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正しい反応

健太が帰ってきたのは、翌日の朝だった。


始発ではない。

かといって、完全な夜明け前でもない。

言い訳を用意するには、ちょうどいい時間だった。


夏子からのメッセージは、短かった。


〈帰ってきた〉


それだけ。


昼休み、紗和は病院の裏口で夏子を待った。

自販機の前。

二人が何度も立ち話をした場所。


夏子は、少しだけ疲れた顔をしていた。

泣いた痕はない。

化粧も、いつも通り。


「……どうだった?」


聞きながら、紗和は自分の声が慎重すぎることに気づく。


夏子は肩をすくめた。


「いつもの。」


「いつもの?」


「遅くなった理由。仕事。終電逃した。反省してる。もうしない。」


指で数えるように言う。


「テンプレートだよ。」


その言い方が、妙に軽かった。


「信じるの?」


「信じるっていうか……」

夏子は少し考えてから言った。

「更新しない、かな。」


「更新?」


「この人は、こういう人、って。」


それは、諦めの言葉だった。

でも同時に、とても現実的だった。


「証拠は?」


「消してた。」


夏子は、少しだけ口角を上げた。


「でもね。消すってことは、あったってことでしょ。」


その一言が、胸に刺さる。


その夜、浩一は珍しく早く帰ってきた。


「今日は早いね。」


「少し片付いたから。」


理由は、明確だった。

曖昧さはない。


夕飯を食べながら、浩一がふと口にする。


「健太さん、どうだった?」


「……帰ってきた。」


「そう。よかったじゃない。」


その言葉に、紗和の箸が止まった。


「よかった、って?」


「少なくとも、連絡もなく消えたわけじゃないでしょ。」


それは、正論だった。

非難できる部分はない。


「夏子、結構つらそうだったけど。」


「でも、証拠はあったんだよね?」


浩一は、悪意なく言った。


「証拠があるなら、話は早いよ。」


その瞬間、

紗和の中で、何かがはっきりと形を持った。


(……そうか)


証拠がある人は、悩んでいい。

証拠がない人は、悩む資格がない。


「じゃあ。」

紗和は、できるだけ平静に言った。

「証拠がなかったら?」


浩一は少し考えた。


「それなら、考えすぎじゃない?」


その言葉は、柔らかかった。

責めてもいない。


だからこそ、逃げ場がなかった。


「信頼してるなら、疑わない。

疑うなら、何か理由が必要だと思う。」


完璧な理屈だった。


食後、浩一はいつものようにスマートフォンを充電器に挿し、テーブルの上に置いた。

画面は下向き。


紗和は、それを見つめた。


(見ていいよ、って言われてるみたい)


でも、見てはいけない。

見れば、証拠を探す自分になる。


シャワーの音が聞こえる。


紗和は、夏子の言葉を思い出した。


――この人は、こういう人。


浩一は、嘘をつかない。

誠実で、説明ができて、正しい。


それなのに、

その「正しさ」が、

自分をどんどん追い詰めている気がした。


寝室の灯りを消す。


暗闇の中で、浩一が言った。


「最近、ちょっと疲れてない?」


心配している声だった。


「……そうかな。」


「無理しなくていいよ。」


優しい言葉。

それ以上でも、それ以下でもない。


紗和は、天井を見つめながら思った。


健太は、裏切る。

だから、夏子は苦しめる。


浩一は、裏切らない。

だから、私は――

どこにも行けない。


証拠がない不安は、

説明されるたびに、

少しずつ形を失っていく。


そして最後には、

自分の感情だけが、

「不適切なもの」として残る。


紗和は、目を閉じた。


正しい反応の中で、

間違っているのは、

いつも自分だけのような気がして。

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