が危ない目に合っているかもしれないというのに、その態度はないだろう。自分も人の事は言えないかもしれないが、せめて警察に連絡するなどはするべきだ。それなのに、メールを削除して自分だけ安全な場所で胡坐をかいているなど、あまりにも薄情な気がしてならない。


 人間、誰しも自分が可愛い。そんな話を思い出し、美月は理沙からの答えを待たずにその場を去った。確かに理沙とはそこまで深い付き合いではなかったが、まさか優香を見捨てるような真似をするとは思わなかった。


 女の友情なんて、所詮はその程度のものなのか。言いようのない虚しさを感じながら、美月は始業ベルと共に自分の席へと戻っていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 朝方から曇り空の続いていた天気では合ったが、午後にもなると本格的な大雨となっていた。午前中は湿気の多いむっとした空気が漂っていたものの、午後になってからやけに冷たい風が吹くようになっていたのだ。


 こういう場合、天気は激しい雨を伴う夕立となると、相場は決まっている。冷たい空気が吹き込むことで暖かい空気が一気に上空まで押し上げられ、巨大な入道雲を形成するためだ。


 普通の雨とはまた違った、激しく大地を叩きつけるような雨音が校舎に響く。ひさしの先端からは大粒の水滴が滴り落ち、時折空が明るく光って雷鳴が轟く。


 梅雨が明けようとしている側から、この大雨だ。九条照瑠は憎々しげに空を眺めながら、下駄箱の傘立てに置いてある自分の傘を手に取った。こんな土砂降りでは、傘もどこまで役に立つか分からない。その上、泥水が跳ね上がって、白いソックスにも染みがついてしまう。


 まったく、この季節の雨とは嫌なものだ。恵みの雨と分かっていても、登下校の際に感じる不快感はどうすることもできない。


 もう少し雨が弱くなるまで待ってみようか。そんな事を考えた時、照瑠は自分の前に一人の男子生徒がいるのに気がついた。どうやら傘を忘れてしまったらしく、半ば諦めたような顔をして空を見上げている。


「あの……」


 傘を忘れた男子生徒に近づいて、照瑠はそっと声をかけた。彼とは一度、図書室で面識がある。照瑠の記憶が正しければ、目の前にいるのはサッカー部のキャプテンである中原雅史だ。


「中原先輩ですよね。どうしたんですか?」


「君は……あの時の、図書室にいた子か」


「はい、九条照瑠です。先輩は、今日は誰かを待っているんですか?」


「いや、俺はただ傘を忘れただけだよ。朝は曇りだったから油断して、つい傘を忘れてしまったんだよな……」

 

「そうだったんですか。それじゃあ、私の傘を使ってください。ちょっと小さいかもしれませんけど、無地だから男の人が使っても変じゃないと思いますよ」


 この間の図書室での一件もあり、照瑠は持っていた傘を差し出した。片づけを手伝ってもらった手前、何もせずに自分だけ帰るというのも気が引ける。


「でも、その傘がなかったら、君が困るんじゃないかい?」


「大丈夫ですよ。夕立なんて、ちょっと待ってればすぐ止みますから。それまで、私は図書室に残って勉強してます」


「そうかい? それじゃあ、ここは後輩のご好意に甘えさせてもらおうかな?」


 その日は運悪く、雅史は必要な勉強道具の一部を家に置いてきたままだった。ロッカーに勉強道具を押し込んでいるような者とは違い、学校には必要最低限の物しか持って来ていない。自宅で試験勉強をしなければならない雅史にとって、照瑠の提案は渡りに船だった。


 照瑠の手から傘を受け取り、雅史は豪雨の中へと出て行った。照瑠はしばらくその後姿を見送っていたが、やがて自分も図書室に向かって歩き出した。


 雨が止むまでは、もうしばらく時間がかかるだろう。それまでは、図書室で出された宿題でも片付けているとしようか。


 今すぐに帰る手段を失ってしまってはいたが、照瑠は別に不自由とは思っていなかった。先日、図書室で世話になった先輩に借りも返せたことだし、気分はすっきりとしていた。


「さあてと……。それじゃあ、私は独り勉強、勉強っと」 


 足元に置いた鞄を拾い上げ、照瑠は下駄箱を去ってゆく。その後ろからは異様に鋭い視線が彼女を狙っていたのだが、妙に晴れやかな気持ちになっていた照瑠がそれに気づくことはなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 図書室での勉強は比較的調子よく進んだ。既に学校の中には残っている生徒も少ないのか、昼休みとは違い人気がないのも幸いした。


 ふと壁の時計を見てみると、時刻は既に六時を過ぎていた。これ以上残っていては、さすがに先生に見つかった場合怒られてしまう。それに、いつまでも残っていれば事務員の人にも迷惑になるだろう。


 机の上にある勉強道具を手早く片付けると、照瑠は事務員の女性に一礼して図書室を出た。他の教室は既に電気が落ちているらしく、廊下も図書室のある二階より上は、やはり電気が落ちているようだった。


 夏至を過ぎて間もない頃とはいえ、夕刻の学校はどこか薄暗かった。何があるわけでもないのだが、いつも賑やかな場所が閑散としている光景は、どこか心に不安を覚えさせるものである。


 下駄箱から靴を引っ張り出すと、照瑠は何かに急かされるようにして外へ出た。夕立は既に止んでおり、傘なしでも帰る分には問題ない。


 校門を抜け、いつもの帰り道を早足で歩く。雨上がりの空気は、どうにも湿気が多くて好きになれない。まるで地面から、何か目に見えない嫌なものが湧き上がってきているかのように感じてしまう。夕方とも夜ともつかない微妙な時間も相俟って、街を覆う空気が全体的に薄気味の悪いものに感じられた。



――――逢魔おうまが時。



 以前、父から聞いたことのある言葉を思い出し、照瑠は思わず辺りを見回してしまった。


 夕方と夜の間は、昔から魔に遭遇しやすい時間帯だと言われている。迷信だと思いたいところだが、神霊の存在を完全に否定しているわけではないだけに、どうしても気になってしまうのだ。


 その日に限って、照瑠が通学路として使用している道には人の影がまったくなかった。激しい雨が降ったために出歩いている物好きもいないということなのだろうが、それならば、先ほどからつきまとうこの不安な感じはなんなのだろうか。


 自分の言うのもなんだが、照瑠の直感は人一倍鋭い。こと、不吉を察知する力に関しては、並みの人間の数倍はあるだろう。これも、今は亡き母や祖母の持っていた、神社の巫女としての力に起因するものだろうか。


 己の力の正体こそ分かってはいなかったものの、照瑠は自分の感覚だけは信じることにしていた。こういう時は、必ず何か嫌なことが起こる。数週間前に起きた例の猟奇殺人事件でも、照瑠は闇の中から自分を狙う魔物の気配を感じ取っていたからだ。


 雲行きが怪しくなれば、いつまでも同じところにとどまるのは得策ではない。そう判断するが早いか、照瑠は小走りにその場から駆け出した。路地を抜け、四つ角を曲がり、社務所を兼ねた自宅へと足を急がせる。


 革靴が地面を叩き、時折、水溜りを蹴って水の跳ねる音がした。目の前にある曲がり角を曲がれば、その先は田んぼに繋がる道に出る。田んぼ沿いに歩いてゆけば、九条神社はすぐそこだ。


 ところが、照瑠が角を曲がったその瞬間、彼女の前に何やら紙切れのようなものが落ちてきた。顔にぶつかったそれを手にとってみると、それは一枚のトランプの札だった。


「なに、これ? トランプの……ジョーカー?」


 こんなところで、なぜトランプのジョーカーが落ちてくるのだろう。あまりに突然のことで頭が回らなかった照瑠だが、そんな彼女をあざ笑うかのようにして、今度は一つの黒い塊が姿を現した。


 魔法使いと見紛うようなローブに身を包み、その顔は道化師の仮面で覆われている。三日月のように曲がった口と目が、白塗りの顔の中で一際目立って見える。


「な、なんなの……」


 目の前に現れた怪人物の姿に、照瑠はただそれだけを口にするのが精一杯だった。この奇妙な人物は何者で、何が目的なのか。そして、照瑠の前に現れた理由は何なのか。


 あまりに奇妙なことが立て続けに起きすぎて、照瑠の頭は完全に混乱していた。が、そんな気持ちは直ぐに消え去り、照瑠は自分が逃げ出さなかったことを後悔することになる。


 照瑠の前に現れた怪人は、突然ローブの中から手を伸ばし、彼女に襲い掛かってきたのである。その素早さは、人間というよりは獣のそれに近い。


 あまりに一瞬の出来事に、最初はなにが起きているのかさえも分からなかった。気がついた時には照瑠の首は怪人によって締め上げられ。その体が宙に浮いていた。怪人は照瑠よりも小柄だったが、その体つきからは信じられないような力で照瑠の体を持ち上げているのだ。


 怪人の正体も分からぬまま、だんだんと意識が朦朧としてきた。怪人の手は容赦なく照瑠の首を締め上げてゆき、徐々に呼吸が苦しくなってゆく。頭に血が回らず、締め付けるような頭痛が照瑠を襲った。



――――もう、駄目だ……。



 そう、諦めかけた時、照瑠の頭の中を様々な記憶が走った。走馬灯というやつだ。家族や友人との思い出が頭を駆け巡り、更に意識が混沌としてゆく。


 だが、そんな状態にも関わらず、照瑠は最後の力を振り絞って怪人の手をつかんだ。


 先ほどは危うく諦めるところだったが、やはりこんなところで理由も分からずに殺されてしまうなどはごめんだ。自分にはまだ、やりたいことがたくさんある。それに、父親や友達を残して自分が死ねば、周りにも悲しい思いをさせることになるに違いない。


 例え適わないと分かっていても、照瑠は抵抗をやめるつもりはなかった。怪人の手をつかんだまま、なんとかその手を振り解こうと力を込める。


 次の瞬間、照瑠は自分の手が一瞬だけ光を帯びたような感覚にとらわれた。同時に怪人の手が緩み、照瑠はそのまま地面に投げ出される。


 喉を押さえて咳き込みながらも、照瑠は怪人の方を横目で見た。どうやら相手に何かあったらしく、怪人が胸の辺りを押さえてもがいている。


(苦しんでいる……? いや、何かを抑え込もうとしているの?)


 なぜ、そんな事を思ったのかは照瑠には分からなかった。それ以前に、怪人がなぜ急に手を離したのかさえも分からなかったのだ。


 しかし、目の前で怪人が苦しんでいるということだけは、列記とした事実に他ならなかった。何を抑え込もうとしていたのかは分からないが、どうやら相手は相当に体力を使ってしまったようだ。肩を上げて呼吸を乱し、仮面ごしにも荒い息をする音が聞こえてくる。


 仮面の奥から放たれる、畏怖とも憎悪とも受け取れる視線。それだけを残し、怪人は照瑠の目の前で地面を蹴った。


「嘘! 飛んだ!?」


 照瑠がそう勘違いしたのも無理はない。仮面の怪人は一度の跳躍で近くにあった民家のブロック塀の上まで跳び上がり、その次は瓦屋根の上に跳び上がったのだ。


 並みの人間では真似することさえ難しい、忍者顔負けの動きである。そうして怪人は次々に屋根を伝い、照瑠の視界から消えてしまった。


 およそ、人間とは思えないあの動き。いったい、あれは何だったのか。分からないことは多くあったが、確実に言えることはただ一つだ。


 あの、奇妙な怪人は、照瑠の命を狙っている。今はなんとか振り切ることができたかもしれないが、何時、どこでまた襲い掛かってくるとも限らない。


 通り魔なのか、それとも何かの目的があってのことなのかまでは想像もつかなかったが、今の照瑠にとって、そんなことはどうでもよかった。ただ、この恐怖から逃げ出したい。その一身で、照瑠は逃げるように家までの帰り道を走り去った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 雨の日の翌日はよく晴れる。必ずしもそうでないことは知っていたが、それでも犬崎紅にとって、お気に入りの場所で過ごせることは何よりであった。今日もまた、彼は校舎脇にある大きな木の影で転寝をしている。


 赤い瞳と白い肌。紅の体は知る者が見れば、一目で先天性の色素欠乏症と分かる。それにしては虚弱に程遠い体つきをしているが、それでも直射日光に弱いのは代わりがなかった。こと、夏の照りつけるような日差しの前には、さすがの紅も完全に参ってしまうのだ。


 正直なところ、曇りや雨の方が紅にとっては過ごしやすい。だが、時として雨は、陰鬱で湿った気を運んでくることもある。特にこの火乃澤町は、陰の気が常に流れ込んでくるような土地柄だ。外法を操る者とはいえ、必要以上に陰の気が強くなるのを紅は好まなかった。


 試験前ということで、昼休みも校舎の外に出ている生徒は少ない。大方、試験の勉強でもしているのだろう。こんな日に勉強一つせずふらふらしているのは、自分と一部の不良連中だけだろうと紅は思った。


 もっとも、紅にとっては定期テストなど興味の欠片もないものだった。自分がこの火乃澤高校に入学したのは、単に仕事の事情、より詳しく言うならば、九条穂高との約束を守るために他ならない。それ以外のことには、はっきり言って興味などない。


 自分は所詮、裏の世界に生きる住人だ。高校生の身分など、表の世界を渡り歩くための仮初のものでしかない。だからこそ、こうして人気のない木陰で過ごすことが日課となっている。


 さすがに今日は、この場所に来る者もいないだろう。そう思って転寝の続きをしようとする紅だったが、その安眠はものの数分としない内に破られることとなった。


「大変、大変、大変!!」


 けたたましい叫び声と、こちらへ向かってまっすぐに駆けてくる足音。安物の目覚まし時計顔負けの、なんともやかましい騒音だ。いつもなら無視して眠ってしまうところだが、あまりに大きな声だけに、さすがの紅も飛び起きた。


「なんだ、嶋本か……。昼日中から変態・・を連呼するなんて、校内に痴漢でも入り込んだか?」


「ちっがーう! 変態じゃなくて、大変だって言ったの!!」


 紅の前に現れたのは、先日も彼の下にやってきた嶋本亜衣だ。今日は友達を連れているわけではなさそうで、彼女一人の姿しかない。


「真昼間から、いったい何の騒ぎだ? また、妙な妖怪でも現れたか?」


 昼時のささやかな安眠を妨害した罪は重い。亜衣のことだから、どうせまた信憑性の欠片もない都市伝説の話でも持ってきたのだろう。確かに自分は闇を払うことを生業としているが、何でも呪いだの祟りだのに結び付けて話をされてはたまらない。


 ところが、そんな紅の予想に反し、亜衣の表情は極めて真剣だった。


「悪いけど、今日は私の趣味の話をしに来たんじゃないんだよね。例のジョーカー様のこと、覚えてる?」


「ああ。だが、前にも言っただろう。俺には呪いを鑑定する力なんてありはしない。そっちが呪いだの祟りだのと言ってきたところで、すぐに何でも解決できるわけじゃないぞ」


「それは別に、もういいんだよ。そんなことより、大変なの! 例のジョーカー様だけど、なんと昨日、照瑠が襲われたんだよ!!」


「なんだと……!!」


 そこまで聞いて、初めて紅の表情が変化した。いつもの眠たそうな瞳が一変し、狼の如し鋭い目つきへと変化する。


 亜衣とその友人の与太話でしかないと思っていたジョーカー様が、九条照瑠を襲ったという事実。変質者の扮した単なる通り魔なのかもしれないが、それでも紅には気になった。


 巫女の力を完全なものにするまで、九条照瑠を穢れから守ること。九条穂高とかわした約束だったが、紅は少々甘く見ていたようだ。穢れとは、何も悪霊だけを指すのではない。心を病みし現実世界の人間もまた、照瑠にとっては十分な穢れだ。


「その話……詳しく聞かせてくれるだろうな?」


 木陰でのんびりと寝ている場合ではない。制服についた砂を払い、紅はすっと立ち上がる。


 嶋本亜衣の話によれば、昨日の夕方から夜にかけての時間、照瑠はジョーカー様と思しき相手に襲われたらしい。もっとも、最初はただの変質者だと思っていたらしく、それがジョーカー様らしいということは、照瑠が亜衣に話してから分かったことだ。


 照瑠を襲った怪人を、亜衣がジョーカー様だと判断した理由。それは、日曜の夜に入間美月を呼び出して襲った怪人の話を聞いていたからに他ならない。容姿、やり口など、美月から聞いていたジョーカー様の特徴と、あまりにも酷似していたからだ。


「ねえ、犬崎君。やっぱりジョーカー様って、本当にいたのかな? もしかして、新種の妖怪か何かなの?」


「さあな。それはまだ分からん。ジョーカー様ってのは、比較的新しい都市伝説なんだろう? 妖怪なんてもんは、そう易々と誕生するもんじゃないしな……」


 妖怪などというものは、そう簡単に生まれたり消えたりするものではない。


 妖怪の正体は、その大半が歴史の影で差別されてきた人間に与えられた蔑称だ。後は、長い年月を経て霊的な存在が単なる幽霊の枠を超えて邪神に近づいた者か、もしくは生きながらにして自らの魂を悪鬼に変貌させた者である。


 どちらにせよ、妖怪と呼ばれる存在が誕生するには、それなりの時間を必要とする。誰かの創作である可能性も捨てきれないジョーカー様の儀式。それに伴って現れた怪人が、妖怪であるという可能性は極めて低い。


「私も最初は誰かの創作だと思ってたんだけどね。でも、照瑠を襲ったジョーカー様は、一跳びでブロック塀の上まで軽々とジャンプしたんだってさ。しかも、その後は屋根の上に跳び上がって、そのままどっかに行っちゃったらしいんだ」


「それで? ジョーカー様は、九条を襲うことを諦めたのか?」


「わかんない。ただ、殺されそうになった照瑠がジョーカー様の手を必死でつかんだ時、なんだか苦しんでたみたいだって言ってたよ」


「苦しんでいた……? なるほど、そう言うことか……」


 亜衣の話を聞き終わり、紅は独り納得した様子で呟いた。


 降霊術を思い起こさせる、あまりにでき過ぎたジョーカー様を呼び出す方法。


 動物の死骸を用いて相手を現実的な恐怖に陥れようとする手口。


 祟りという話でありながら、実際には誰かをとり殺すこともなく、物理的に相手を襲ったという事実。


 そして、人間離れしたジョーカー様の身体能力。


 これらを繋ぎ合わせて考えた場合、紅の中で出された結論は一つだ。即ち、ジョーカー様は幽霊ではない。増してや妖怪の類などでもない。


 ジョーカー様の正体。それは、間違いなく生きた人間だ。だが、ただの人間ではない。紅や照瑠と同じく、向こう側の世界・・・・・・・に通じる力を持った存在といって間違いはない。


「おい、嶋本。そのジョーカー様の儀式とやらをやった連中、もう一度集めることはできるか? 全員が無理なら、言いだしっぺだけ呼ぶんでも問題はないが……」


「言いだしっぺってことは、美月だね。わかったよ。美月も怯えているみたいだったし、ジョーカー様をやっつけてくれるっていうんなら、呼んであげるよ」


「ああ。成り行きだが、ジョーカー様の退治は引き受けよう。報酬に関しては、今回はなくていい。俺が今引き受けている仕事の一環として、その怪人とやらを叩き潰す」


「えっ、マジで!? タダのふりして、後で高額な請求書を送りつけてくるなんてこと、ないよね?」


「俺は悪徳商法のセールスマンか……。いいから、早く言いだしっぺを呼んで来い。急がないと、休み時間が終わってしまうからな」


「了解! それじゃあ、すぐに美月を呼んでくるからね! 犬崎君は、そこで待っててね!!」


 そう言うが早いか、亜衣は脱兎の如く駆け出して、瞬く間に紅の前から見えなくなった。どうみても小学生にしか見えない体格をしているが、あの小さな体のどこにあれだけのバイタリティが隠されているのだろうか。


 だが、今はそんなことはどうでもよい。それよりも、重要なのはジョーカー様の正体だ。


 紅がジョーカー様が人間であると判断した理由は、照瑠に腕をつかまれて苦しがったという亜衣の話を聞いてからだった。


 九条照瑠の持つ、巫女としての潜在的な能力。彼女自身に自覚はないようだが、極めて強力なヒーリングの力を持っているらしい。それは、以前の猟奇殺人事件で彼女と初めて会った時に知っている。


 霊的な存在が人間の魂そのものに傷を与えることを、紅は霊傷れいしょうと呼んでいる。それらの霊的な負傷を治すのがヒーリングの力だが、なにもそればかりではない。


 ヒーリングは、その力を集中することで現世を彷徨う霊を成仏させることも可能とする。神霊に関わる人間の間では、浄霊と呼ばれる能力だ。


 照瑠の力を受けてジョーカー様が怯んだということは、ジョーカー様の中に霊的な何かが存在していたという可能性を意味する。照瑠の力を受け、その霊的な何かが浄化されそうになって力が弱まったのだ。つまり、照瑠や美月を襲ったジョーカー様は、霊的な存在の力を利用して超人的な存在となっていた可能性が高いのである。


 ここに来て一月と経っていないにも関わらず、再びこの火乃澤町で向こう側の世界・・・・・・・に関する事件が起きた。やはりここは、陰の気が流れ込むことを宿命づけられた場所ということか。


 紅のいる木の下を風が吹き抜け、白金色の髪が微かに揺れた。それに呼応するようにして、紅の下にある影もまた揺れる。それは、まるで獣が何かを見て興奮しているような気を放っていた。


 都市伝説サイトの書込みから始まった、ジョーカー様に関係する一連の事件。謎の怪人が照瑠を襲った理由は未だ不明だったが、それでも紅にとっては戦うのに十分な理由は整っていた。


「待っていろ、ジョーカー様。貴様の正体、この俺が必ず暴いてやる……」


 赤い瞳が光り輝き、紅は道化師の怪人の姿を思い浮かべて呟いた。その言葉に合わせ、影がゆっくりと起き上がり、犬のような形になった。

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