~ 弐ノ刻 警告 ~
梅雨もそろそろ明けるという時期、その日の火乃澤町は、いつにも増して陽射しが強かった。
夏である以上、暑いのは仕方のないことだ。しかし、こうも陽射しが強いと気が滅入る。十数年前は二十度代の後半が普通だった気温も、今では三十度代半ばを超えても、誰もおかしいとは口にしない。
地球の温暖化は確実に進んでいる。陽射しの強さにそれを実感しながら、九条照瑠は校舎の脇にあるベンチを目指して歩いていた。
昼時、この場所は昼食を摂る生徒でそれなりに賑わっている。が、今日のような陽射しの強い日には例外で、好き好んで屋外で食事をするような者もいない。県立の高校とはいえ、冷暖房はきちんと設置されている火乃澤高校である。こんな日は、誰もが冷房のきいた室内で過ごしたいと思うのが普通だ。
校舎の周りを囲うようにして作られた道は、コンクリートが熱を反射して異様に暑かった。それでも、少し進んで木陰に入ると、先ほどの暑さが嘘のように涼しい風が吹いている。
校舎と木の影で覆われた一角に、照瑠は探していた少年の姿を見つけることができた。やや早足で近づくと、その隣に自分も腰をかける。少年はそれを一瞬だけ横目で見たが、すぐに腕を頭の後ろで組んで木に寄りかかった。
「また、こんなところにいたのね。たまにはクラスの誰かと一緒にお弁当食べたりしないの?」
そう、照瑠が尋ねたものの、少年はやはり何も答えない。血のように赤い瞳を少しだけ照瑠の方に向け、さも面倒臭そうな顔をして返事の代わりとした。
犬崎紅。数週間ほど前に、この火乃澤高校に転入してきた生徒である。白金色の髪の毛と女子から羨まれるほどの白い肌を持ち、その瞳は夕日よりも濃い真紅に染まっている。
梅雨時にやってきた謎の転入生。その外見も相俟って、しばらくの間、紅は主に女子達の間で噂の的であった。クラスにイケメンがやってくれば、お近づきになりたいと思うのが女心なのだろう。
だが、そんな周りの空気など意に介さないのか、紅は自分に群がる女子に極めてそっけない態度をとり続けた。話も殆ど聞かないし、いつも眠そうな目でどこかを見ている。授業中に机に突っ伏して眠っていることも多く、先生からの評価も思わしくない。
無口で無愛想。それが、転入して一週間で紅についた印象であった。最初は周りで黄色い声を上げていた女子達も、すぐに彼の側から離れていなくなった。
もとより、外見だけで判断して近づいてきたような者たちである。自分と話が合えば必要以上に盛り上がるが、いざ冷たくされれば一転してウザイだのキモイだのと言って避けるようになる。まったくもって勝手な話だとは思うが、紅はそれさえも気にしていないようだった。自分の学校内における立ち位置など、ほとんど関心がないようだ。
「ねえ、犬崎君。今日の古文の授業、あなたずっと寝てたわよね」
「ああ、それがどうかしたか?」
照瑠の問いかけに対しても、紅はあくまで素っ気無い態度を繰り返した。できれば、あまり関わって欲しくないという顔をしているのが分かる。
「授業のノート、どうするの? そろそろ試験も近いんだし……あの態度はマズイんじゃない?」
「心配するな。高一で勉強する古文くらい、半分寝ていても楽勝だ」
だからと言って、授業の始めから終わりまで寝ていてもよいというものではないだろう。思わず喉から出掛かったが、照瑠はその言葉を飲み込んで我慢する。
犬崎紅は、明らかにクラスの中でも浮いた存在だ。それだけならば、照瑠もそこまで執拗に彼にこだわる理由にはならない。照瑠が紅にこだわる理由。それは、彼がこの高校にやってきた理由を知りたいからに他ならない。
紅が始めて火乃澤町にやってきたのは、四国に伝わる伝説の化け物を追ってきてのことだった。公には連続猟奇殺人事件として発表されているが、その犯人は化け物に憑かれた一人の大学生だったのだ。
およそ馬鹿馬鹿しい、非現実的な話である。照瑠の実家は神社であり、昔から神霊に近い場所で生活はしてきた。そのため、呪いや祟りなどといった話も昔から聞かされてきてはいたが、どこか懐疑的な部分もあったのは事実である。
しかし、実際に自分が事件に巻き込まれてからは、その考えも変わってしまった。この世には常識では考えられないような出来事が確実に存在し、紅はそういったものと関わりの深い人間だ。そして、この地に古くからある神社の後継者、次世代の巫女である自分もまた、彼に近い存在なのだろう。
問題なのは、そんな紅がなぜ照瑠の高校に転入してきたのかということである。四国からやってきた化け物は紅が倒してしまったため、この土地に化け物の類がうろついているという話はない。
ならば、紅が照瑠の高校にやってきた理由は何か。当然、気になって聞いてみたものの、紅は「仕事だ」とだけ言って後は黙ってしまった。いったい何の仕事なのか、それは照瑠にも分からない。以後、彼に興味を持った照瑠と相変わらず無愛想な紅の間に、奇妙なコミュニケーションが続けられているのである。
「ねえ、犬崎君。そういえば、あなたの家ってどの辺にあるの?」
「それを聞いて、どうするつもりだ?」
「いや、別に……。ちょっと、気になったから聞いてみただけなんだけど……」
「だったら聞くな。俺はお前と違って、根っからの外法使いだ」
そう言うと、紅は大きく伸びをして立ち上がった。
外法。神や仏に仕える者から見た場合、禁忌の術として忌み嫌われる術。要するに、呪いや憑き物の類を扱う人間ということである。
例の猟奇殺人事件を解決した際の紅は、犬のような黒い影と、同じくどす黒い気を発する刀を使って化け物を退治した。それは封印などという生易しいものではなく、闇が闇を喰らうといった方が正しい、実に禍々しいものだった。
外法を使う者は、表の世界とは相容れない存在である。それは以前、照瑠もどこかで聞いたような気がしていた。そして、目の前にいる犬崎紅は、明らかにその外法使いなのである。
「あまり、俺に関わるな。必要以上に関われば、お前に穢れが移ることになるぞ……」
それだけ言って、紅は照瑠の前から立ち去った。あまりに素っ気無い態度だけに、普通の女子であれば憤慨するところだろう。そうならないのは、照瑠もまた神社を家に持つ者として、紅の言わんとしていることが分かるからに他ならない。
照瑠の実家である九条神社は、この辺一体を古くから守ってきた聖域のような存在である。そこの後継者でもある照瑠が、外法を使う紅と一緒にいるのはよくないということなのだろう。
要するに、紅は照瑠のことを心配しているのだ。呪いだの穢れだの、およそ普通の人間からすれば馬鹿らしい考えかもしれないが、紅の力を知っている照瑠はそう思わなかった。あれはあれで、こちらに気を使ってくれているのかもしれない。酷く、不器用な表現であるのは間違いないが。
無口で無愛想で人付き合いが悪い。だが、そんな紅の見せている普段の姿を、照瑠はどうしても、彼の本当の姿とは思えなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
闇の中、一人の少女が胸に手をそえ佇んでいた。暗く、かび臭い室内は、思いの他広々とした空間になっている。
外へと通じる窓の全ては、ベニヤ板を打ち付けられ封印されていた。光の射し込む隙間も無く、ただ暗闇だけが部屋を支配している。
部屋の奥、大きな舞台の様な場所に、少女はぽつんと立っていた。その造りと広さから察するに、古い講堂かなにかだろうか。
「ジョーカー様、ジョーカー様……。役者は全て揃いました……」
祈るようにしながらも、少女は薄笑いを浮かべて繰り返す。
「あの人に近づく者に天誅を……。そのためにも、何卒お力をお貸し下さい……」
口ではそう呟きつつも、少女の顔はまるで自分が支配者であるかのような表情に染まっていた。身体の中に何かを押込めるようにして、少女は強く念じ続ける。
「ジョーカー様、ジョーカー様、どうぞ私の中にお入り下さい。そして、私にお力を……」
念を込め、今まで以上に強く手を握り締める。少女の身体が一瞬だけビクッと振るえ、その手が力なく崩れ落ちた。
静寂の中、少女は頭を垂れて立ち続ける。完全に意識を失ってしまったのか、指先一つ動かそうとはしない。
だが、しばらくすると、少女はハッとした様子で唐突に我に返った。自分の両手をまじまじと見つめ、次いで胸の奥にある何かを感じ取る。
「上手くいった……」
闇の中、少女の口元が再び緩い曲線を描いた。自分の中に入り込んだものの存在をしっかりと確かめ、深く息を吸い込んで、呼吸を整える。ようやく手にしたこの力、なんとしても手放すわけにはいなかい。
準備は全て揃った。ここまでのことは、計画通り。後は、更なる駄目押しとして、次の行動に出ればよい。
自らの悲願を果たすべく、少女は闇の中から表の世界へ通じる扉を静かに開け放った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
学校という場所は、なんだかんだで同じ事の繰り返しであると思う。
その日の放課後、入間美月はいつもと同じように部活を終えて帰路についた。昨日は友人と一緒にジョーカー様でそれなりに盛り上がったが、それも既に過去のことになりつつある。
平穏無事な学校生活において、刺激というものは極めて少ない。中には生徒会の活動、部活、その他諸々の活動で忙しなく動いている生徒も存在するが、果たしてあれが刺激的な生活なのかと聞かれると疑問が残る。
美月は別に、忙しい生活を送りたいわけではない。ただ、何の変化もなく毎日を過ごしているのが苦痛なだけだ。
友人との語らいは確かに楽しい。部活にも不満があるわけではないし、学校の成績もそこまで悪くない。だが、それだけが年頃の少女の描く高校生活というものではないだろう。
女子高生の醍醐味といえば、やはり恋愛だ。これには異論があるかもしれないが、少なくとも美月はそう思っていた。
高校に入って早々に彼氏などできるわけはないと思っていたが、周りには以外と手の早い者もいたようだ。気がつけば、一学期も殆ど終わってしまった今、お目当ての男と付き合い始めたクラスメイトの話もちらほらと耳にする。
自分だって、マンガやドラマのような高校生活を送りたい。片田舎の町で暮らしているからこそ、そういった願望が強くなるのかもしれない。
ところが、その願いに反し、美月は自分で行動を起こすことは苦手だった。友人の間では比較的積極的な部類に入ると言われていたが、それでも美月の行動など、せいぜい中学生の恋愛止まりである。異性に対して露骨にアピールするようなことまではできそうになく、増してや自分から告白などできるわけもない。
美月が占いやジンクスの類にはまるのは、そういった背景もあってのことだ。意中の相手に好意を持ってもらうため、それこそ神頼みにかけているわけである。他力本願と言われればそれまでが、今時の女子高生など、大なり小なり同じではないか。そうでなけでば、女性向けのファッション雑誌に毎号占いのページが設けられるわけがない。
再び、昨日行ったジョーカー様の儀式の事が美月の頭をよぎる。今日は何事もなかったが、まあ、さすがに一日で何でも願いが叶うというのは不自然だ。ここは一つ、気長に待ってみることにしよう。万が一、何も起こらなかったとしても、所詮は都市伝説である。それはそれで、すっぱりと割り切ることができそうだ。
そんな事を考えていると、美月の持っている携帯が突然鳴り出した。着信音からして、電話ではなくメールのようだ。
歩きながら確認するのも億劫だったが、とりあえずは足を止めて内容に目を通してみる。緊急を要するものでなければ、後で返信すればよいだけの話だ。
携帯を取り出して開き、その画面に映し出されたメールの中身に目をやる美月。送信先は、どうやら未登録のアドレスのようだ。
悪質な迷惑メールを送りつける業者からのものだろうか。訝しげな表情でメールの中身に目を通した美月は、その内容を見て思わず口にした。
「5……6……なにこれ? 何かの暗号?」
メールの本文に書かれていたのは、意味不明の数字の羅列だった。それ以外には特に文章も無く、ただ最後に≪J≫の一文字が書かれていただけである。
「下らないわね、もう……」
迷惑メールにしても、これではあまりにも程度が低すぎる。どこかにアクセスするためのアドレスさえ記載せず、ただ数字の羅列を送りつけてきただけだ。
大方、誰かの悪戯だろう。もしくは程度の低いチェーンメールの類だろうか。謎のメールの存在など気にも留めず、美月は自分の携帯電話を折り畳んで鞄に放り込んだ。
学校から美月の家までは、そう遠く離れているわけではない。謎のメールを消してから程なくして、美月は自宅に到着した。
ポケットから家のドアを開ける鍵を出し、上下に分けて取り付けられた鍵を一つずつ開ける。この時間、家には誰もいないはずだ。美月の家は両親が共働きのため、家族が揃うのはいつも夜になる。
靴を脱ぎ、鍵を閉め、そのまま鞄を放り出してリビングにあるソファーに寝転がる。本当は荷物を部屋まで運び、さっさと制服から着替えた方がいいのだが、それがどうにも面倒くさい。
(ちょっと横になるくらいならいいよね……)
ソファーの端からはみ出した足を折り曲げて、美月は仰向けになったまま目を閉じた。今日はなんだか身体もだるく、宿題をする気力もわかなければテレビを見る気にもなれない。
こんな時は寝るに限る。そう思って寝転がってみたものの、その日に限って妙に部屋の中が蒸し暑かった。最初は我慢して眠ろうとしてみたものの、五分、十分と経ってゆく内に、寝苦しくて我慢ができなくなる。体からじっとりと湧き出た汗がシャツにへばりつき、なんだかとても不愉快だ。
「ああ、もう! こんなんじゃ、満足に寝てもいられないじゃない!!」
誰に聞かせるともなく苛立ちをぶつけるような口調で言うと、美月は勢いをつけてソファーから起き上がった。こんな気分では、おちおち仮眠することもできやしない。冷房をつけるにしても足が冷えてしまうのは嫌だし、ここは一つシャワーでも浴びて汗を流すことにする。
風呂場に続く廊下を歩きながら、美月はやや乱暴に制服を脱いで丸めていった。服を脱ぎながら廊下を歩くなど、我ながら少しはしたないとは思う。が、今は自分以外の人間は誰もいないのだ。人目を気にしなくて良い分、どうしても行動が大胆になる。
シャツと下着を洗濯籠の中に放り込み、美月はバスルームにあるシャワーの栓を捻った。ぬるま湯程度のお湯が、体にへばりついた汗を流してゆく。汗と共に付着した不快感まで流れ去ってゆくような気がして、美月は少しだけ爽やかな気分になった。
肩に張り付くようにして濡れている自分の髪を眺め、美月はふとその先端を取って臭いをかいでみた。
「さっき、あんなに汗かいちゃったしなぁ……。やっぱり、髪も洗った方がいいかも……」
夕食の後に風呂に入ることを考えると、ここで髪を洗わなくても良い気はする。が、汗の臭いを髪につけたまま風呂の時間まで待つことは、できればご遠慮願いたかった。思春期の女子として、一時でも髪が臭うなどということはかなりのマイナスだ。たとえそれが、家族としか会わない時間のことだったとしてでも、である。
下ろした髪を軽くかき上げ、美月はその耳元を露にした。その先には、赤く光る小さなピアスがついている。
以前、市内の繁華街に出た時に露店で買った幸運のピアス。学校の校則でピアスは禁止されていたが、美月は髪を下ろすことで耳元を隠してごまかしていた。まあ、このくらいの校則違反など、飲酒や喫煙などに比べれば可愛いものだ。
「やっぱ、これは外しておかないとマズイよね」
ピアスも金属でできている以上、下手に水に近づけて痛めてしまうのはよくないだろう。バスルームに入った直後は忘れていたが、やはりここは取り外しておいた方がよい。
慣れた手つきでピアスを外し、バスルームの戸を開けて洗面台に置こうとする美月。いつもなら、何の滞りもなく終わる簡単な作業だ。
ところが、その日に限って、美月の手は彼女のいう事を聞いてくれなかった。洗面台までピアスを運んだところで指がふるえ、ピアスは排水溝の穴に吸い込まれるようにして落下してしまったのだ。
「あっ……!!」
叫び声を上げた時は、既に遅かった。美月のお気に入りである幸運のピアスは腐臭の充満しているであろう排水溝に飲み込まれ、その姿を瞬く間に彼女の視界から消してしまったのだ。
「がーん……。あれ、お気に入りだったのに……」
自分の愛着のある、しかも幸運のお守りを失ったことに、美月はしばし茫然自失して立ち尽くした。一糸まとわぬ姿なのも忘れ、脱衣所にてがっくりと項垂れる。
未だ外していない片方のピアスは無事だったが、これではどちらにせよアクセサリーとしても使えない。注意を払っていたのにも関わらずピアスを落としてしまうなど、やはり今日は疲れているのだろうか。
残る片方のピアスを慎重に外すと、美月は大きなため息をついてバスルームに戻った。なんだか今日は、ろくなことがないような気がする。こんな日は、さっさと宿題を済ませて寝てしまうに限るだろう。
頭の汗を軽くシャワーのお湯で流し、美月は両親の帰ってくるまでの時間を面倒くさい宿題を片付けるためのそれに充てることにした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
早朝は、いつも家族の中で一番早く起きる。咲村理沙にとって、それは小学校時代から変わらない習慣だ。
ねぼけまなこをこすりながら、理沙は玄関の脇にあるボックスに入った牛乳瓶を取り出した。同時に、郵便受けに入っている新聞を取り出すことも忘れない。早起きの理沙にとって、これはもはや日々のサイクルに組み込まれているものの一つだ。
新聞と、その間に挟まった広告を引き抜いて、理沙はふと妙な違和感を感じた。いつもなら郵便受けの中身など確認せずに家に入るのだが、今日はなぜか気になって仕方が無い。
妙な違和感の正体を探ろうと、理沙は再び郵便受けに目をやった。すると、郵便受けの下の部分から茶色い封筒の端が顔を覗かせているのが見て取れた。どうやら、違和感の正体はこれだったらしい。
「昨日、配達されたのに気がつかなかったのかな……」
郵便受けの中身に関しては、理沙はいつも学校から帰宅した際にチェックしている。訝しげに思いながらも、郵便受けの底に入っているであろう茶封筒を引っ張り出した。
「何これ? 私宛だけど……切手も貼ってないじゃん」
油性マジックで殴り書きされたような字だったが、宛名は理沙のものになっていた。何だか不振な感じもするが、まあ、とりあえずは中身を見て確認しよう。
牛乳と新聞と、それから謎の茶封筒も手に持って、理沙は居間へと戻っていった。新聞を居間のテーブルに置き、牛乳はさっさと冷蔵庫の中に片付ける。最後に、例の茶封筒を手に持って、今一度眺めてみた。
封筒を振ってみると、なにやら乾いた音がする。何が入っているのかは分からないが、とりあえず開けてみないことには分からない。
「まさか、剃刀入りレターなんかじゃないよね」
ふと嫌な考えが頭をよぎり、理沙は封筒の口を丁寧にはさみで開けた。中には紙が入っているようだが、それに触らないようにして封筒をひっくり返す。居間に置いてあるテーブルの上に、封筒の中身を出してしまおうという考えだ。
封筒の切り口を二、三度テーブルに叩きつけ、理沙はその中に入っている紙を取り出した。が、紙と一緒に出てきたものを見た瞬間、彼女の背中を物凄く嫌な悪寒が走り抜けた。
「ひいっ!!」
気がついた時には、悲鳴を上げて後ずさりしていた。封筒の中から紙切れと一緒に出てきたものは、なんと人間の爪だったのだ。大きさは大小様々で、どれも爪きりで切った後のものらしい。自分の爪を見てもなんとも思わないが、他人の爪、それも封筒に入れて送りつけられてきたものとなると、ただの爪でも途端に薄気味悪いものに感じられてしまう。
「ちょっと……なんなのよ、これ……」
あまりに常識はずれな贈り物に、理沙は嫌悪感を露にした口調で言った。いたずらにしても、人の爪を送りつけるなど悪趣味にもほどがある。
嫌悪は怒りに変わり、理沙は残った紙切れに手を伸ばした。爪と一緒に出てきたそれは、真ん中で丁寧に二つ折されている。
手紙と思しき紙切れの中身はいったい何か。なにしろ、差出人の名前もない封筒に爪を入れて送ってくるような相手である。きっと、不幸の手紙のようなろくでもないものに違いない。
見てはならないという恐怖心と、それでも中身を知りたいという好奇心との葛藤。しばしの沈黙の後、理沙は恐る恐る二つ折りの紙切れに手を伸ばす。そっと摘んでみると、それは思った以上に軽かった。
別に開け方などこだわらずとも、中身の内容が変わるわけではない。そう分かっていても、理沙の手は震えていた。隙間から中を覗くようにして、そっと紙を広げてみる。
「きゃぁぁぁぁっ!!」
朝の静寂を破り、再び咲村家に理沙の悲鳴が響き渡った。今度は寝室にまで届いたらしく、父と母も眠たい目をこすりながら居間へとやってきた。
「なによ、もう……。朝っぱらから大きな声出して……」
「お、お母さん! こ、この手紙……!!」
悲鳴と同時に放り投げた手紙を指差して、理沙は母親の腰にすがりついた。いったい何が起きたのか分からず、父も母も怪訝そうな顔をして理沙を見ている。
「なんだ。手紙がどうかしたのか?」
娘の気丈な性格を知ってか、父親が居間に転がっていた紙切れを拾いながら言った。普段は悲鳴など上げることもない娘が、今朝に限って大声で叫んだのだ。これはきっと、何かあるに違いない。
果たして父親の予想は正しく、手紙の中身を見た彼もまた眉間にしわを寄せてそれをにらみつけた。理沙の父が広げた手紙には、文字など一つも書いていない。ただ血の様に赤いインクが、それこそ本物の血をぶちまけたかのように、大きな染みを作っていたのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日、火乃澤高校の下駄箱には、ちょっとした人だかりができていた。まあ、人だかりといっても、実際には数人の女子が集まって何やら騒いでいるだけなのだが。
騒ぎの原因を知るべく、登校したばかりの入間美月はその集団へと近づいていった。女子の集まりの中心には、見慣れた金髪の少女が立っている。
「あっ、美月じゃん」
美月のことに気がついて、金髪の少女、安西尚美が振り返った。その手には、何やら白い封筒が握られている。
「どうしたの、尚美?」
「いや、それがさぁ。今朝、下駄箱を開けてみたら、これが入ってたんだよね」
差出人不明の封筒を手に、尚美がにやにやと笑いながら言った。
「なにそれ? もしかして、ラブレターかなにか?」
「だよね。やっぱ、そう思うじゃん? でも、今時ラブレターで告るなんて、どんなやつだよって感じ。もしラブレターなら、マジでウケるんですけど!!」
封筒をもてあそびながら、尚美が半ば馬鹿にしたように笑った。繁華街を頻繁に出歩き、時にナンパさえされることのある尚美にとって、ラブレターなどネタにすぎないのだろう。送り主には可愛そうだが、尚美はこのラブレターを出した者を笑い者にすることしか考えていない。
「それじゃ、中身を見せてもらおうかな」
乱暴に封筒の口を破り、尚美はそれを逆さまにして振ってみた。すると、その中から一枚の紙切れと数個の黒い塊が姿を現す。その黒い塊を見た女子達が、一斉に悲鳴を上げて後ずさった。尚美にいたっては、手に持っていた封筒さえも投げ捨てている。
「きゃあっ!!」
「ちょっ……なにこれ!? 手紙にゴキブリの死体入れるとか……マジでありえないんですけど……」
ラブレターと思われた、尚美宛の謎の封筒。その中から現れたのは、十円玉ほどの大きさもあろかという干乾びたゴキブリの死骸だったのだ。
「ったく……。嫌がらせにも、ほどがあるっつーの!!」
ゴキブリの死骸を足で払いのけながら、尚美は床に落ちている紙切れを拾い上げた。手紙であるならば、そこに差出人の名前があるかもしれない。ここまで酷い嫌がらせをされたからには、犯人を突き止めなければ気が済まない。
絶対に犯人を見つけ出してやる。そう思って手紙を開けてみた尚美だが、その顔は再び嫌悪に溢れたものに変わった。
「うわっ、キモッ!! この手紙出したやつ、マジでヤバくね……」
尚美の手で広げられた一枚の紙切れ。そこには血をぶちまけたようにして、赤インクで大きな染みが作られているだけだったのだ。
しばしの沈黙がその場を支配する。先ほどまでは明るい笑い声が響いていたが、その雰囲気は一通の手紙によって一瞬にして破壊された。
「ねえ……。もう、行こうよ……」
誰に言うとも無く、そう呟く者が現れた。気味悪い手紙のことはひっかかったが、いつまでも下駄箱で立ち往生しているわけにはいかない。
手紙と封筒を丸めて近くのゴミ箱に捨てると、美月と尚美はそのまま教室へと向かっていった。教室へ向かうまでの間、尚美は始終「マジでキモイんですけど」と連呼していた。まあ、ゴキブリの死骸が入った手紙をもらっては、そう言いたくなる気持ちも分からないではない。
教室のドアを開け、美月と尚美は何とも言えぬ不快な気持ちのまま中に入った。これから朝のホームルームが始まるだろうが、とてもではないが、まともに受ける気にならない。
朝からひじょうに不愉快な思いをしたまま教室に入る二人。すると、その視線の先に見慣れた少女の姿が映る。何かと思い近づくと、それは机を前にして泣いている倉持優香の姿だった。
「ちょ、ちょっと! どうしたのよ、優香!?」
そう言いながら、慌てた様子で優香にかけよる美月。優香は大人しい性格だが、それでもめったなことでは涙など流さない。
「あっ……。美月ちゃん……」
駆け寄ってくる美月に気がついたのか、優香も顔を上げてこちらを見た。
「いったい何があったの? 高校生にもなって泣くなんて、相当じゃない?」
「うん……。実はね……」
それ以上は、上手く言葉にできないようだった。美月の問いに答える代わりに、優香は無言のまま机の上を指差す。それを見た美月は、思わず口に手を当てて悲鳴を飲み込んだ。
優香の机の上にあったもの。それは、なんと鳥の雛の死骸だった。スズメか、それともツバメのものだろうか。まだ毛も生え揃っておらず、肌色の皮膚がむき出しになっている。そして、雛の死骸と合わせて置かれていたのは、あの尚美宛ての封筒にも入っていた赤インクをぶちまけた紙だった。
「なによ、これ……。嫌がらせにも、ほどがあるわ……」
こみ上げる吐き気をこらえながら、美月は血のような染みのついた紙で雛の死骸をくるんで捨てた。他の生徒達は関わり合いになりたくないのか、遠巻きにして見ているだけだ。
「ねえ、美月……」
死骸をゴミ箱に捨てたところで、突然後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには理沙の姿がある。彼女もまた深刻な面持ちで、死骸を捨てた美月の方に視線を向けている。
「どうしたの、理沙?」
「いや、その変な紙なんだけどさ……。実は、私の家にも送られて来たんだよね……」
「家って……まさか、理沙の家にも変な封筒が!?」
「うん、そうだよ。私の家に送られてきたやつには、誰のだかわかんない爪が入ってた……」
「つ、爪って……」
まったく今日は、なんという朝なのだろう。尚美と優香、そして理沙までもが同じような手紙をもらっている。しかも、どの手紙にもご丁寧に気味の悪いプレゼントの同封というおまけつきだ。
これはもう、単なる嫌がらせでは済ませられないだろう。他にも手紙が送られている人がいないかは気になったが、とにもかくにも、まずは担任に報告だ。こんな悪質な悪戯をする者を、一刻も早くこらしめてやらねばならない。
ホームルームの時間まではまだ余裕があったが、美月は一足先に職員室まで駆けていった。後ろから、何やらクラスの者たちが騒いでいる声が耳に入ったが、美月は特に気にすることもなく、早足で教室を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その日の授業は、結局ほとんど頭に入らなかった。あれから職員室に奇妙な手紙の件を報告してみたが、教師達はとりあえずこの一件を預かるとしか言ってくれなかった。口では心配するようなことを言っていたが、どこまで頼りになるかは分からない。
頭の中にもやがかかったような気分のまま、美月は優香と一緒に放課後の部活に出向くことにした。
彼女達の所属してる部活はサッカー部である。といっても、別に彼女達が実際にボールを蹴って試合をするわけではない。
火乃澤高校は公立の高校にしては珍しく、マネージャーを置いている運動部も存在した。サッカー部もその一つで、美月と優香もマネージャーとして参加しているというわけだ。
もっとも、マネージャーと言っても、実際のところは雑用係の様なものである。特に、美月や優香のような一年生は、雑用の中でも最も面倒で厄介な仕事を任される。見習いの宿命とはいえ、これは結構こたえるものがある。
彼女達の仕事は、部活の練習中にはあまりない。道具の準備や後片付けが主な仕事で、部に所属している男子が練習している間は、そのトレーニングメニューの記録などに付き合うくらいだ。
だが、今日はそれだけではなく、なんと部のメンバーを二つに分けての練習試合を行った。定期テストも近いのだが、運動部はその前に大会が控えている。今週末の日曜日が大会のため、どうしても試合形式の練習をせざるを得なくなるのだ。
こんな日は、美月と優香にとってはまさに地獄だった。練習とはいえ、試合は試合。サッカー部の男子達は、それぞれが火乃澤高校の専用ユニフォームを着て試合を行う。かなり激しいプレイをする者もいるため、当然のことながらユニフォームは泥だらけになる。
そんな汗と泥にまみれたユニフォームを洗うのは、一年生の見習いマネージャーの仕事だった。学校の近くにはご丁寧にクリーニング屋があるので、洗うと言ってもそこまで運べばいいだけの話だ。ちなみに、洗濯代も部費で出る。
それでも美月は、この仕事だけはどうしても好きになれそうになかった。何しろ、男子サッカー部員の汗が染み付いたユニフォームである。かごに入れて運ぶだけとはいえ、その臭気は少々キツイものがあるのだ。
「まったく……。せめて、たたんでから籠に入れなさいよね……」
片手で自分の鼻を、もう片方の手でユニフォームをつまみ、美月はそれを洗濯籠に仕分けしてゆく。その隣では、無言で作業を続ける優香の姿もある。極めて冷静に処理しているが、優香は臭いが気にならないのだろうか。
数分後、美月と優香は全てのユニフォームを籠にまとめ終えた。後はこれを、学校の近くのクリーニング屋へ持ってゆけばよいだけだ。
「それじゃあ、今日は私が持っていくね。優香は先に、手を洗って待ってなよ」
そう言いながら洗濯籠を抱えて歩き出す美月。が、正面に持った籠に意識が集中しすぎてしまったのだろう。目の前から近づいてくる人影に気がつかず、美月はその人物にぶつかって大きく尻餅をついた。
「痛っ! ご、ごめんなさい……」
転びながらも何とか手をついて受身をとり、美月は相手に謝罪の言葉を述べた。すると、その相手もまた美月に謝り、彼女が起き上がるために手を差し出してくれた。
「悪かったね、入間さん。俺も不注意だったみたいだよ」
そう言って手を差し伸べて来たのは、サッカー部のキャプテンである中原雅史。火乃澤高校の三年で、勉強もスポーツも共に優秀な文武両道を絵に描いたような生徒である。当然のことながら、女子達の間では人気も高い。
「すいません、中原先輩……。私の方こそ、不注意で……」
「いいんだよ、そんなことは。俺たちの練習の後始末をやってもらっているのに、君達に文句なんてあるはずはないさ」
爽やかな笑顔を向けながら、雅史は当たりに散らばったユニフォームを拾い集めている。それを見た美月と優香も、慌てて残りのユニフォームをかき集めた。
「本当にごめんなさい。私がもっと、注意していれば……」
「だから、気にしなくていいって。それより、今度は転んだりしないでくれよな。今週末の試合までにユニフォームが仕上がってないと、試合に出れなくなっちゃうからさ」
「それは大丈夫ですよ。今週の金曜には、ちゃんと仕上がってるはずですから」
「そうかい? それじゃあ、よろしく頼んだよ」
それだけ言うと、雅史は美月の頭に軽く手を置いて去っていった。その後姿を見て、美月は思わず優香に尋ねる。
「ねえ、優香。やっぱり、中原先輩って格好いいよね?」
「えっ……!? あっ……うん……」
「なによ、ぼうっとしちゃって。もしかして、先輩に見とれてた?」
「う、うん……。まあね……」
図星を突かれたのか、優香の顔がほんの少しだけ赤くなった。高校生にもなってイケメンに見とれて意識散漫になるとは、なんとも初心で純粋な人間である。が、そこがまた優香らしいと美月は思っていた。
(それに、私だって気にしていたことは確かだしね……)
心の中で呟いて、ちょっと舌を出してみる。かくいう美月もまた、雅史のことは単なる先輩という以上に意識をしていたのは確かだったからだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
クリーニング屋へユニフォームを出すのは、思いのほか早く終わってしまった。全ての仕事を終えた美月は、足早に学校を後にする。汗臭い仕事を終えて、さっさと家でシャワーを浴びたかったということは言うまでも無い。
途中、優香とも分かれ、美月は自分の家へと帰り着いた。例の如く、両親は仕事で出かけていない。今日もまた、いつものように自分だけで留守番だ。
ポケットから取り出した鍵をドアの鍵穴に刺し込んで、美月はそれを手馴れた手つきでまわした。ふと見ると、郵便受けに何かが入れられているのが目に入った。どうやら茶封筒のようで、美月は思わず怪訝そうな顔でそれをつまみ出した。
入間家の朝は、両親が早くから仕事に出る関係もあって慌しい。故に、郵便受けの中身を確認し損ねたという可能性もあるが、それでも美月はなんとなく嫌な予感がしてならなかった。
今朝方に立て続けで起きた、謎の紙切れとおぞましいプレゼントの入った封筒の事件。その存在があるだけに、どうしても封筒を取る手が震えてしまう。
「まさか、私にも変な手紙が……」
そう思って封筒を引っ張り出すと、果たして美月は自分の予想が正しかったことを知った。封筒には下駄箱で見た尚美宛の手紙と同じ筆跡で、美月の名前だけが書かれている。
「嫌だ……。なんなのよ、これ……」
封筒の中身は爪か、それともゴキブリか。絶対に嫌なものが入っているだろうと思いながらも、美月は勇気を出して中身を開けて見た。優香宛に届いた鳥の死骸のこともあり、ここは慎重に中身を外に出す。
悲鳴だけは、絶対に上げないようにしよう。そう思ってみたものの、やはり感情を抑えることはできなかった。近所に聞こえることなどお構いなしに、玄関先で甲高い声を上げてしまった。
美月の封筒の中から転がり出てきたもの。それは、無残にも腹を割かれたアマガエルの死体を、ご丁寧にも透明のビニール袋に包んだものだったのだ。
「もう……。なによ、これ……」
目に涙を浮かべ、腰は既に地べたに張り付いていた。カエルの死体は放り投げられ、その側には例の赤インクをぶちまけた紙も転がっている。
立ち上がろうと思っても、体に力が入らなかった。朝、出かける時に気づかなかっただけで、今の今までカエルの死骸がずっと郵便受けに入っていたであろうことを考えると、それだけで吐き気がこみ上げてくる。
まったく今日は、最悪の一日だった。そう、美月が思った矢先に、突如として携帯の着信音が鳴り響いた。音の種類からして、どうやらメールのようだ。
震える体に力をこめて、美月はなんとか鞄から携帯電話を取り出した。が、メールの内容を一目見て、美月は再び言葉を失った。
メールの送信先は、昨日に奇妙な数字の羅列を送ってきたものと同じだった。アドレスからして、携帯電話ではなくパソコンのメールを使っているようだ。
だが、そんなことよりも気になるのは、やはりその内容だった。今回はきちんとした文章になっていたが、それでも奇妙なことに変わりは無い。
―この前のメールでは、キミたちには警告にならなかったようだね。大方、
―ろくでもないジャンクメールとして破棄したのだろう?
―しかし、ワタシはきちんと警告をしたのだからね。
―にげようとしたって、にげきれるもんじゃあないよ。
―いくら頑張っても無駄だとは思うが、
―くれぐれも注意をしたまえ・・・。
「なに、これ……。いったい、誰がこんなものを……」
改行の部分に妙な違和感を感じながら、美月はそのメールをまじまじと見つめた。普段ならば単なるジャンクメールとして片付けてしまうが、このタイミングで送られてきたことで、美月はそれになんらかの意志を感じてならなかったのである。
謎の手紙と怪メール。一見して繋がりのなさそうなものではあったが、美月はそれらの物に言いようの無い不安感を覚え始めていた。