エレベーターの中の、知らない笑顔
エレベーターは七階で止まった。
「お疲れさまです。」
低くて、少し明るい声。
紗和は、ドアが閉まる直前にその声を聞いた。
振り返ると、夫の浩一が立っていた。隣には、同じマンションに住む女――小百合がいる。二人は少し距離を空けて立っていたが、その間に流れる空気は、やけに自然だった。
「今日も遅くなったんですか?」
「まあ、ちょっとだけ。」
他愛のない会話だった。仕事の話。区役所の書類がどうだとか、誰それがミスをしたとか。紗和には、内容そのものはどうでもよかった。
問題は、浩一が笑っていたことだ。
それも、昔、結婚したばかりの頃によく見た――
肩の力が抜けた、無防備な笑顔だった。
紗和の胸が、わずかに縮む。
(……あんな顔、最近、私には見せてない)
エレベーターの中は静かだった。誰もがスマートフォンに視線を落とし、互いの存在に関心を示さない。そんな空間で、浩一と小百合の会話だけが、やけに生き生きと浮いているように感じられた。
六階。
五階。
紗和は、自分が息を浅くしていることに気づいた。
(変だ)
たったそれだけのことだ。
夫が、同僚と、隣人と、普通に話していただけ。
疑う理由なんて、どこにもない。
四階で小百合が降りるとき、浩一は軽く会釈をした。
「お疲れさまでした。」
その声は、もう完全に“仕事の声”だった。
ドアが閉まり、エレベーターが再び動き出す。
「今日はどうだった?」
浩一は何事もなかったように聞いてきた。
紗和は一瞬、言葉に詰まった。
「……いつも通り。」
そう答えながら、自分の声が少し硬いことに気づく。
浩一は気にした様子もなく、スマートフォンを取り出した。
その沈黙が、紗和には耐えがたかった。
(今の、何だったんだろう)
笑顔。距離感。空気。
どれも「問題」と呼ぶには弱すぎる。
なのに、心のどこかがざらついて、落ち着かない。
部屋に戻ると、六歳の娘・遥がテレビの前で寝転んでいた。
「おかえりー」と、間延びした声。
「ただいま。」
浩一は娘の頭を撫で、手早くスーツを脱ぐ。
その動作はいつもと変わらない。
食卓に並ぶのも、同じ献立。
会話も、最低限。
「来週、保育園の面談あるんだよね?」
「うん。時間、取れる?」
「多分。」
“多分”。
それ以上、話は広がらない。
食後、皿を洗いながら、紗和はふと気づいた。
浩一のシャツから、微かに知らない香りがする。
香水ではない。洗剤だろう。
でも、家で使っているものとは違う。
(……職場で変えた?)
すぐに、頭を振る。
考えすぎだ。
浩一は不倫なんてしない。そんな男じゃない。
それなのに。
その夜、布団に入っても、眠れなかった。
暗闇の中で、エレベーターの中の笑顔が、何度も浮かぶ。
(もし、何かが起きていたら――)
その想像に、心臓が跳ねる。
同時に、別の感情が湧き上がった。
(……もし、何も起きていなかったら?)
そのとき、この違和感は、
この息苦しさは、
すべて自分の“勘違い”になる。
紗和は、スマートフォンを手に取った。
夫の予定表を、何気なく開く。
そこには、いつも通りの文字が並んでいる。
空白も、不自然な点も、見当たらない。
「……何もない」
そう呟いた声は、なぜか震えていた。
証拠はない。
疑う理由もない。
それでも、胸の奥で、
小さな音が鳴り始めていた。
それは、崩れる音ではなく、
何かが少しずつ削られていく音だった。
紗和は、その正体を、まだ知らなかった。




