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おじいちゃんの雲の上

作者: 中田間皿

「大きくなったらパイロットになれ」

 無愛想なおじいちゃんは、しばしば僕にこう言った。しかしそんな気はさらさらなかった僕は言われる度に曖昧に返事をしてはお茶を濁した。どうしてそう何度も勧めてくるのか質問してみたこともあるが、おじいちゃんはムスッとして「とにかくなれ」と言うだけだったので理由はついぞ分からなかった。おばあちゃんの話によるとおじいちゃんは若い時分には戦闘機に乗って戦争に行っていたらしいので、きっと僕を自分の跡継ぎにでもしようとしてそう言っているのだろうと何となく解釈していた。そんなわけで僕は子供の頃、不愛想なこのおじいちゃんが苦手であった。

 昨年の春僕は高校卒業と共に親元を離れて単身北海道での暮らしを始めた。パイロットではない、僕がかねてからやりたいと思っていた仕事に打ち込むためだ。だから今となってはもうおじいちゃんに会う事はほとんど無くなってしまった。たまの連休に会いに行っても、僕が既に仕事に就いたからなのかあの言葉を口にすることが無くなり、元々少なかった口数が輪をかけて少なった。僕の方も僕の方で子供の頃の苦手意識のせいでどこか距離を感じてしまい、他人行儀な会話を続けることしか出来なかった。僕がもう少し大人になればあの言葉をネタにしてわだかまりなく話せるようになるのだろうか、漠然とそんな風に思っていた。

 しかし一本の電話がその望みを打ち砕いた。

 おじいちゃんが亡くなった。

 僕はすぐに職場に休暇をもらっておじいちゃんの実家のある東京へ飛んだ。葬儀に参列をして棺の中で眠るおじいちゃんの顔を見た。相変わらずの厳格な表情であった。今にも目を開いて僕を呼びあの言葉を吐かれやしないかとドキドキしたが、固く締められた口は終に開かれることが無かった。

 諸々の行事が終わった後、僕はおじいちゃんの家に寄った。リビングでお茶をすすりながら親戚一同がおじいちゃんの思い出や近況報告に花咲かせているのをぼんやり眺めていると、おばあちゃんが手招きして僕を呼んだ。


「わざわざ遠くから来てくれてありがとね。長旅で大変だったでしょう」

 僕はおばあちゃんと並んで廊下を歩いた。

「お仕事の方はどう? 順調にいってる?」

「正直、少しスランプ気味かな。最近あんまり良い結果に結びつかなくてね」

「あらそう。ごめんね、そんな大変な時期に呼び寄せちゃって」

僕は慌てて頭を振った。

「とんでもない。おじいちゃんとの最後のお別れとなれば、いつだって飛んでくるよ」

僕は心配をかけまいと言葉を重ねた。

「調子は悪いけど、仕事は楽しくやってるよ。先輩やライバルにも恵まれたし、今年は特に女子の方も勢いがあるから業界全体が盛り上がると思う。それに何よりもあの素晴らしい景色と解放感、あれを一度味わっちゃうと病みつきになっちゃうんだ。それに……」

夢中で話していておばあちゃんがクスクス笑っているのに気付かなかった。僕は少し恥ずかしくなった。

「ごめん、つい熱くなっちゃって。でも、だから心配しなくていいよ。一人でもちゃんとやってるから」

「あなたが元気ならそれで良いのよ」おばあちゃんは言った。

 部屋の前に着いた。重厚感のある木製の扉の部屋、子供の頃から何度か目にしたことはあるが今まで一度も中に入るどころか近づくことさえも避けていた部屋だ。

「さあどうぞ。おじいちゃんの部屋ですよ」

 おばあちゃんが扉を開けた。

 初めて部屋の中を見た。てっきり本棚が並んだ書斎のようになっていると思っていたが、実際は応接室のような風情であった。部屋の中央には高そうな机と椅子が鎮座し、壁際の棚には書物の代わりに色褪せたトロフィーや盾、古そうなワインが陳列されている。

「ちょっとここで待っててね」

 おばあちゃんが部屋から出ていった。僕は椅子に腰かけた。高級な椅子に僕のお尻は深々と沈みこんだ。隅々までキチンとされた室内はとても生活感が感じられず、まるで学生時代に校長室へ呼ばれたかのような息苦しさを覚えた。でも厳格なおじいちゃんらしい部屋だな思い僕がつぶさに視線を巡らすと、部屋の隅に一つだけこの部屋に似つかわしくない物があるのに気が付いた。

 それは僕の背丈を超えるほどのガラスケースであった。そしてその中には戦闘機のフィギュアが大小様々、所狭しと並んでいた。小さいながらも細部まで丁寧に色付けされている物もあれば、すこし羽が不格好な物までびっしりある。まさかあのおじいさんが作ったのであろうか。このように展示してあるだけでも驚きなのに、製作まで行っていたなんてとても信じられなかった。

「びっくりした?」おばあちゃんが紙袋を抱えて戻ってきた。

「それ全部おじいちゃんが集めたのよ」

「戦闘機に乗っていたって話は聞いていたけど、まさかこんな物まで集めるほど好きだったとは思わなかったよ」

「若い頃はよく話してくれたわ。『曇天の空に向かって戦闘機を飛ばすと視界が雲で一面真っ白になる。そして突然パッと光に包まれて、そのあとに広がるのは透き通った青空と真っ白な雲海。あの景色は何にも代えがたいものだ』って。あの人、普段は無口なのに空の事や飛行機の事になるといつもすっごく興奮するのよ。さっきのあなたのようにね」

「全く想像できないな。僕の前ではそんな素振り見せなかったから」

「以前私がからかっちゃったから、きっと恥ずかしかったんでしょうね。それにあなたもおじいちゃんとあまりお話しなかったものね。おじいちゃん、苦手だったんでしょう?」

 突然図星をつかれて僕はドキリとした。どう答えれば良いかと思ったが、おばあちゃんがいたずらっぽく笑うので僕は正直に言った。

「別に嫌いだったわけじゃないんだ。ただ僕はやりたいことが決まっていたからおじいちゃんの期待に応えられなくて、それが申し訳なくて距離を置いちゃったんだ」

「良いのよ。それはちゃんとおじいちゃんも分かっていたから」

「そうかな? あれだけ何度も言ってたんだもの。僕がパイロットにならなくて本当はがっかりしてたんじゃないかな」

 僕がそのように言うと、おばあちゃんは抱えた紙袋を差し出した。「おじいちゃんからのプレゼントよ」とおばあちゃんは言った。

「あなたが無事に仕事に就いたって聞いた時、体を悪くしたおじいちゃんに頼まれて私が買ってきたのよ。パイロットがこんなもの使うのかってからかったら、馬鹿を言うなって怒られちゃった」

 袋の中身を取り出した。青を基調としたレンズとゴムの、スノーゴーグルだった。

 僕は自嘲した。まだパイロットになってほしいと思っていたならこんなプレゼントするわけがない。おじいちゃんは僕の事を応援してくれていたんだ、願いをかなえてあげられなくて負い目を感じてた僕はなんと愚か者であったのか。目頭が熱くなってきた。

「おじいちゃん、別にあなたをパイロットにしたかったわけじゃないと思うわ。きっと空を飛んだ時のあの感動をあなたにも味わわせてあげたかっただけなのよ」

 こみ上げた嗚咽で僕は言葉を発せなかった。

「あなたは自分の思うように進めば良いの。それが私たちの喜びよ」

おばあちゃんは言った。


 精神統一終了。僕は目を開いた。

 スタート前にいつもするルーチンなのだが最近どうも上手くいかない。心を静めようとするとつい先日の思い出に浸ってしまう。

 おばあちゃんは僕の思う通りにすればいいと言ってくれた。しかし最近思うのだ、もしも僕がパイロットを志していたならおじいちゃんとの関係も違っていたのではないのかと。あの部屋でフィギュアを眺めながら雲の上の景色について楽しく話が出来たのでないかと。そう思うとやはり後悔の念は拭えない。

 シグナルが青になった。僕は慌てて前傾姿勢をとって助走路を滑りだした。

 遥か彼方に人だかりが見える。視界の隅に雪をかぶった山々が見える。しかしスピードがぐんぐん上がり、やがて自動車を優に超えるスピードになるとそれは白く溶け込んでいった。そして一瞬、すべてが真っ白になった瞬間、僕は全身に力を込めて、そしてーー。

 僕は飛んだ。

 僕はその時自由になる。せわしない街の喧騒も届かず地面すらも遥か遠い。ピンと伸ばした体に感じるのは風とその音と重力だけだ。僕を虜にしてやまない、最高の瞬間である。

 しかしその日はそれだけじゃなかった。何度も見たはずの光景に僕は目を奪われた。

 新品のゴーグルに映るのは透き通った青空と真っ白な雲海。おじいちゃんが見たという、雲の上の景色が広がっていた。

 いやよく見ると違う。頭上は雲一つない空、眼下の雲は降り積もる雪だ。しかしなんだこの爽快感は!

 戸惑う気持ちの一方で、僕は聞いた。

「どうだ、雲の上はこんなにきれいなんだぞ。すごいだろう」

 気のせいだろうか。しかし子供のような興奮気味のその声で僕の心は軽くなった。おじいちゃんと話が出来たようで嬉しかった。

 僕はパイロットにはならなかった。ラージヒルから飛んでも東京タワーすら越えられない。しかし僕は誰よりも高い景色を見ることができた。それはおじいちゃんが見たという雲の上の景色である。

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