「ありがたきもの」(枕草子)…滅多に無いもの③
「同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそかたけれ。
物語、集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などはいみじう心して書けど、必ずこそ汚げになるめれ。
男女をば言はじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末までなかよき人、難し。」
(同じ主人のもとに仕えて暮らす女房で、互いに恥ずかしがり、少しの油断もなく心づかいしていると思う人が、最後まで隙を見せないことはめったにない。
物語や説話集などを書き写すのに、本に墨をつけないこともめったにない。貴重な本などのときには大変注意して書くが、必ず汚らしくなってしまうようだ。
男女の間柄については言うまでもなく、女同士でも、いつまでも友達でいようと固く約束をして親しく付き合っている人で、最後まで仲の良い人は、めったにいない。)
「同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそかたけれ。」
前回に続き、欠点・隙を見せない人はいないという話題。
特に、相部屋状態の女房達は、あまりに物理的距離が近く、またいつも一緒にいるため、互いのことは嫌でも知ってしまうことになる。その欠点も勿論目につくだろう。この環境では、「いささかのひまなく用意したりと思ふ」人であっても、その欠点を最後まで隠し通すことは不可能だ。
「物語、集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などはいみじう心して書けど、必ずこそ汚げになるめれ」。
人の癖や欠点に続き、よくやりがちなミスについて述べた部分。
この部分を、清少納言に成り代わって説明する。
「私ってば、文学少女だから、読書が趣味なのデス。でもでも、当時って印刷した本なんかないでしょ、当たり前だけど。それに、紙は貴重品だった。だから、読書の麻酔が切れそうになると、体の中がムズムズ動き出しちゃう。だから、しょうがない、人から借りてきて、何回も読みたいなーって思ったら、書き写すしかないわけ。
それでね、人からの借りものだし貴重品だからってことで、汚さないよーに、シンチョ―にシンチョ―に書き写すんだけど、どーしても筆から墨がこぼれちゃう。これって私のせい? 違うよね。みんなもそーだよね。みんなだって失敗しちゃう時、あるでしょ? いくら上品で慎重な私でも、たまにはミスることあるよ。だから本の持ち主さん、大目に見てー♡」
ドジっ子をさりげなく表明する筆者のいやらしさ。自嘲が自慢になっている。彼女に本を貸した主は、この文章を読んで苦笑したろう。
ところでこの自嘲は、笑い話として許されるタイプと、「何言ってんの、ふざけんな。バカなの?」とさらに反感を買うタイプとに分かれるだろう。清少納言は下手すると後者の可能性が高く、彼女への憎悪がいや増すということになる。
清少納言は利口ぶる。知識をひけらかす。自分の価値観を他者に押し付けようとする。そのような彼女を良く思わない人は少なくなかっただろう。
相手は好意で貴重な本を貸しているので、いやな女にはそもそも貸さないとは思われるが、汚れて帰ってきた本を見て、この言い訳を聞いて、「はい、わかりました。許します」という人はどれだけいるだろうか。
謝罪は素直で端的なものが良い。「注意していたのですが、貴重な本を汚してしまいました。申し訳ございません。」というのが王道だ。
繰り返しになるが、清少納言の説明は、ただの言い訳にしかなっていない。彼女は素直に謝らない。しかもその説明は、「よき草子」だから「いみじう心して書」いたけれど、「必ずこそ汚げになるめれ」と、状況を説明して共感を得ることに重きを置いている。「よき草子」だから「いみじう心して書」いたけれど、の後は、「(それでも)汚してしまって誠に申し訳ございませんでした」という謝罪でなければならない。「キンチョーすると、必ず汚しちゃうよね」と共感を求められても、「はいそうですね」とはならない。「自分のミスは誰でもやること」ということは、謝罪の場面では言ってはいけない。それは責任を回避する態度だからだ。
だからこの場面を読むといつも、宮中のメンバーの慣れ合いや甘えを感じてしまう。彼女は簡単に許されると思ってる。「だって、みんなやっちゃうミスだから」と。
この場面を、別の角度から鑑賞することも可能だ。
「緊張すればするほど、慎重にやろうとするほど、手元が狂ってしまう人間心理を述べたものだ」、という解釈だ。このような読み方も成立するだろう。
「男女をば言はじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末までなかよき人、難し」
「人には必ず欠点がある。隠していてもいつかはばれる」という話題に続き、「だから、人の不仲は必定だ」という結論の部分。どんなに親しみむつみ合っていた者であっても、いつかは別れがやってくる。「会者定離」という仏教観につながる考え方だが、そこに一抹の寂しさを感じる人は多いだろう。しかも別れの理由は、「疵」、「隙」などの欠点であり、気を付けていてもどうしようもできないものだ。
清少納言は単に、恋愛や友情の継続性・永久性について不可能であると述べているが、そこから意外に深い思想にまで至る可能性のある表現となった。人と人とのつながりのもろさ、はかなさ。そこには深い孤独や寂寥がある。
(終わり)