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第三話 我が家

翌日――


石畳を抜け、小さな礼拝堂を併設した孤児院の門をくぐると、懐かしい鐘の音が風に揺れた。


その瞬間――胸がどくんと鳴った。

懐かしさと、少しの緊張。

この扉の向こうに、私たちの「家」がある。

足を踏み出すたび、鼓動が強まっていく――。


出迎えに現れたのは、白い質素な神官衣に身を包んだ年老いた女性――マルグリット司祭。


その姿を見た途端、胸の奥がじんわり熱くなった。

懐かしいだけのはずなのに、今は涙がこぼれそうになる。

司祭の深い皺を刻んだ顔が、涙で滲んで揺れた。


「まあ……アリシア様、セレナ様。ようこそお戻りくださいました」


姉と私は、かつて侯爵家の娘であった頃と同じように、自然に裾をつまんで一礼した。

忘れたことのない仕草。だが今は“聖女”と“白魔導士”として、まったく別の立場でここに立っている。


「ただいま戻りましたわ、司祭様」

「……ただいま。司祭様」


マルグリット司祭は目を細め、両手を広げて私たちを抱き寄せる。

幼い頃、泣き疲れた私を抱きしめてくれた腕。


あたたかい。


その温もりは――幼い頃に感じた母の記憶を、かすかに呼び覚ます。

家族を失った私たちにとって、それは唯一残された「家」の香りだった。


私の頬を、ぽろりと一粒の熱い涙が伝った。

ふと姉を見上げれば、真っ赤な耳をして、肩を小さく震わせていた。

なんだか、ほっとした。



あの日。


魔王軍の軍旗が、緑豊かなルクレール領を黒煙に染めたとき。

たまたま孤児院を訪れていた十二歳の姉と十歳の私だけが生き残った。

領地も、家も、家族も――すべて灰になった。


その知らせに泣き叫ぶ私を、姉は涙ひとつ見せず抱きしめてくれた。

姉の温もりに包まれたその瞬間、私は思い出したのだ。


それはおぼろげながら確かな前世の記憶。

家族とも疎遠で、友人もなく、孤独に生き、孤独に死んだことを。

自分が死んでも、きっと誰も悲しまなかっただろうと思う。


車のブレーキ音、冷たいアスファルトの感触。

誰にも看取られず、一度も輝くこともなく消えていった命。


車やブレーキ、アスファルト……それが何なのか、私にはわからない。

けれどただ覚えていた。それはとても恐ろしく、震えるほどの絶望の記憶だった。

前世の私にとって、それが現実だったことだけは――はっきりとわかった。


だからこそ。


今度の人生で得た、この姉の存在だけは絶対に失いたくない。

あの時の孤独に戻るくらいなら、何を犠牲にしても――そう誓った。


「セレナ、私たちはずっと一緒よ」


そう言ってくれた姉の言葉が、今世の私にとって唯一の支えだった。


一度だけ、この記憶を姉に口にしたことがある。

けれど姉は、ほんの一瞬だけ目を伏せて――すぐに微笑んだ。


「大丈夫よ」


その言葉が、なぜか胸に深く残っている。


後日、他の貴族家からは、こぞって姉を引き取りたいとの申し出があった。

銀の髪と清廉な心、そして輝くような美しさを持つ彼女を、誰もが「家の娘に」と望んだのだ。

だが、アリシアは首を横に振り続けた。


「セレナを置いていくくらいなら、私は孤児院に残ります」


その言葉に、どの家も手を引き、私たちはこの小さな石造りの建物で生きていくことになった。


実際、二人とも引き取ってくれるという貴族家もあったそうだ。

けれど姉は、二人きりで生きていく道を選んだのだと思う。


この孤児院は、私たち姉妹にとって「第二の故郷」ではなく、今や唯一の故郷だった。



「次の遠征の前に……どうしても寄りたいの」


夜会の後、姉がそう言い出したとき、勇者エリアスも騎士バルドも快く頷いた。


「もちろんだ。お前たちの帰る場所なんだろう?」


二人の言葉に、わたしの胸の奥が少しだけ温かくなる。

この旅の仲間は、わたしたちの過去を受け入れてくれる――そう思えただけで、ずっと張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。



「帰って来たの!?」


小さな影が次々とマルグリット司祭の脇をすり抜けて飛び出し、銀髪の姉に飛びつく。


「アリシアお姉ちゃんだ!」

「セレナお姉ちゃんも帰ってきた!」


歓声とともに、元気な足音が土を蹴る。


「まあ……!」


司祭は困ったように微笑む。その瞳には涙がにじんでいた。

冒険者となった孤児が無事戻らないことは珍しくないからだろう。


子供たちはそんな重さを知らず、無邪気に騒ぎ続ける。


「アリシアお姉ちゃん!」

「聖女様なんでしょ、すごい!」

「お姫様みたい!」

「ねえねえ、魔族をやっつけた話を聞かせてよ!」

「セレナお姉ちゃんも、かっこいい!」


石造りの壁には長い年月が刻んだひび。

その前に立つ姉の銀髪は、燭火に照らされてひときわ鮮やかだった。

子供たちの歓声も、司祭の涙も、自然と姉のもとへ集まっていく。


「勇者様と……剛盾バルド様まで……!」


司祭がようやく後ろに控えていた二人に気づき、慌てて頭を下げる。


「おお、そんな……このような辺鄙な孤児院に……!」


「頭を上げてください」


エリアスが柔らかく笑みを返すと、司祭はさらに目を潤ませた。


そう、姉とわたしは決して二人だけで帰ってきたのではない。

勇者エリアスに、最強の騎士バルド、そして孤高の弓使いフィーネ。

――王国の希望と呼ばれる仲間たちが共にこの門をくぐっていた。


「ほんとに勇者様だ!」

「剛盾バルド様も!」

「エルフさんだ! 本物の妖精さんみたい!」


子供たちの歓声がさらに弾み、フィーネの長い耳がぴくぴくと動く。


「私は妖精じゃない」


小さく呟くフィーネの声が私だけに届き――思わずくすりと笑みが零れた。


そんな中で、アリシアは子供たちを両腕に抱きしめた。


――帰ってきた。


子供たちに囲まれる姉を見て、胸の奥に、あたたかな灯がともった。

どれほど遠くへ行っても、この場所が「家」であることは変わらない。


胸に広がる実感。今だけは、戦いの気配も王宮の重圧も、遠い幻のようだった。

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