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いつもの匂いではなかった

朝、洗濯機を回しながら、紗和は洗剤の残量を確認した。


まだ半分以上残っている。

ここ数年、変えたことはない。

香りが強すぎず、誰かの記憶に結びつかない、無難なもの。


(うちは、これ)


それは、はっきりしている。


洗濯槽の回る音を聞きながら、昨日のことを思い出す。

浩一のシャツ。

鼻をかすめた、あの微かな香り。


もう一度、思い返しても、家の匂いではなかった。


病院では、特別なことは何も起きなかった。

検体を確認し、報告書をまとめ、昼休憩に入る。


スマートフォンに、通知が一件。


〈夏子:今日、少し話せる?〉


短いメッセージだった。

余計な感情を挟まない、彼女らしい文面。


〈紗和:うん、仕事終わりなら〉


送信してから、胸の奥が少しだけ落ち着く。

夏子は、結婚前からの友人だ。

何でも話せる――はずの存在。


夕方、病院近くのカフェで、二人は向かい合った。


夏子は、きちんとした服装をしていた。

仕事帰りでも乱れない髪。

夫の秘書として、常に「隙」を作らない人。


「最近、どう?」


そう聞かれて、紗和は一瞬、言葉を探した。


「……普通、かな。」


夏子は小さく笑った。

「普通って、一番怪しい言葉だよ。」


その言い方に、紗和は少しだけ救われる。


「ねえ。」

夏子が声を落とす。

「浩一さん、忙しそう?」


「相変わらず。」


それだけで、会話が一拍止まる。


夏子はコーヒーを一口飲み、視線を外した。

「最近、職場もごたごたしてて。」


(職場)


その言葉に、紗和の意識がわずかに尖る。


「小百合さん、覚えてる?」


唐突な名前に、心臓が跳ねた。


「……隣に住んでる人、だよね。」


「うん。浩一さんと同じ部署。」


夏子の声は淡々としている。

何の含みもない、事実確認のような口調。


「彼女、仕事できるよ。真面目だし。」


その評価が、なぜか胸に引っかかった。


「……そうなんだ。」


それ以上、話は広がらなかった。


帰宅すると、浩一はすでに家にいた。

キッチンで、娘と一緒に夕飯の準備をしている。


「おかえり。」


「ただいま。」


その光景は、あまりにも平和だった。


食後、浩一がシャワーを浴びている間に、紗和は洗濯物を畳んだ。

その中に、今日着ていたシャツがある。


無意識に、手が止まる。


鼻を近づける。


やはり、違う。


はっきりと「他人の匂い」ではない。

けれど、「家の匂い」でもない。


(職場……?)


柔軟剤が変わった?

誰かと一緒に洗った?


どれも、説明はつく。

つくからこそ、答えに辿り着けない。


シャワーの水音が止まる。


紗和は、慌ててシャツを畳んだ。


夜、布団に入ってからも、眠れなかった。


夏子の言葉が、頭の中で反芻される。


「仕事できるよ。真面目だし。」


それは、ただの評価だ。

それ以上でも、それ以下でもない。


それなのに。


(どうして、私、こんなこと気にしてるんだろう)


スマートフォンを手に取り、検索窓に指を置く。

「洗剤 匂い 残る」

途中まで打って、やめた。


証明したいわけじゃない。

否定したいわけでもない。


ただ、この違和感に、名前をつけたかった。


隣で、浩一が寝返りを打つ。

規則正しい寝息。


彼は、何も隠していないように見える。


だからこそ、怖かった。


もし本当に、何も起きていなかったら。

もしこの匂いも、道も、十分間も、

すべてが偶然だったら。


そのとき、

自分のこの不安は、

どこへ行けばいいのだろう。


紗和は、目を閉じた。


まだ、証拠はない。

けれど、確かに“いつもと違う”ものは、増えていた。


それを無視するには、

もう少しだけ、心が疲れすぎていた。

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