9 はじめての恐怖
ゴア王子は舞踏会会場の上座に腰を降ろし、マチルダの到着をいまかいまかと待ちわびていた。
そしてついにその瞬間が訪れた。
会場の入り口で兄のイーサンにエスコートされ若草色のドレスを身に纏ったマチルダが現れると、会場は大いにどよめいた。
「あれがハミルトン家の噂のマチルダ様か」
「もっとゴツゴツした大きな女性だと思っておりましたわ」
「大岩を担いだり、騎士団が一斉に飛びかかっても逆に男達を全てなぎ払うんだろう?」
「しかし……」
「ああ、なんて美しいのでしょう」
パーティーに集まった人々は噂されていたマチルダと目の前の可憐な令嬢のギャップに戸惑いの声を上げていた。
華やかで人目を惹く美しい兄妹の登場に、人々は興奮し、賛辞の声が続いた。
「成る程、ハミルトン公爵が外に出そうとしないわけだ」
「エスコートされているイーサン様もまだお一人の身ですわよね。私、立候補させていただこうかしら」
「あら、貴女じゃ無理ですわ。イーサン様は数多の縁談話を片っ端から断っているとのことですから、余程彼のお眼鏡に叶うご令嬢ではないと」
「それどういう意味ですの?」
マチルダとイーサンは口々に聞こえる周囲の好奇の声に無関心な様子で聞き流しながら、上座に座るパーティーの主催者であるゴア王子のもとへ真っ直ぐに歩みを進めた。
そして、ゴア王子の前に到着した二人は頭を下げ挨拶を述べた。
「本日はお招き頂きありがとうございます」
頭を下げるマチルダを壇上の椅子から見下ろしながら、ゴア王子はにやける顔を抑えつつ挨拶を返した。
「うむ。今宵は思いっきり楽しんでくれ」
(にやけ顔が抑えきれてないんだよ。クソ野郎)
穏やかな笑顔を浮かべつつ、イーサンがゴア王子に一瞬鋭い視線を向ける。
「うっ!」
イーサンの視線と殺気を何となく肌で感じ取ったゴア王子は慌てて彼から目を反らした。
(コイツはマチルダと破談した後からいつも私への殺気を消さないな。他の兄二人にしても私を軽視するような態度が目につくし。マチルダと結婚したらハミルトン兄弟は必ず痛い目に遭わせてやるからな)
心の中で悪態をついてからゴア王子は一旦気持ちを整える為深呼吸すると、再びマチルダに視線を向けた。
周りの人々が口にしていたように今日のマチルダはまるで妖精のような美しさで、ゴア王子はマチルダに釘付けになった。
若草色のシフォンの生地と裾に施された金色の刺繍はマチルダの色白の肌と高貴で上品な雰囲気を際立たせていた。
ゴア王子の視線を感じたマチルダは、下げていた頭を上げゴア王子に視線を合わせた。
ぱっちりとしたマチルダの琥珀色の瞳がゴア王子の視線と絡み合い、あまりの可愛らしさにゴア王子はまたもや心臓をズギュンと撃ち抜かれた。
「ヴッ!」
いつぞやのお茶会の時のようにゴア王子は思わず高鳴る左胸を抑える。
「あっ、大変です。また、発作が……!」
そんなゴア王子の様子にマチルダが心配の声を上げる。
前回の失敗を思い出し、ゴア王子は慌てて自分を立て直した。
「い、いや。違う。大丈夫だ」
周りに近寄って来ていた使用人達を目で追い払いながらゴア王子がマチルダへと騒がぬよう抑制する。
「阿呆が……」
マチルダの隣でゴア王子の心情を察したイーサンが誰にも聞こえない声でボソリと呟いた。
その後夜会は順調に過ぎていった。
ゴア王子とのダンスを終えたマチルダは、ゴア王子に誘われるままバルコニーへと移動し、用意されていたソファーへと二人で腰を降ろした。
「疲れたか? マチルダ」
少し疲れの見えるマチルダに、ゴア王子が労るように声をかけた。
「いえ、大丈夫です。あまりこういう夜会には参加したことがなかったので、この雰囲気にまだ少し慣れていないだけです」
心配ないというようにマチルダがゴア王子へと笑顔を向けた。
「それなら良いが」
そう言うとゴア王子はパチンと指を慣らし、後ろで控えていた使用人が二人分のワインを運んできた。
「今宵の素晴らしい夜会に乾杯しよう」
ゴア王子はワインを持つとひとつをマチルダへと手渡した。
マチルダも断る理由もなくワインを受け取る。
そのまま二人でワインを上に持ち上げ乾杯の形を取ると二人でそのままワインを口にした。
ゴア王子はワインを飲みながらグラスの脇からワインを飲み干すマチルダを眺め、ニヤリと笑った。
「どうだ、美味しいワインだろ? 今夜のお前の為に特別に用意したものだ」
「はい、とても飲みやすくて美味しいです」
マチルダの喉をワインが流れ込む。アルコール度数が強いのかワインが通った場所が少しだけ熱を帯びたように感じた。
するとその直後にマチルダの視界がぐらりと揺れた。
「おっと、大丈夫か? マチルダ」
「は、はい。すみません。あまりお酒には慣れていなくて……」
「気にするな。夜会での疲れもあるのだろう。ゆっくりとここで身体を休めればいい」
そう言うとゴア王子は使用人に視線を送り、この場から下がるよう目配せした。
使用人は頭を下げるとさっとその場を離れた。
マチルダの全身にアルコールが回ると、熱に浮かされたようにマチルダの目が涙で潤み始めた。
目の前で顔を上気させるマチルダにゴア王子はごくりと唾を飲み込んだ。
(こんなに即効効くなんて……。素晴らしい)
マチルダは身体の内側から沸き起こる熱に戸惑いつつ、ぼんやりとする頭で危機感を募らせた。
(こんなところでアルコールで酔い潰れたらハミルトン家の名に泥を塗ってしまいます。急いで家に帰らなくては……)
「す、すみません殿下。私、やはりあまり体調が優れないようなので……帰らせて頂きます」
必死で意識を保ち何とかそう告げるとマチルダはソファーから立ち上がった。
しかし、足に力が入らずそのままフラりと身体が傾いた。
「おっと」
マチルダの身体をゴア王子が腕で支える。
「熱いな……」
熱を帯び、滑らかで柔らかいマチルダの肌の感触に、ゴア王子の理性がプツリと切れた。
ゴア王子は受け止めたマチルダ身体をそのままソファーへと押し倒した。
「あっ……!」
自分の上に覆い被さるように身体を沈めるゴア王子にマチルダは必死で抵抗を試みた。
「や、やめて下さい! 殿下、離して……っ!」
両手をゴア王子に掴まれたマチルダは手を振りほどこうと身体をバタつかせるが、ゴア王子はびくともしない。
以前のマチルダならほんの少し手を払うだけで、彼の身体を数メートル吹っ飛ばすことが出来ただろうが、力を失ったマチルダは彼の腕1本ですら動かすことが出来なかった。
抵抗するマチルダに興奮したゴア王子は荒い息でマチルダの白い首元に唇を寄せた。
途端、マチルダの身体をぞわりと悪寒が走る。
(嫌です! 怖い! ……誰か助けて!! イーサンお兄様……っ)
初めての恐怖にマチルダは身体を震わせた。
(い、や! マンフリード様!)
「マンフリード様!!」
思わずマチルダの口から愛しいマンフリードの名前が洩れた。
「マンフリードだとっ!?」
自分以外の男の名を口にしたマチルダにゴア王子がカッとなる。
一層マチルダを押さえる手に力を入れたその時だった。
ゴスッ!!
鈍い音がバルコニーに響くと、マチルダの視界から上に乗っていたゴア王子の身体がぐらりと傾き、ドサリと地面に落ちた。
「……?」
突然の状況に理解が追い付かないマチルダの視界に、倒れたゴア王子を踏みつけている黒いフードを被った人物が映った。
「もう、お前は駄目だ」
そう呟くと男はフードを外し、申し訳なさそうにマチルダへと視線を向けた。
月明かりに照らされ、銀色の髪の毛が輝く。
「ごめん、マチルダ」
そう謝ると目の前の男--ルディは恐怖に頬を伝っていたマチルダの涙を指で拭った。
「ルディ……」
マチルダはそう告げるのがやっとだった。身体中が熱いやら、恐怖で震えるやらでマチルダはまともに身体を動かすことが出来なかった。
そんなマチルダを労るようにルディがそっとマチルダの身体を起こし、腕に抱いた。
「嫌っ!!」
先程のゴア王子に受けた行為を思い出し、マチルダが拒絶の声を上げた。
「大丈夫、大丈夫だマチルダ。何もしない」
そう言うとルディは抱き締めたマチルダの身体に魔力を流した。
マチルダの身体の熱がゆっくりと引いていく。
「あ……」
急に楽になった身体にマチルダが安堵の声を洩らした。
マチルダが楽になった様子を見てルディがスッとマチルダから身体を離す。
そしてそのままソファーで向き合う形で話を始めた。
「ゴア王子が仕込んだ媚薬は今抜いた。もう大丈夫だ」
媚薬、という単語にマチルダが驚きで目を見開いた。そんなマチルダを見ながらルディは床に意識を失い倒れているゴア王子をゲシゲシと足で蹴りながら話を続けた。
「こいつがここまで愚かだとは思わなかった。……いや、分かっていたがそれでも上手く利用できると思っていた。マチルダがこの城のお姫様になるにはこいつが必要だったから」
ルディの言葉にマチルダは首を横に振った。
「いいえ、ルディ。私はもうそんなことは望んでいないの」
「うん、そうだな。マチルダがこの国に戻ってから俺はずっとお前を見守っていた」
ルディの言葉にマチルダがハッとしたような表情になる。
「ずっと悲しそうだった。……お前を笑顔にするのはあいつじゃないと駄目なんだな」
ルディがマチルダへと視線を戻す。
「元のお前に戻りたいか?」
ルディは金色の瞳をマチルダへと真っ直ぐ向けた。
マチルダは、恐る恐るルディに尋ねた。
「戻れるのですか……?」
マチルダの頭の中に力を失ってからの自分の姿が思い起こされる。
マンフリードに守られるだけの自分。
マンフリードを庇い、傷付き倒れる自分。
ゴア王子に襲われても抗うことが出来ずにただ震えていた自分。
同時に化け物と罵られる自分の姿が脳裏を過る。
押し黙るマチルダにルディがもう一度尋ねる。
「力を取り戻したいか? マチルダ」
マチルダは胸で拳をぐっと握り締めると顔を上げ力強く答えた。
「はい。もう一度力が欲しいです!」
「……分かった。力を戻そう」
マチルダの決意を受け止めたルディは胸元から魔石を取り出すと、再びマチルダの足元に魔法陣を浮かび上がらせた。
ルディの呪文と共に魔法陣が光を放つ。
マチルダの身体をあの時のように魔法陣の光が覆う。以前の苦しかった体験を思い出し、マチルダは思わず身体を強張らせた。
「あ……」
しかし今回は前回の搾り取られるような感覚とは違い、暖かな優しい力がマチルダの全身を包み込むように駆け巡った。
(ああ、これでまた私は----)
光が消える。
身体中に溢れる力を感じ取ったマチルダは、自分の身体を大事そうに両腕で抱き締めると、静かに噛み締めるように一筋の涙を流した。




