無能な時間停止魔法
石が目前に迫っていた。大きさは顔より少し小さいくらい。表面は灰色で、拳のように角ばっている。このままでは、その拳は俺の顔を貫くだろう。避けることができるだろうか。
停止した時間の中でそんなことを考えながら、俺はその石を観察していた。
今、時間は停止している。風で揺れていた木の葉は微かにも動かず、停止前に俺が手から離した本は、地面に着かずに宙で固まっている。
なぜ停止しているかと言えば、それは俺が止めたからだ。
停止。それは俺が使える魔法であり、効果は十秒間時を停止させること。
それだけ聞けば、夢のような力に思えるかもしれないが、実際の所全く違う。停止中、体を動かすことはできないのだ。停止中の時間の中で、動かすことができるのは脳だけ。
避けようと横に一歩踏み出すことすらできないし、ましてや石を掴んで、投げ返すなんてことはできない。
石の向こうに見える人影に視線を移す。そいつは俺より少し若い、十七、八歳ぐらいの男だった。石を投げて、右手を突き出したまま停止している。体重のかかり方から考えて、かなり本気で投げたようだ。そんなことをされるほど恨まれているとは思っていなかった。
自分の家のこと、今置かれている状況、様々な記憶が引きずり出されて、頭を占有しようとしてくる。俺はそれを押しとどめた。もっと考えなければならないことがある。なんだっけ?そうだ、時間が進み始めた瞬間、石にどう対処するか、だ。
ぱっと思いついた案は、顔を傾けること、しゃがむこと、手で顔だけでも守ること。
残り四秒。
石と顔との距離は一メートルもない。しゃがむのは間に合わないだろう。
残り三秒。
なら、顔を傾けるしかない。手で守るのは痛いだろうし。
残り二秒。
右に傾けよう。俺は右利きだし、石は顔の中心から若干左に寄っている気がする。
残り一秒。
よけた後、奴をどうしてくれよう。魔法で痛めつけてやろうか。それとも、石より硬い俺の拳を叩き込んでやろうか。
残り0秒。
時間は進み始め、草木は擦れ合い、ざわざわと音を立てることを再開した。本は開いたまま地面に着地し、ページが汚く折れ曲った。
そして俺は石に当たって、意識を失った。
ブレムス家。それはヘルム王国を事実上統治する、十一の貴族の一つである。王国の西部を領土として持ち、隣国との紛争の中で隆盛してきた一門だ。俺は、現当主である父の次男だった。
父は子供たちに対しては厳格な人間であった。父自身が守れていない貴族としての礼節を子供達に求め、貴族らしくあるべきだと説いた。姉一人、兄一人、妹二人、俺の兄弟たちの父への対応は様々だったが、俺を除いて、皆上手くやっていた。
俺と父との関係は険悪だった。それはなぜだか父が、殊更に俺に厳しかったからだ。そんな父に我慢ならず反抗し、父はそんな俺にさらに厳しくし、また俺は反抗する。その繰り返しだった。そんな俺を遠くに追いやりたかったからだろうか、十二歳になると父は俺を都の学校へ入学させた。
父に縛られない学校での暮らしは楽しかった。広い海で泳いでみると、水瓶の中での暮らしがどれほど窮屈だったか実感させられた。そして同時に、戻りたくないと強く思った。
最後の学校を卒業する一年前、俺は実家からの出奔を決意した。それならどこに逃げようかと悩んだ時、俺はふと、母と過ごした町を思い出した。
九歳の時に死んだ母。俺に唯一温かな愛情をくれた人だった。俺と母は二年間だけ二人で丘の上の屋敷に住んでいた。
幸せな生活だった。朝は朝食の匂いで目を覚まし、母と二人で食べた。母はいつも、俺が好きなオムレツを作ってくれていた。昼になると丘を降りて、手を繋いで買い物した。母は貴族だったが、町の人々と友達のような関係を築いていたことを覚えている。夜寝る前には子守唄を歌ってくれた。何があるわけでもないのに明日の朝を待ちわびながら、気持ち良く眠りについた。
そんな町に戻りたくなった。しかし同時に俺は知っていた。今、その町の人々はブレムス家を憎んでいる、と。
額の痛みで目を覚ました。手で触れると痛みが走ったが、こぶができているだけで、出血はしてないようだ。
気絶してから数時間は経っているようで、日が赤く木々を照らしていた。近くには、乗ってきた箒、直前まで読んでいた本、荷物を詰めた布袋が転がっている。俺は箒が盗まれていないことの安堵で、大きく息を吐き出した。母との思い出の品で、所持品の中で、唯一価値がある。
俺はめまいに耐えながらゆっくりと立ち上がって、それらを拾い集める。
「ねえ」
右方の木々の間から突然声が掛かる。俺はその瞬間、筋肉のこわばりと同じくらい早く、停止の魔法を発動させた。
声を掛けてきたのは先程の少年と同じく、十七、八歳ぐらいの女だった。背は高めで茶色のショートヘア。手には何も持っておらず、微笑を浮かべている。害意はなさそうだ。
停止は何度でも使えるというわけではないのに、ここで使うべきではなかった。先程の敵意の反動で、野生動物のように敏感になっている。心の中で深呼吸し、気分を落ち着かせる。
落ち着くに従って、疑問が湧いてきた。起きてすぐに辺りを見回した時、彼女の姿はなかった。しかし今、彼女は足音もなく、木々の間から姿を現した。それはつまり、木の陰に隠れて俺の様子を覗いていたことになる。いつから見ていたんだろうか……。そんなことを考えていると、十秒が経過した。
「おおっ!?人いたのか。誰だ?」
俺は停止を使わなかった場合に、していたであろう反応を演じた。停止を使えるようになってから既に五年が経つ。この手の演技は慣れっこだった。
「私?私はそこの村の住人だよ。あなたは……ブレムス家の人だよね?」
ブレムス家。その言葉で心臓が跳ねた。俺は動揺が伝わらないよう、一呼吸置き、返答した。
「違うぞ、まったく違う」
「嘘つかなくてもいいって。ここら辺で見ない顔だし、高そうな箒持ってるし……。そうなんでしょ?」
「いや、俺はただの金持ちの旅人だ」
「じゃああなたはどこに行こうとしているの?この道の先はブレムス家の別邸しかないよ。」
「…………。分かった、正直に言う。俺はブレムス家の関係者だった」
「ほらーやっぱり」
彼女は微笑を満面の笑みに膨らませ、近づいてきた。
これからブレムス家の邸宅にすむのだから、隠し通せるなどとは鼻から思っていなかったが、こんなに早く明るみに出るとは。ブレムス家がこの町で憎悪される原因となった事件が起きて、既に十二年。記憶は既に薄れて、ブレムス家という存在は縁遠いものになっていると、どこかで楽観していた。しかし、彼女がすぐに俺がブレムス家の人間だと分かったということが、そんなに甘くないのだと示している。
「それ、痛そうだね」
彼女は手で触れられるほどの距離に近づいていてから、俺のこぶを指差した。そして、伸ばした指でそのままこぶを押した。
「痛ってえええええ」
俺は痛みで顔を背けた。この町には暴力的な奴しかいないのか?このクソ野郎どもが!!
「このクソ野郎が!!」
「ごめんごめん。すごい痛そうだから気になっちゃって。面白い触感だね」
何が面白い触感だ!!…………だめだ、ここで感情に身を任せてはならない。一息吐いて、気持ちを宥める。村ぐるみでブレムス家を嫌っている中で、彼女のように接してくれる人物は貴重なのだから。
「あのなあ。気になったからって触ったらダメだろ?」
「おお、急に冷静になったね。それに関してはごめん。それで、ブレムス家の関係者の人が何しにここに来たの?」
「待て。関係者「だった」って言っただろ?今は違うんだ。…………逃げてきたんだ」
「へぇー。それは面白そうな裏がありそうだね。いつか聞かせてね。それで?」
逃げた理由を詳しく訊ねてこないことに驚いた。無遠慮ではあるが、ある程度の線引きはしているらしい。
「これからここに住むことにしたんだ。よろしく」
「それはそれは。よろしく!」
彼女はまた、笑顔を見せた。今までの中で、最大の笑みだった。
「なんでそんな笑ってんだ?」
「これから、面白くなりそうだからね」
設定頑張って考えました。
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