比較という名前の安心
その電話は、夜九時を少し過ぎた頃に鳴った。
画面に表示された名前を見て、紗和は一瞬だけ迷った。
それから、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『……今、大丈夫?』
夏子の声は、いつもより少し低かった。
仕事用でも、友人用でもない、どこか宙に浮いた声。
「うん。どうしたの?」
数秒の沈黙。
それだけで、胸の奥がざわつく。
『健太が、帰ってこない』
短い言葉だった。
説明も、感情も、まだ乗っていない。
「連絡は?」
『昼に一回だけ。“今日は遅くなる”って』
それを聞いた瞬間、紗和の頭に浮かんだのは、
自分が何度も聞いてきた、あの一言だった。
夏子の家に着くと、部屋は妙に明るかった。
すべての照明が点いている。
夏子はソファに座り、膝の上でスマートフォンを握っていた。
画面は暗いまま。
「何回かけても、出ないの。」
その言い方には、怒りも涙もなかった。
ただ、慣れがあった。
「最近、こんなこと多い?」
紗和が聞くと、夏子は小さく笑った。
「“最近”って言えるうちは、まだマシかもね。」
その笑い方が、妙に大人びて見えた。
「……浮気、だと思う?」
言葉にした瞬間、紗和は自分でも驚いた。
夏子は、少しだけ視線を落とす。
「証拠は、あるよ。」
そう言って、スマートフォンの画面を見せた。
知らない女の名前。
曖昧な時間指定。
否定しきれない言葉の並び。
それは、紗和が欲しくてたまらなかった“形”だった。
胸の奥が、ひどく静かになる。
「でもね。」
夏子は画面を伏せた。
「それでも、決めきれない。」
「どうして?」
「決めたら、全部変えなきゃいけないから。」
その言葉が、重く落ちた。
帰り道、夜風が冷たかった。
マンションの前で、紗和は足を止める。
夏子の家の灯りを見上げる。
(証拠があっても、壊れない人もいる)
それは、奇妙な安心だった。
自分はまだ、そこまで行っていない。
証拠がない。
だから、壊れていない。
そう思った瞬間、
胸の奥で何かがきしんだ。
部屋に入ると、浩一はリビングで書類を広げていた。
「遅かったね。」
「夏子のところ。」
それだけで、浩一は納得したように頷く。
「健太さん、また?」
その口調は、軽かった。
まるで、天気の話の延長みたいに。
「……うん。」
「大変だね。」
その“他人事”が、なぜか引っかかる。
(もし、私が同じ立場だったら)
その問いは、すぐに飲み込んだ。
寝室で、浩一が先に横になる。
紗和は、天井を見つめたまま動けなかった。
夏子の言葉が、頭の中で繰り返される。
――証拠は、あるよ。
その一文が、羨ましかった。
証拠があれば、
怒っていい。
泣いていい。
壊していい。
でも、自分には何もない。
あるのは、
匂い。
十分間。
道の違い。
そして、説明されてしまうすべて。
(私のは、何なんだろう)
隣で、浩一が寝息を立てる。
安定した呼吸。
彼は、何も失っていない。
それが、ひどく不公平に思えた。
紗和は、布団の中で静かに目を閉じた。
比較することで、
少しだけ安心してしまった自分を、
どこかで恥じながら。
そして同時に、
「証拠がない不安」は、
証拠がある不幸よりも、
ずっと長く続くのかもしれない
――そんな考えが、胸に残った。




