03:犬〜小屋
少女は身を起こして、手で水をすくい取って飲んだ。まねをして、こちらは両手を大きく組んで沢山すくい取り、喉を鳴らして何度も飲んだ。
白い空が次第に暗く染まってきた。二人は一緒に立ち上がり、濡れた体や手足を、手を滑らして水滴を拭うと、川から上がった。絵は残っていた。
また、町への道に戻った。
道の外の草むらに、茶色の犬がいて、舌を出してこっちを見ていた。
「これをお食べ」
少女はそう言って、犬のそばに立つ、黄色い皮の果実の木の実をもぎ取った。犬の足元に置いて、また戻った。
「さっき探していた犬かい」
少女は首を横に振る。
「もうひとりの一緒にいる子、いつも後ろにいるの。あの子が振り向くと、この子はすごく嬉しそうに顔を上げるの。でもいつも静かに後ろについてくるの」
「どこにいっちゃったんだろうね」
「いつも気付いたら帰ってるの。あたしが川で遊んでいると、どこかへ行っちゃうの。だから、また帰ってくる」
少女の方を見ると、あの黄色い果物を一つ持っていて、皮をむいていた。実を一つちぎると、こちらに差し出してきた。受け取り、食べる、そのまま少女の方を見ていた。
どこから来た。
どちらかが言ったような……それともお互い一緒に言ったような……、でも次の言葉は自分が言った。
「ずっとこうして、歩き続けている。暑いところや、寒いところ、明るいところ、暗いところ。世界は本当にいろいろなところがあるから」
少女の継いだ次の言葉は、むしろ独り言に近かった。
「あたしのお父さんも旅をしていて、ずっと前から長らく帰っていない。でももうじき帰ってくるの手紙が届いたの。あの子が持ってきてくれて。大きくなったお前を見るのが楽しみだって。お土産を沢山持ってくるって。あたしが物心つく前に出ていったから」
あの子とは、犬のことを指しているのだろう。
「帰ってきたら、美味しいごちそうを作ってあげて、旅の話を聞いてあげるといい。辛かったことも、癒されるさ」
それだけしか言ってあげることが出来なかった。
「あなたは、いつ旅立つの」、少女は訊ねた。
灰色の空を眺めた。そして、顔を下ろした。市場が見えてきた。
この町は、雨が似合いすぎだった。テントが濡れて輝き、その元で根を下ろしたように生きている人たちは、穏やかだったが、力強くもあった。
「青空が見えたら」
すると少女は、思っていた通りの答えをした。
「雨はずっと降り続けるよ」
少女は駆け足になって、市場の真ん中へ入っていく。その後ろを早足でついていく。
市場の広場を真っ直ぐ通り抜けて、右手に曲がると、背の低い黒っぽい木の掘っ立て小屋が一つ……二つ……三つ、まばらに建っている。
三角屋根の際から、とめどなく雨のしずくが滴り落ちている。腐ったり痛んだりしているところを、つぎはぎつぎはぎ、別の木を付けて修復したらしい後が無数にあった。でこぼこした壁に、窓がとても大きく口を開けている。中で影がうごめいているのが遠目でも分かる。
見ていると、町のあちこちから帰路についた人たちが、次々小屋の中に入っていく。小屋という言い方は少し違う感じがして、ちょっとした広場くらいはありそうなくらい大きい。この三つの小屋が、この町に住む人たち皆の寝る場所だった。
少女は小屋とは少し離れたところで、草むらの中に立ってジッとしている。
やがて用を終えて、こちらの方に戻ってきた。右手の方にある一つだけ少し離れた家へ、一緒に中に入っていった。
そこには、まるでそこにもう一つの町があるようであった。地面には大地の上にわらが敷き詰めてあり、皆がそれぞれ好きなところに、好きなように寝転がったり、足を組んで座ったりしている。あちこちで談笑が沸き、話し言葉が飛び交っている。好き好きに組んで話し合い、右の二人と左の二人が交じり合って大所帯になって、一際賑やかで騒々しくなる。と、その中の一人が抜けて、ずっと遠くの方にいる者に、大きな声を掛ける。相手も応え、何かをそっちに投げた。受け取り、感謝の言葉を言うと、また元の輪に戻った。するとその中の別の者が立ち上がり、さっき投げよこした者の方へ行って、お互い手を上げて叩き合って、嬉しそうに喚いている。
まるで混沌としていて、誰が、何を話しているのか、はたから見ていると全く分からない。無数の言葉が屋根の中で、あたかも動物の吠える野太い声のように、こだましている。しかしその中で皆、疎通が上手くいっているようで、馬鹿みたいな騒ぎに楽しそうだった。においもさわやかで、あちこち煙草の煙が白く漂っているが、それはまるで香水のようだった。
あの筆をくれた女がいた。右手で煙草をふかし、左手は足の指をこねるようにいじりながら、仲の良さそうな肥えた女と話をしていた。
女の手元が黒くなっていて、よく見てみるとそれは髪の毛で、あの時渡したものに違いなかった。手の指一本一本に髪の毛を巻きつけて、手の全体を黒く被っている。まるで毛のもつれたボロボロの手袋をはめているように見えた。そして今度は足の指へと巻きつけようとしていて、黒い靴のように縛っていくのだった。
そして肥えた女の下へ、少女はそばへ寄っていった。少女の母親らしかった。ずんぐり太く丸っこく、背中を丸めていて、上目遣いで覗くように周りを見ている。友達の言うこと、所作に満足そうに頷いたり、笑ったりしている。しかし口が利かないらしく、言葉が無いかわりに、満面の笑顔でダラダラと涎を垂らしている。そして何故か、涙の粒を目の端から、瞬きの度にポロポロと落としている……それは悲しんでいるためというわけではなく、身の奥底に備わった体質的な要因によって、流さずにはいられないといった風だった。こっけいに、笑い、涙を垂らす、泣きながら、笑う。
底抜けの馬鹿騒ぎの中でも、彼女一人特に輝いていた。
少女は持っていた果実を二人の前に置き、かわりにその横に置いてある、色あせた紙の上に載っている、黒っぽいかたまりを取って食べた。
話に夢中の二人は少女がいることに気付かず……と思ったら、まるで最初からあったもののように、果実に自然に手が伸びて取った。髪で巻いた手は滑り、なかなか上手く皮が剥けないようだった。やがて中身が取れて、数本の髪の毛交じりに、一緒に食べてしまった。
「うまいよーこれ!」
少女に向かって、とびきりご機嫌な声を上げた。
その果実を、黒いかたまりを、横に座っている者達が手を伸ばして摘み取る。男が、その子供らしき小さな子に与える。
少女は立ち上がり、少し離れたところに立っている老人の方へ近寄った。老人の腰には白い布の袋が下がっていて、少女はその口の中に手を突っ込んだ。老人はその力で下に引っ張られて、よろめいて、その場に座り込んでしまう。少女は構わず、その中から丸い木の実を摘み取って、口の中に放り込んだ。老人は、ちょうど目の前に置いてあった、真四角の不恰好な木の水筒を取って、豪快にひっくり返して頭に被って、ついでに水を飲んでいるといった感じだった。
だからそれに倣って、食べたくなった黒いかたまりを摘み取って食べて(甘くて苦かった)、老人の手から水筒を受け取って飲んだ。そしておもむくまま、グルリと後ろにひっくり返ってわらの感触を味わい、腕や手足を大きく広げて寝転がる。ボウッと、ざわめきを聞いている。