~ 四ノ刻 正体 ~
N県警火乃澤署。
署内の一室に置かれた自分のデスクで報告書の山と格闘すること数時間。工藤健吾は既に出来上がった報告書の束をまとめて大きく伸びをした。
火乃澤署は、俗に所轄と呼ばれる県警管轄の小さな警察署だ。もっとも、小さいとはいえそこは腐っても警察署。県警本部には及ばないものの、それなりの人員と設備は配置されている。ここより田舎の村には交番勤務の駐在しかいないことを考えると、東北の閑静な町の警察署としては恵まれているほうだろう。
そんな火乃澤署での一日は、特に代わり映えの無い平穏無事なものだった。数週間前には前代未聞の猟奇殺人事件が町を震撼させたものの、その前後で特に大きな事件があったわけではない。
だが、事件がないのは警察官としては望ましいことであるものの、決して暇になるわけではない。公務員である以上、警察官も公務に縛られて仕事をせざるを得ないのが現状だ。
刑事ドラマなどでは、よく主人公が独断で捜査を行ったり公道のど真ん中で銃撃戦を始めたりするが、あんなことは現実的に考えてまず起こり得ない。犯罪者と戦うのも警察官の仕事だが、それ以上に書類関係の作成や報告が多いのが普通なのである。
「とりあえず、これで僕の担当分は終わったかな……。しっかしなぁ……どうして僕ばっかり、こんなに書類の整理をしなけりゃなんないんだろうね」
思わず文句を言いながら時計を見ると、時刻は既に昼を過ぎていた。周りを見ると、昼食の休憩に入り始めている同僚の姿も目に入る。仕事にかかりきりになりすぎて、どうやら弁当を食べることも忘れてしまっていたようだ。
優雅に外で食べている時間はないだろう。そう思った工藤は、仕方なしに机の上で自分の弁当を広げ始めた。その際に、こっそりと課長の席を確認することも忘れない。
(よし、課長はいないな……。だったら、ここで食っても文句は言われないだろう)
天敵がいないことを確認し、工藤はさっさと昼食を平らげることにした。彼の部署の課長は、工藤を目の敵にしている節がある。そんな課長の前で弁当など広げたら、サボりと勘違いされて因縁をつけられかねない。
工藤の所属しているのは、火乃澤署の刑事課である。所轄の警察署で課長といえば警視か警部の階級に該当する人間が担うのが普通であり、火乃澤署の刑事課長は警部である。
だが、警部といってもキャリア組出身ではなく現場からの叩き上げであるノンキャリアだった。警視以上への出世が難しいと言われるノンキャリアの人間にとっては、若くして高い階級についている人間を毛嫌いする輩もいる。工藤の上司である刑事課長も、そういった類の人間だった。
工藤の階級は巡査部長。本来であれば主任を任されるほどの階級であり、未だ二十代でしかない工藤のような、それもノンキャリアの者が与えられる階級としては異例である。どことなく頼りない一面があるものの、警察官としての腕前はそれなりに確かなのだ。そんな工藤のことが、課長は気に入らないらしい。
警察組織内部における出世闘争。ドラマなどでもたまに扱われることのあるネタだが、これだけは真実のようである。おかげで今日も、課長に 膨大な量の書類整理を押し付けられてしまった。まったく、いつかパワハラで訴えてやろうかと思うくらいである。
出来合いのコンビニ弁当を平らげて、工藤は簡単な食事を終えた。口の中に残っていた米を流し込むようにしてお茶を飲むと、彼のポケットに入れた携帯電話が唐突に鳴り出した。
「はい、工藤です」
こんな時間に、いったい誰だろうか。相手を確認することもせずに、工藤は携帯を開いて電話に出た。
「あっ、刑事さんですか! 大変なんです!!」
電話の向こうから、聞き覚えのある声が響いてくる。妙に甲高くテンションの高い少女の声だ。
「その声……もしかして、あの殺人事件の時の子かい!?」
「そうです、そうです、大正解……って、そんなこと言ってる場合じゃないんです! 早くしないと、私たち殺されちゃいます!!」
「殺され……!? それはまた、随分と物騒だな……。だ、大丈夫なのかい?」
「今は大丈夫ですけど、明日には殺されるかもしれないんです! お願いです、刑事さん! かわゆい女子高生を、殺人鬼の魔の手から守ってくださいませ!!」
「わ、分かったよ。それで、どうすればいいんだい?」
「とりあえず、今日の夕方六時に、駅前の甘味屋に来てください! そこで全部話しますから! それじゃ!!」
言うことだけ言って、電話は一方的に切られてしまった。まったくもって、強引な話だ。
だが、仮に少女の言っていることが本当ならば、警察官として放っておくわけにはいかない。それに、書類整理ばかりのデスクワークにも飽きてきた頃だ。自分の担当分は終わらせているから、今日くらいは定時に帰ってもよいだろう。
数週間前に起きた猟奇殺人事件の際に知り合った二人の少女。事情を聞くために互いの連絡先を教えあっていたものの、まさかこうも早くその内の一人から電話があるとは思わなかった。しかも、その内容は殺人鬼から助けて欲しいという話である。
「まあ、単なる悪戯ってわけでもなさそうだしな。とりあえず、話だけでも聞いてあげるとしようか」
我ながらお人好しが過ぎると思いながらも、工藤は課長に残業を押し付けられる前に逃げ出す口実を見つけだして、内心はほっとしていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
工藤が駅前の甘味屋に到着したのは、実に待ち合わせの時間ぎりぎりのことだった。その日は書類整理だけで終わると思っていたのだが、予想外の仕事が飛び込んで来た為だ。
昼食を終えた後すぐに入った警邏からの連絡。なんでも近所のマンションで自殺があったとのことで、工藤たちはその現場まで急遽向かわねばならなくなったのだ。
現在、日本の自殺者は年間で三万人とも言われている。原因は様々なものがあるだろうが、今日の自殺はよりにもよって硫化水素を用いたものだった。一昔前、≪簡単に、しかも楽に死ねる≫などという噂がネットを中心に広まったためか、未だにこの方法で自殺する者が後を絶たない。
だが、現場で遺体を見た工藤は、そんな話など到底信じることはできなかった。硫化水素を吸い込んで、気味の悪い色に変色した皮膚。身体はパンパンに膨れ上がり、汚物を醜く垂れ流している。この姿を見ても≪硫化水素で楽に死ねる≫などと言える者がいたら、是非ともお目にかかりたいものだ。
つい先ほどまで気味の悪い死体を相手にしていたためか、甘味屋へ向かう工藤の足取りは重かった。警察官といえど、やはり死体を見た後に涼しい顔をして甘い菓子を食べられる者ばかりではない。
「なにやってんのよ、工藤君。これから助けを求めている人に会いに行こうってのに、あなたが疲れてたら話しにならないわよ」
工藤の横にいた細身の女性が彼の背中をはたく。
芹沢初美。N県警お抱えの監察医で、今日の現場にも居合わせていた。死亡の判定ができるのは医師だけなので、彼女のような監察医は自殺や事故の現場にも呼ばれることがある。
そんな初美が工藤と一緒にいるのは、彼女が同行を申し出たからに他ならない。いつもは上司であり先輩でもある岡田肇と一緒に行動している工藤が、今日に限って単独で行動しようとしたことに興味を持ったらしい。まあ、要するに、今回の事件に首を突っ込んできたというわけである。
甘味屋の扉をくぐり、工藤は店内に火乃澤高校の制服を着た者を探した。ふと見ると、店の一番奥の席に、それらしい客の姿がある。その内の一人は、小学生と見紛うほど小柄な身体つきをしていた。
間違いない。あれは、昼間に電話をかけてきた女子高生だ。
自分を呼び出した相手を見つけ、工藤は五人の女子高生が座っている長テーブルへと向かっていった。そこには彼の知り合いであり、今回の電話をかけてきた張本人、嶋本亜衣の姿がある。
「あっ、刑事さんじゃん! ちゃんと来てくれたんだ!!」
工藤の姿を見つけ、亜衣が席から立ち上がって手を振った。電話越しに話してきた時とはえらい変わりようだ。誰にでも友達のように接することができるのが彼女の長所なのだろうが、少しは年長者と付き合う際のマナーというものも知っておいた方がよい気はするが。
「悪いな。急に仕事が入って、ちょっと遅くなってしまったよ」
「仕事って……もしかして、殺人事件!?」
「残念だけど、捜査の内容は秘密にしなければならないからね。君たちに教えることはできないな」
「ぶぅーっ! ちょっとぐらい、教えてくれたっていいじゃないですか! ケチだなぁ……」
「ケチって……。そういう問題じゃないんだけど……」
先ほどから、相手のペースに飲まれてどうも話が横道にそれている気がする。このままでは本題に入れないと察してか、工藤はさっさと亜衣たちの正面にある椅子に腰掛けた。初美もその隣に座る。
「それじゃあ、さっそくだけど話を聞かせてもらおうか? 殺されるって話だったけど……」
「うん。でも、その前に……隣にいる女の人、誰? もしかして、刑事さんの彼女とか?」
「いや、彼女は監察医の人だよ。さっきまで仕事で一緒で、そのまま着いて来たってとこかな……」
「芹沢初美よ。よろしくね」
簡単な挨拶だけを済まし、初美が亜衣達の方を見る。その振る舞いに、五人の女子高生達の目が一瞬だけ釘付けとなった。初美から出る大人の女性のオーラに、一種の憧れに近いものを感じたのかもしれない。
「じゃあ、まずは……どうして君たちが殺されそうなのか、それを話してくれないか?」
再び話がそれていることを感じ、工藤は慌てて話を戻した。
「えっと……まあ、話せば長くなるんですけど……」
「できれば、なるべく簡単に頼むよ」
「うん、できるだけ頑張ってみる。けど、あんま期待しないでくださいね」
あくまで飄々とした態度を崩さずに、亜衣は工藤に一連の事件のことを話して聞かせた。ジョーカー様という都市伝説を試してから起きた、不可解なメールや手紙の件である。途中、詳しい説明が必要な部分は、美月達にも語ってもらったので間違いは無い。
亜衣が全てを話し終わった時、工藤はその内容を一つ一つ噛み締めながら頭の中で推理を組み立てていた。対する亜衣は相変わらず先の態度を変えていないが、残る四人の女子高生は、事件のことを思い出してかどこか表情が暗い。優香にいたっては、明らかに怯えた様子を見せている。
「話は分かったよ。ジョーカー様という儀式をやってから、変なメールや手紙が送られてきて……仕舞いには家に無残に殺された動物の死骸が置かれたってことだね」
「うん、そうだよ。みんなはジョーカー様の祟りじゃないかって言ってるから、刑事さんに相談したんだけどな」
「祟りって……なんでそれが、僕に相談する理由になるんだよ」
「だって、刑事さんは、前に犬崎君が化け物退治したのを見てたでしょ? だから、こういった類の話も信じてくれると思ったんだけど」
あくまであっけらかんとした態度で、亜衣はとんでもないことを口にした。
確かに、自分は数週間前に起きた猟奇殺人事件で、人ならざる者の力というものを見せつけられた。今までは妖怪だの霊だのといった話を信じてはいなかったが、それを境に多少はそういった類のものを信じるようになったのは事実である。
だが、だからといって、自分をオカルト刑事のように思われてしまうのは心外だ。幽霊の存在を信じていないわけではないが、そう簡単になんでも呪いや祟りで話を済ませてしまうほど現実離れした考えにとらわれてもいない。
頼られるのは悪い気がしないが、それでも都市伝説マニアの女子高生の話を全面的に信じるのもどうかと思った。そんな工藤に助け舟を出したのは、意外にも先ほどから一緒に話を聞いていた初美である。亜衣にペースを乱されっぱなしな工藤とは違い、あくまで毅然とした態度をとり続けている。
「ねえ、あなた達。ちょっと、私からも意見を言わせてもらっていいかしら?」
「監察医の先生ですよね。もしかして、ジョーカー様の正体が分かったとか!?」
「まあ、それに近いわね。あくまで医者の意見としてだけど……いいかしら?」
初美が許可を求めるような視線を工藤に送る。工藤はそれを、無言のまま目で答えた。医学の小難しい説明は分からないため、ここは一つ、初美に任せてみよう。
「ぞれじゃあ、まずはあなた達のやったジョーカー様とかいう儀式だけど……要するに、こっくりさんの亜種みたいなものよね」
「えっと……まあ、大雑把に言えば、そういうことになるのかなぁ……」
「この際、名前とか儀式の内容なんてのはどうでもいいわ。それより大切なのは、その儀式をした本人たちが、ジョーカー様の存在を信じているってことよ」
美月や尚美の顔を見回しながら、初美が意味深な台詞を吐いた。理沙は一瞬だけ否定するような顔をしたものの、やはり心のどこかでは不安だったのだろう。他の者と同じように、何も言わず初美の言葉に耳を傾けているだけだ。
「こっくりさんみたいな遊び……一般的にはテーブルターニングって言われるんだけど、あんなものは殆どがトリックか自己暗示の類なのよ。こっくりさんで十円玉が動くのも、自動書記っていう一種の暗示。その人間の深層心理が表に出たに過ぎないわ」
「そうなんだ……。でも、それとジョーカー様と、どんな関係があるんですか?」
「さっきも言ったように、大切なのは儀式を行った本人が霊的な存在を信じてしまっているということよ。あなた達のやったジョーカー様も、それは同じ。本当は霊なんていないのに、何か悪いことが起きると悪霊のせいだと思い込んでしまう。そうやって考えがどんどん悪い方向に進んで行くと、人間、歯止めがきかなくなるものなのよ」
「でも、美月たちの家には変な手紙や動物の死体まで送りつけられてきたんですよ」
「それは、何かの偶然よ。ジョーカー様とは関係なく、どこかの変態がストーカー行為に及んでいるだけなのかもしれないわ」
「そっか……。でも、言われてみれば、なんだか説得力ある気がする……」
普通の人間であればまず知らないであろうこっくりさんの正体。初美はそれを引き合いに出し、ジョーカー様が単なる妄想でしかないと言い切った。現実主義者の理沙は改めてその説に納得し、美月や尚美も珍しく感心した様子で聞き入っている。優香だけはそれでも心配そうにしていたが、相手がただのストーカーとなれば祟りよりは対策のしようがある。
「それじゃあ、とりあえずは僕の方で生活安全課の人たちに夜のパトロールを強化するように言っておくよ。僕は刑事課の人間だけど、手が空いたらそっちも手伝うからさ」
「わっかりました! やっぱ、刑事さんに相談して正解だったね。普通の警察官だったら、最初から馬鹿にして相手もしてくれないもんね!」
それは、自分が普通の警察官ではないということか。どうにも失礼な言われようだが、それでも工藤は我慢して亜衣の言葉を受け流した。結果論ではあるが、初美の助言で話が妙な方向に持っていかれることも防げたのだ。これで後は、生活安全課に話を持って行けば、万が一の事態も未然で防げる可能性が高くなるだろう。
結局、その日は工藤が亜衣や美月達から聞いた証言を署に持ち帰るということで話がついた。もっとも、オカルト的な部分は極力削り、あくまでストーカー事件として上げる予定だ。ジョーカー様の祟りなどという話でもしようものならば、それこそ課長からクビを宣告されかねない。
警察の協力という後ろ盾を得て、美月達の顔にも少しだけ安心の色が浮かんだような気がした。だが、そんな彼女達をあざ笑うかのようにして、次なる恐怖は確実に彼女達の前まで迫ってきていたのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
日曜日。
その日は火乃澤高校のサッカー部が、試験前に最後の試合を行う日であった。当然のことながら、マネージャーである美月と優香も試合会場へと足を運んでいる。
亜衣の誘いに乗って工藤刑事に相談した日から、ジョーカー様絡みと思われる事件はぴたりと止んだ。どうやら約束を果たしてくれたらしく、制服警官による夜間の見回りを強化してくれたらしい。その結果、そう簡単に猫の死骸だのカラスの死骸だのを人の家の前に置いて行くこともできなくなったのだろう。
警察の見回りが強化されたことで、事件はあっけなく終息を向かえた。やはり、あの芹沢初美が言っていたように、全ては思い過ごしだったのだろうか。だとすれば、これほど嬉しいことはない。未だストーカーが野放しになっているのは気になったが、久しぶりに枕を高くして眠れそうだ。
「先輩、お疲れ様でした!!」
試合を終えて戻ってきた一年生の男子にタオルやら飲み物やらを一通り渡すと、美月は最後にグラウンドから戻ってきた中原雅史にペットボトル入りの飲み物を手渡した。
「おっ! これ、俺の好きなスポーツドリンクじゃん」
雅史の手には既にタオルと飲み物が握られていたが、それでも彼は美月の手からもスポーツドリンクを受け取った。タオルなどは女子の先輩から既に渡されていたものだが、スポーツドリンクに関しては別だ。
試合前、美月はこっそりと雅史の好きなスポーツドリンクの種類を聞きだしておいた。そして、隙を見て試合中に買っておいたのだ。もちろん、マネージャーの仕事としてではなく、個人として雅史に渡すためである。
「先輩、もしかして、迷惑でした?」
既にタオルも飲み物も手にしていることから、美月は少し遠慮がちに聞いてみた。が、しかし、そこは紳士な雅史である。嫌な顔一つせずに、美月からもらった方のドリンクを先に開けて口にする。
「いや、そんなことないよ。むしろ、入間さんは気が利いている方だと思うよ」
「えっ……! そんなことは……」
「だって、俺の好きなドリンクを買うために、わざわざ試合前に話しかけてきたんでしょ? そういったことができる人って、意外といそうでいないもんだよ」
そう言って、雅史は美月の頭に軽く手を置いた。子ども扱いされているのかとも思ったが、美月はそれでも嬉しかった。何しろ、憧れの先輩にほめられたのだ。それだけでも、多感な時期の少女は舞い上がってしまうものである。
喜びを隠しきれない様子で、美月は優香の待つ試合会場の外へと走っていった。そこでは優香が一人、何をするでもなく立っている。辺りには他の先輩達の姿もあったが、大人しい優香はその場で少し浮いているようだ。
「あっ……美月ちゃん」
美月の姿を見つけた優香が、ほっとした様子で駆け寄ってきた。小学校の時からの付き合いだが、こうした仕草は昔から変わっていない。
「ごめんね、優香。中原先輩に渡したいものがあって、ちょっと遅くなっちゃった」
「中原先輩に……?」
「うん。先輩の好きなドリンク、先に買っといたんだよね。だから、それを渡しに行ってたってわけ」
「そうなんだ……」
それだけ言うと、優香はそのまま黙ってしまった。裏方仕事とはいえ、試合のために遠征したのが疲れたのか、それともまだジョーカー様のことを引きずっているのか。どちらにせよ、今日は早く帰ったほうがよさそうだ。
「ねえ、優香。なんか、少し疲れているみたいだけど……大丈夫?」
「うん、平気だよ。心配かけてごめんね」
「なに謝ってんのよ。私達、友達でしょ?」
こういう時、優香はどうも他人に気を使ってしまう癖があるようだ。それが分かっているだけに、見ている美月からすれば少々歯がゆいものがある。男子の中にはこういった女子の仕草に惚れる者もいるらしいが、友人相手に気を使いすぎるのもどうかと思ってしまう。
いつになく元気のない優香を背中を押しつつ、美月は遠くで呼んでいる先輩マネージャーの下に駆けていった。明日からは、ついに定期テスト一週間前となる。部活動も休止となり、本格的に勉強しなくてはさすがに成績が危ない。
(明日からは、勉強で缶詰になりそうね……)
これから一週間、地獄の戦いが続くことを覚悟しつつ、美月は優香と共に試合会場を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夕刻の空が赤く染まり、町を静かに照らしていた。梅雨も終わりに近づいているのか、今日は珍しく晴れている。が、それでも外を吹き抜ける風は、どこか湿気を含んでいて生暖かかった。
夕日に照らされた火乃澤高校の屋上で、犬崎紅はフェンス越しに赤く染まる町を見つめていた。眼下の景色を見下ろす彼の瞳もまた、西の空を染める太陽の如く赤い。
屋上は立ち入り禁止とされていたが、そこへ続く扉の鍵が壊れていることを紅は知っていた。日中は暑くていられないが、夕方から夜にかけては彼にとってのお気に入りの場所だ。こと、町をの景色を眺めるには調度良い場所である。
だが、紅は単に町の景観を眺めるためだけに屋上へと上がったのではなかった。気分の問題もあるが、誰にも見られない場所で自分の使役するものが帰ってくるのを待つ必要があったからだ。
程なくして、紅の前に一つの黒い影が姿を現した。フェンスや彼の体から伸びているものではなく、影だけがそこに存在しているのだ。奇妙なことはそれだけではなく、紅自身の体にもまた、影が存在していなかった。
現れた黒い影は紅の姿を見つけると、ゆらゆらと揺れながら大きく伸びた。地面からはがれるようにして起き上がり、黒い影は揺れながら球の様な塊と化す。その塊に手を伸ばし、紅は独り黒い塊に向かって問答を始めた。
「あの女の様子はどうだった?」
言葉を発する代わりに、黒い塊となった影が申し訳ない程度に揺れて答える。その揺れ方一つで、紅には影が何を言いたいのか分かるようだった。
「そうか……。結局、憑き物の類は見られなかったか……」
再び影が揺れる。紅はそれに答えずに、ただ目配せだけをして影に合図を送った。すると、影は全てを察したかのようにして、するすると紅の足元に収まっていった。
自分の体に影を戻し、紅は独り考える。
嶋本亜衣からジョーカー様の話を聞かされたときは、彼女に協力するつもりはまったくなかった。しかし、仮に相手が悪意を持った霊ならば、そんなものを照瑠のいる火乃澤高校にのさばらせておくのは気が引けた。
向こう側の世界に通ずる力を持つ者は、その世界に住む者ともまた引き合う関係に合う。本人が望む、望まざるは関係無しに、相手の方から近寄ってくるのだ。そして、その相手が悪意を持った者だった場合、照瑠の安全は保障しかねるのである。
我ながら考え過ぎかもしれないと紅は思ったが、それでも彼には照瑠の父、九条穂高と交わした約束がある。即ち、神社の跡取りとしての力をつけるまで、彼女に近づく悪霊や穢れを払うということだ。要は、対幽霊用のボディガードとでも言うべきか。
その約束があるだけに、紅も今回のジョーカー様には慎重になっていた。仮に悪意を持った憑き物の類だった場合、成り行きとはいえ自分が払わねばなるまい。そう思い、入間美月に自分の使役する犬神を放っておいたのだが、今回ばかりは勇み足だったようだ。
紅の使役する犬神、黒影が見張る中、ジョーカー様なる者は次の行動に出なかった。結局、単なる悪戯か嫌がらせだったのだろうか。そうであれば、自分の出る幕ではない。相手が人ならば、これは警察の管轄だ。
どこか釈然としないものはあったものの、紅は黒影を自分の体に戻して屋上を後にした。あの時、美月たちから感じた獣のような気配の正体が気になったが、今の段階ではこれ以上調べようもなかったのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
暗闇の中、ろうそくの明かりだけに支配された空間で、少女がぬいぐるみと対峙していた。彼女のいる場所は満足な灯り一つなく、窓でさえも内側から打ち付けられている。
旧講堂。火乃澤高校の使われなくなった施設の一つであり、今では封鎖されて久しい場所である。当然のことながら生徒の立ち入りは禁じられていたが、少女はそのようなことはまったく意に介していないようだった。
唯一の灯りである一本のろうそくに照らされて、少女は椅子の上に置かれたぬいぐるみを手に取った。ぬいぐるみの腹は何かで裂かれているらしく、辺りには詰めてあった綿が散乱している。
中身が全てなくなっていることを確認し、少女は代わりの詰め物をぬいぐるみの中に押し込んだ。それは他でもない、少女自身の髪の毛の束。以前、自分で切ったものを保管しておいたのだ。
黒髪を押し込め、人形の腹を再び糸で縫い合わせる。そして、ろうそくを挟んだ向こう側のパイプ椅子の上に置き、少女は何事かを人形に向かって話し出した。
ろうそくの薄明かりの中で、少女の独り語りが続けられる。一見して単に奇妙な光景にしか見えないが、これには立派な理由があった。
古来より、人の姿をしたものには魂が宿ると言われている。それは、動物を模った人形であっても同じことだ。少女の行っているのは、まさにその人形に魂を吹き込む儀式なのである。
ジョーカー様の力を取り込むまでは、自分の計画は完璧だった。が、何やら妙な力を持っていると言われる転入生に話を聞かれ、ついには警察まで動き出している始末である。このままでは、何もかもが計画通りに行くとは限らなくなるだろう。
「保険……かけておいた方がいいよね……」
椅子の上に置かれたぬいぐるみに手を置いて、少女がぽつりと呟いた。彼女の手の置かれたぬいぐるみの目が不気味に光った気がしたが、少女はまったく恐れるような素振りを見せない。むしろ、ひじょうに満足そうな笑みを浮かべ、ろうそくの火を吹き消してその場を立ち去った。