表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

エレベーターの中の、知らない笑顔

エレベーターは七階で止まった。


「お疲れさまです。」


低くて、少し明るい声。

紗和は、ドアが閉まる直前にその声を聞いた。


振り返ると、夫の浩一が立っていた。隣には、同じマンションに住む女――小百合がいる。二人は少し距離を空けて立っていたが、その間に流れる空気は、やけに自然だった。


「今日も遅くなったんですか?」


「まあ、ちょっとだけ。」


他愛のない会話だった。仕事の話。区役所の書類がどうだとか、誰それがミスをしたとか。紗和には、内容そのものはどうでもよかった。


問題は、浩一が笑っていたことだ。


それも、昔、結婚したばかりの頃によく見た――

肩の力が抜けた、無防備な笑顔だった。


紗和の胸が、わずかに縮む。


(……あんな顔、最近、私には見せてない)


エレベーターの中は静かだった。誰もがスマートフォンに視線を落とし、互いの存在に関心を示さない。そんな空間で、浩一と小百合の会話だけが、やけに生き生きと浮いているように感じられた。


六階。

五階。


紗和は、自分が息を浅くしていることに気づいた。


(変だ)


たったそれだけのことだ。

夫が、同僚と、隣人と、普通に話していただけ。


疑う理由なんて、どこにもない。


四階で小百合が降りるとき、浩一は軽く会釈をした。

「お疲れさまでした。」


その声は、もう完全に“仕事の声”だった。


ドアが閉まり、エレベーターが再び動き出す。


「今日はどうだった?」


浩一は何事もなかったように聞いてきた。

紗和は一瞬、言葉に詰まった。


「……いつも通り。」


そう答えながら、自分の声が少し硬いことに気づく。

浩一は気にした様子もなく、スマートフォンを取り出した。


その沈黙が、紗和には耐えがたかった。


(今の、何だったんだろう)


笑顔。距離感。空気。

どれも「問題」と呼ぶには弱すぎる。

なのに、心のどこかがざらついて、落ち着かない。


部屋に戻ると、六歳の娘・遥がテレビの前で寝転んでいた。

「おかえりー」と、間延びした声。


「ただいま。」


浩一は娘の頭を撫で、手早くスーツを脱ぐ。

その動作はいつもと変わらない。


食卓に並ぶのも、同じ献立。

会話も、最低限。


「来週、保育園の面談あるんだよね?」


「うん。時間、取れる?」


「多分。」


“多分”。

それ以上、話は広がらない。


食後、皿を洗いながら、紗和はふと気づいた。

浩一のシャツから、微かに知らない香りがする。


香水ではない。洗剤だろう。

でも、家で使っているものとは違う。


(……職場で変えた?)


すぐに、頭を振る。

考えすぎだ。

浩一は不倫なんてしない。そんな男じゃない。


それなのに。


その夜、布団に入っても、眠れなかった。

暗闇の中で、エレベーターの中の笑顔が、何度も浮かぶ。


(もし、何かが起きていたら――)


その想像に、心臓が跳ねる。

同時に、別の感情が湧き上がった。


(……もし、何も起きていなかったら?)


そのとき、この違和感は、

この息苦しさは、

すべて自分の“勘違い”になる。


紗和は、スマートフォンを手に取った。

夫の予定表を、何気なく開く。


そこには、いつも通りの文字が並んでいる。

空白も、不自然な点も、見当たらない。


「……何もない」


そう呟いた声は、なぜか震えていた。


証拠はない。

疑う理由もない。


それでも、胸の奥で、

小さな音が鳴り始めていた。


それは、崩れる音ではなく、

何かが少しずつ削られていく音だった。


紗和は、その正体を、まだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ