予定表にない十分間
朝は、いつもと同じ速さで過ぎていった。
炊飯器の音。
味噌汁の湯気。
遥が「靴下どこ?」と騒ぎ、浩一が新聞を畳む。
完璧に、いつも通りだった。
「じゃあ、行ってきます。」
玄関で浩一が靴を履く。
紗和は無意識に、腕時計を見た。七時三十五分。
「いってらっしゃい。」
ドアが閉まる音を聞いてから、しばらく動けなかった。
胸の奥に、昨夜から続くざらつきが残っている。
理由は分からない。
だからこそ、消えない。
その日の午後、紗和は病院の更衣室でスマートフォンを開いた。
浩一の共有カレンダー。
結婚してからずっと使っているものだ。
「会議」「出張」「残業」――
無駄なことは一切書かない、彼らしい予定表。
指で、昨日の日付までスクロールする。
(……あれ?)
退勤時間。
浩一は昨日、「少し遅くなる」と言っていた。
カレンダーには「18:30 退庁」とある。
紗和は、記憶を辿った。
浩一が帰宅したのは、確か――十九時過ぎ。
十分。
たった十分。
(誤差、だよね)
誰だって多少はずれる。
仕事が長引くこともある。
それなのに、指が止まらなかった。
さらに前日。
その前の日。
同じように、数分から十分ほどのズレが、ぽつぽつとある。
大きな空白はない。
怪しい予定もない。
ただ、きれいすぎる予定表に、小さな揺れがあるだけだった。
帰り道、紗和はいつもより一本早い電車を降りた。
理由はない。ただ、歩きたかった。
駅前の通りを抜け、マンションへ向かう。
その途中、見覚えのある背中が視界に入った。
浩一だ。
(……早い)
彼は、いつもと違う道を歩いていた。
最短ルートではない。
遠回りでもないが、あえて選ばない道。
信号の向こう側に、小百合の姿があった。
二人は、同じ方向に歩いている。
距離はある。話してはいない。
それでも、紗和の足は止まった。
(偶然、だよね)
この時間、この場所。
同じマンション、同じ職場。
重なる理由はいくらでもある。
紗和は、二人の後ろを少し離れて歩いた。
ついていく、というほど近くはない。
ただ、視界に入れているだけ。
交差点で、小百合が先に曲がった。
浩一は、そのまま直進した。
(……それだけ)
胸の奥が、少しだけ緩む。
夕食後、紗和は何気ないふりで聞いた。
「今日、いつもと違う道だったよね?」
浩一は一瞬だけ考え、すぐに答えた。
「ああ。工事してたから。」
その声は、迷いがなかった。
説明も、自然だった。
「そうなんだ。」
それで会話は終わる。
(また、説明できてしまった)
洗濯物を干しながら、紗和は窓の外を見た。
隣のベランダに、小百合がいる。
目が合い、軽く会釈をされた。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
それだけ。
その夜、シャワーを浴びている浩一のスマートフォンが、テーブルの上で震えた。
通知は表示されていない。
紗和は、手を伸ばしかけて、止めた。
(見ちゃだめ)
見れば、何かが変わる。
見なければ、何も起きない。
結局、彼女は見なかった。
布団に入って、天井を見つめる。
予定表の十分間。
道の違い。
説明のつくすべて。
それらが、頭の中で静かに並ぶ。
(もし、本当に何もなかったら)
その場合、
自分が感じているこの不安は、
どこから来たのか。
紗和は、目を閉じた。
証拠は、今日も見つからなかった。
けれど、疑う理由も、確実に増えていた。
それが一番、厄介だった。




