3 マチルダの家出
その日、騎士団の朝練習を終えたマチルダは、先に練習を切り上げて屋敷へと戻った長男のアルフレドを探していた。
マチルダの手には、アルフレドがいつも大事そうに首に掛けているネックレスが握られていた。
騎士団の練習中に鎖が切れたのであろう、そのネックレスが鍛練場の土の上に落ちていたのをマチルダが見つけ、拾ったのだった。
小さい頃からアルフレドに嫌われていると感じていたマチルダは、自分がこのネックレスを渡すと兄が不快になるのでは、と不安に思ったが、他の誰かに頼むことも気が引けたので、仕方なく自分で渡そうとアルフレドの部屋へと足を運んだ。
屋敷へ入り、玄関ホールの両側の階段を上がった廊下の中央にアルフレドの姿が見えた。そこには7年前に亡くなったマチルダの母親の肖像画が飾られており、アルフレドはその肖像画をじっと眺め、佇んでいた。
「アルフレドお兄様」
マチルダがホールから階段上の兄へ呼びかけた。
その声にアルフレドの肩がピクリと反応し、ゆっくりとマチルダへと振り返る。
「お兄様、あの、これ……」
ネックレスのことを言い出そうとしたマチルダだったが、心配した通り、此方を見るアルフレドの視線が冷たく、マチルダはその後の反応が怖くなり、次に続く言葉を出すことが出来なくなった。
「何だ?」
口を閉ざしたマチルダに対して、イラついた声色でアルフレドが問いかける。
アルフレドの態度に萎縮しかけたマチルダだったが、気持ちを奮い起たせ、必死で言葉を絞り出した。
「お兄様が大事そうにいつも身に付けていたネックレスが、訓練場に落ちていたので、届けに来ました!!」
勢いに任せて話してしまったことで、想像以上に大きな声が出たマチルダは、『淑女なのにはしたない声を出してしまった』と心の中で己を恥じた。
「ネックレス……!?」
アルフレドが首に手をやると、それが無いことにようやく気付き、己を叱責するように眉根を寄せ、マチルダへと鋭い視線を投げつけた。
「今、お渡しします!」
不安そうな顔をしたアルフレドに気付き、マチルダは急いでネックレスを渡そうと、階段を一気に駆け上がった。
その後、アルフレドの前に遠慮がちに立ったマチルダは、呼吸を整えると、ゆっくりとネックレスを持っていた両手を広げた。
「あっ!」
手の中に大事に持っていたネックレスのトップが、無惨にもペチャンコに潰れているのを目にし、思わずマチルダから短い悲鳴が漏れた。
(さっき、お兄様の声を聞いた時、ビクッとして手に力にが入ってしまったんだ……)
マチルダの顔がみるみる青褪め、恐る恐る兄の方へ視線を移す。
「こ、のっ……!」
予想通り、アルフレドの眉間に深い皺が刻まれ、額の横には青筋が浮かんでいた。
「化け物め!!」
アルフレドはマチルダの手から壊れたネックレスを乱暴に取り上げたが、それでも怒りが収まらず、マチルダを更に罵倒した。
「お前が母上を殺したんだ! お前のような怪力を身籠ったせいで母上は力を奪われ、死んでしまったんだ! なのにお前と来たら力も制御出来ず、みっともなく色んな物を破壊しまくる」
化け物と詰られたマチルダは、その言葉が受け止められず、ぱちくりと目を瞬かせた。
その様子に一層苛立ったアルフレドは
「顔も見たくない!」
と言葉を吐くと、マチルダから背を向けその場を足早に去っていった。
その場に取り残されたマチルダは、両手をギュッと握り締め、兄の言葉を重く受け止めるように項垂れた。
その日、マチルダは屋敷から姿を消した。
◇◇◇
「一体、何処に消えてしまったんだっ!」
ジョージは書斎のテーブルに肘をつき、頭を抱えた。
今朝の稽古以降、マチルダの姿を見かけていないと屋敷の使用人から連絡を受け、ジョージは急いで王国での仕事を切り上げ、屋敷に戻ってきた。
「すみません、旦那様。私が、もっとお嬢様に目を光らせていればこのようなことにはなりませんでした」
乳母のミリアが涙目で謝罪した。
「……いや、私も屋敷の中ではマチルダに好きなようにさせていたのだ。お前だけの責任ではない」
焦る気持ちを落ち着かせ、ジョージはミリアに言葉を掛けた。それと同時にジョージは頭の中で、マチルダの行動について予測を立てていた。
(精鋭騎士団の揃っているこの屋敷に、誘拐目的でやってくる命知らずの者はまずいないだろう。
だとしたら、マチルダが自らこの屋敷を抜け出したことになる。その目的は?)
--コンコン
ジョージが思案に耽っていると、扉が遠慮がちにノックされた。
「入れ」
ジョージの声に扉が開き、そこには気まずそうな顔をしたアルフレドが立っていた。
「どうした、 アルフレド?」
ジョージの問いかけに、アルフレドは声を詰まらせながらも、事の次第を正直に告げた。
「マチルダがいなくなったのは僕が原因です」
「何だと?」
ジョージの目元がピクリと跳ね、アルフレドはそれを視界に捉えながら、懺悔するように言葉を続けた。
「マチルダが、母上の形見のネックレスを怪力で壊してしまって、カッとなって……ひどいことを……」
◆
朝稽古後、マチルダに暴言を吐いたアルフレドは部屋に戻ると、手に握っていたネックレスを苦々しい思いで見つめた。
『アルフレドが立派なハミルトン家の当主になれますように』
レジーナの願いが込められたネックレスを見ながら、母親の言葉を思い出す。
母親が亡くなって7年経つが、アルフレドは未だに母親の死が受け入れられずにいた。母親の死の代わりに生まれた妹のマチルダは、皮肉にも兄妹の中で唯一レジーナに似ており、日を追う毎に美しく可憐に成長するマチルダは、否が応にもアルフレドに母親の存在を思い出させた。
――母親に似ているマチルダの存在が許せない。
自分が幼いマチルダに、どれ程理不尽な態度をとっているかも分かっていたが、母親を渇望するあまり、拗れまくってしまった心をどうすることも出来ず、アルフレドは、出来るだけマチルダを傷付けないよう、距離を取っていた。
それなのに、
(箍が外れてしまった……)
マチルダからの思わぬ接近に、咄嗟に感情を抑えることが出来なかった。
幼い妹の傷ついた顔が脳裏に過る。
「次期当主失格だ……」
アルフレドはベッドに突っ伏し、酷く自己嫌悪に陥った。
(優しくしなければ。……そうだ、僕は誰よりもマチルダに優しくしたいと思ってるのに……)
それからどれ程の時間が経っただろうか、いつしか眠ってしまったアルフレドは、屋敷の中の騒がしさに目を覚ました。
「マチルダ様~!!」
乳母のミリアの切迫した声が聞こえ、アルフレドは嫌な予感がして、ベッドから跳ね起きた。
アルフレドが慌てて部屋を出ようと、部屋の扉に足を向けたその時、扉の下の隙間から手紙が差し込まれていることに気が付いた。
(いつの間に……)
アルフレドが手紙を手に取り、折られている紙をゆっくりと広げる。
“ごめんなさい“
手紙には一言謝罪の言葉が書かれていた。幼い筆跡からマチルダが書いたことは容易に想像出来た。
「僕は、何て事を……」
慌ただしい屋敷の声が一瞬アルフレドの耳から掻き消え、アルフレドの心に後悔の気持ちが押し寄せる。
自分が幼いマチルダをここまで追い詰めた。
自分の矛盾する気持ちも、母親への渇望も全てが下らないことのように思えた。
アルフレドは手にした手紙を握り締めると、一目散に父親の書斎へと駆け出した。
◆
「僕がマチルダに『僕の目の前から消えろ』と言ったから、マチルダは屋敷を出て行ってしまったんだ。それから、『母上がマチルダを生んだせいで死んだ。』『怪力の化け物』と…」
バシンッ!!
書斎にジョージの平手打ちの音が鳴り響いた。
「旦那様!」
アルフレドの告白を涙を流して聞いていたミリアが、ジョージに制止の声をかける。
「これは今までのマチルダの痛みの分だ」
ジョージは息子を叩いた手を握り締め、苦々しい表情でアルフレドを見下ろした。
「……は、い」
アルフレドは言い訳をすることなく、赤くなった頬のまま、項垂れて答えた。
「……とにかく今はマチルダを見つけることが優先だ。お前も騎士団と共にマチルダの捜索に出るんだ。話はその後だ」
ジョージがアルフレドに捜索命令を出した直後、慌てた様子の騎士団長が、書斎へと飛び込んできた。
「マチルダ様の目撃情報が入りました!」
「「!!」」
ジョージとアルフレドが、弾かれたように騎士団長へと視線を向けた。
「城下町で身なりの良い幼い少女が、闇組織の男に声を掛けられ、連れて行かれたと町の住民が言っていたようです」
「あぁっ……!」
最悪の報告に、ミリアは血の気が失せ、フラリと身体をよろめかせた。
「急いでその男の身元を洗え! 騎士団はマチルダが連れ去られたアジトを見つけ乗り込むぞ!!」
「はっ!!」
ジョージが鋭い声で騎士団長に指示を出すと、騎士団長は敬礼し、素早く書斎を後にした。
「アルフレド、我等も出るぞ!」
「はいっ!」
ジョージとアルフレドも険しい表情で書斎から飛び出した。
(マチルダ、どうか無事でいてくれ!)
アルフレドは祈るように強く心の中で呟いた。