海大夫屋敷(三十と一夜の短篇第6回)
海大夫屋敷は一九六*年十月の季節外れの台風によって、海に沈んだ。それからだいぶ経って、先月には姉が亡くなり、その前には海大夫屋敷のあった町が津波によって全てさらわれてしまった。それは海大夫屋敷をさらったときと同じような恐ろしい出来事だったが、新たな悲しみが人々の心を独占した今となってはあの屋敷のことを思い出そうとするものは皆無だろう。
だから、書き残すことにした。
戦後間もないころ、海大夫屋敷には多くの人々が訪れた。そのほとんどが海で戦死した家族に会うためだった。私が屋敷について印象に残ったことの一つに上着の預かり所があった。何しろ、物が不足していて、羅紗のジャケットなど汽車の椅子の背にかけて放っておこうものなら、あっという間に盗まれてしまう卑しい時代だった。そのため、海太夫屋敷ではジャケットなりコートなりの預かりをきちんとしていた。預り証代わりに木の札を渡すのだが、これが黒漆仕上げに螺鈿を細工したもので、楓や桜、傘を差す小野道風の美しい姿がきらきらと夢のように光る真珠層によって描かれていた。そのころ焼け野原になった東京では鉄兜をヤカンに作りなおして闇市で売っていた。この事実一つ取ってみても、海大夫屋敷があの時代から超越していることがうかがえる。あの苦難の時代に海大夫屋敷に住むことができて、私は本当に運がよかった。
海大夫屋敷は大きな建物で大座敷、中座敷、小座敷と座敷の大きさに分かれていて、私よりも六つ上の姉はあちこちの座敷へ料理を運ぶ役だった。深刻な食糧不足が嘘のようで、姉はどこからともなく現われる天ぷら膳だの鯛飯膳だのを座敷に持っていくのだが、座敷では米軍の潜水艦に撃沈された本土引き上げ船の人々や海に墜ちたゼロ戦のパイロットたちと遺族との愁嘆場の真っ最中だから、だいたい膳には手がつかない。余った膳は部屋に持ち帰り、私と姉でたらふく食べた。
ところで、姉には野心があった。姉一人、私一人、親無し家無しの天涯孤独の境遇は姉に強烈な保護者意識を植え付けた。そして、野心を抱いた。自分はこのまま海大夫屋敷の女中として生涯を終えようとも、弟である私にはきちんと学問を、特にこれから占領軍相手に大事になるであろう英語を修めさせて大成させようという、私にとっては至極迷惑な野心だった。毎日いろいろな人がやってきて、おいしいご飯が毎日食べられて、上っ張りの預かりに洒落た漆札を渡す海大夫屋敷の素晴らしさを知ってしまったら、誰だって外に出る気がなくなる。できることなら、私も海大夫屋敷に仕事を見つけて、この不思議な屋敷と屋敷を取り巻く怪しくも美しい世界の一員になりたかった。それは不可能とも思えなかった。当時、私は九歳だったが、私よりも年下の子どもたちが細かい仕事をしていた。庭の枯山水から漏れた砂粒を庭に戻したり、簡単な掃除や道案内など、彼らはもうこの屋敷に骨を埋める覚悟なのだ。私は焦っていた。彼ら子どもたちはこの屋敷の持ち主である海大夫を頂点とし、番頭、手代、女中、丁稚と下がっていく階級ピラミッドの最底辺に雑用係として参加し、スタートラインに立っていたのだ。それなのに私は姉に庇護されて、部屋に閉じこもり、したくもない英語の勉強をさせられている。私はピラミッドの外から同じ年頃の子どもたちが労働を通して正当な位置を海大夫屋敷に確保しているのを指をくわえてみている。私もそこに入りたいと切に願うのだが、姉の宿題は大量で、おまけに怠けると、容赦ない折檻が待っていた。私は他の子どもたちとの差がどんどん開いていくのに気も狂わんばかりになりながら、折檻が怖くて勉強をしていた。あれは一種の恐怖政治だった(だが、その恐怖政治のおかげで私はまだ生きている。あのまま屋敷の魅力に取りつかれていれば、あの台風によって私は屋敷とともに海に引きずりこまれていたはずだ)。
姉は私が海大夫屋敷をうろつくのにいい顔をしなかった。姉は私があの屋敷に秘められた不思議な光景に魅せられて、ますます勉強をおろそかにするかもしれないと思い、ガリ版の安い妖怪百科を片手にいろいろと海の妖怪を並べ立てておどかした。舟幽霊だの磯撫でだの海坊主だのを取り上げてはそいつらが座敷にひそんでいて、勉強しない悪い子を食べてしまおうとしていると言った。だが、爆弾が町に落ちて大勢焼け死んだ時代に海坊主が怖いものに思われるだろうか? 姉の作戦は功を奏さなかった。妖怪をダシにした威しは、むしろ是非ともその妖怪を見てみたいものだと私の頭を好奇心でいっぱいにした。覚えた漢字や習い始めたアルファベットは左右の耳の穴からぽろぽろとこぼれ落ちて、ただ屋敷を探究する欲求だけが私の頭のなかを支配していた。
十歳の誕生日に姉は万年筆をくれた。黒くてピカピカしたパーカー万年筆で銀色の蓋がついていて、ペン先がセルロイドの筆軸にすっぽり収まっているのが珍しかった。このプレゼントが意味するところは、これと同じタイプの万年筆が戦艦ミズーリの甲板で重光葵とマッカーサー元帥が降伏文書に調印した際に使われたことを考えれば、推して知るべし。
だが、私にとっての最大のプレゼントはその日は英語の宿題がなかったことだ。姉は夜になると、あちこちの座敷へ料理を届けるので、てんてこ舞いになる。私は部屋から出ないで、もう寝るように言われていたが、そんな言いつけは屁とも思わず、戸を開けた。
海大夫屋敷は故人との再会の場であるから、座敷といっても、芸者などは呼ばない。ただ、しんみりとした言葉を交わし、涙を流しながら、どうしてこんなことになったのかと悲嘆に暮れる。どうしてもこうしてもないのだが、結局遺族は泣き疲れて帰っていく。ここは日本で唯一の泣くための貸座敷なのだ。
しくしくと泣く音だけが聞こえる座敷を傍らに見ながら、廊下を歩き、あちこちを見てまわった。ある中座敷からは畳をバンバン叩きながら、特攻隊を発案しながら自分はのうのうと生き残った海軍大佐を責める悔し泣きの大声が聞こえてきた。おいおいと太い声で泣いていたが、やがて全てをあきらめたらしく、しくしくと静かに泣き変えた。戦争がもたらす悲しみの第二幕が繰り広げられているのに私にあるのは少年らしい残酷な無関心と海大夫屋敷へのはちきれんばかりの興味だった。虫のよい私はこの遠出歩きで屋敷の持ち主である海太夫に偶然出会い、自分の利発さを何らかの形で見せて、海太夫じきじきに私を雇うように言わせることを夢見ていた。その利発さをどう表現するのかはまったくアテがなかった。だが、きっとそのときになれば、素晴らしい考えが私の頭に降りてくるだろうと楽観していた。過去に囚われてしくしく泣く音があちこちで鳴る屋敷の廊下で、おめでたい私は未来を描いていた――海大夫の目にかけられ、雇ってもらうという未来だ。
廊下の曲がり角の少し広く取った板敷きには古いビクトロラ蓄音機があり、二村定一の『私の青空』をかけてあった。廊下の出口は屋根付きの回廊で別の屋敷につながっている。玉砂利をしいた広い庭に石灯籠の小さな灯火が瞬いていた。崖の下の磯に波が当たって砕ける音は引っ切り無しに聞こえていた。崖といっても高さは五メートルほどなので台風などのときは潮が塀を飛び越えて、ざぶんと庭にかぶさることがあった。土が潮っぽいので植物は育たず、海太夫はここに玉砂利をしいて枯山水にしたのだ。
私はそんな気遣いで枯山水を配置する海太夫がとても偉い人に思えて、しょうがなかった。そんな人に目をかけられて働くことができれば、どんなに幸せだろうと思い、海太夫に命じられて、座敷に食事を運んだり、レコードを取り換えたりする自分の姿を夢想した。海太夫屋敷でも私は立派な人物になれると姉は納得し、英語の本を捨てるだろう。姉の承諾と海太夫の寵を得た私は水を得た魚のごとく働きまくり、いずれ、私は海太夫屋敷の支配人となり、あれこれ指図を飛ばす立場に出世する。ひょっとすると、海太夫は私を後継者に指名するかもしれない。
日本中の子どもたちが明日食べるものに困り、どうやって生きていこうか考えていたときに、私はそんなことを考え、浮ついていた。
使用人たちの休む一角へ足を運ぶと、大きな板敷き部屋から、私と同い年の少年たちが遅めの夕飯を掻き込む箸の音がチャキチャキと聞こえてきた。この音を聴くたびに私は自分が出遅れたことにさい悩まされていたが、今では根拠のない楽観のおかげでいくらでも平気で聞くことができた。
また客の行き来する廊下へ出ると、私は赤い天鵞絨が敷かれた廊下を見つけた。それは奥の離れ座敷に通じていた。四面全てに赤い襖を立てていて、膳も運ばれていない。このような離れがあることを私は初めて知った。離れの大きさは大座敷ほどで、他人の家族のしくしく泣く音を聴かずに死者と対面できるのだから、きっと上客が座敷を占めているに違いないと思い、好奇心に動かされるまま、回廊を渡って、私は赤い襖を少しだけ、そっと開けて、なかを覗いた。
そこは海の底だった。蒼ざめた砂がどこまでも広がっていて、鎧武者と女官が左右に分かれて、ずらりと座っていた。彼らの後ろに立った旗竿には赤い旗が水の暗さに黒ずんで、ちぎれて引っかかった昆布のように長々と伸びて揺れていた。
私はその座敷に入った。女官たちは袖を目によせてさめざめと泣き、鎧武者のなかには鎧を二枚重ねにした老人や、恐竜の骨のように大きな錨に自分を結びつけた大男がいる。みなただ目を伏せている。どうも上を見たくないようだった。
見上げると、そこには柳の葉のように細い船底がいくつもひしめいている水面があった。
しばらく鎧武者と女官の作る人の垣根を歩いていくと、行き止まりにぶつかった。そこには宝剣と幼い男の子を抱いた尼僧が、眠っているように目を閉じている男の子の頭をやさしく撫でていた。男の子は赤い絹の衣を纏い、髪をおかっぱに切られていた。
そのとき、私から見て、右手の水面が赤く燃えるように色めき立ち、煤を吐く大きくて尖ったものが白く泡を引く海面をぐさりと割り込んだ。それは大きな唐船の舳先だった。唐船は水のなかで激しく燃え、赤黒い泡と光をまき散らしながら、右手の奥の谷のようになった深場へ吸い寄せられるように沈んでいった
その光景は恐ろしく一度見たら、忘れられないような光景だった。船と一緒に漕ぎ手や女官、武者、それに召使いの童が恐怖に凍りついた顔で海の底へと引きずり込まれていく様はとてもこの世のものとは思えず、私はもう、この座敷を逃れて、姉と寝泊りしている離れの小部屋に逃げ込みたくなった。
ところが、身を翻すと強く引っぱられて、動けなくなった。
尼僧に抱かれていた男の子が目を覚まし、私の服の裾を小さな手でつかんでいた。どんなに引っぱっても離さず、指をこじ開けようとしても、男の子の指はまるで鉄のペンチのように私のシャツの裾をつかんでいる。
そのころにはもう海太夫屋敷での立身出世の物語も吹き飛んで、泣きながら、姉の名を呼んでいた。
次の瞬間には私は外の廊下にいて海水でぐっしょり濡れていて、襟首を姉につかまれていた。姉も海水を頭からかぶったようになっていて、口のなかの塩水をぺっぺと吐き出していた。
姉はだいぶ離れた座敷にいたのだが、私の泣き声がどこからともなく聞こえてきて、姉の名を呼ぶ私の声をきいて、あの座敷に飛び込んで、私を引っぱり出したのだ。
姉は私が姉の言いつけを守らず、勝手に部屋を出たことを厳しく叱り、私は私で、もう海太夫屋敷への憧れも、そして海大夫と会うことの期待も吹き飛んだ。むしろ、私はこのような屋敷を切り盛りする海大夫への恐れをいだくようになった。彼岸と此岸の境に身を置くことの恐ろしさを私はこうして思い知ったのだった。
私はべそべそ泣きながら立ち上がった。すると、シャツの裾が引っぱられた。
びっくりして振り向くと、すっかり色の黒ずんだ平家蟹がシャツの裾をハサミでつかんで、ぶら下がっていた。
それから何十年と経ち、私は戦艦ミズーリで降伏文書に署名するほどには出世はできなかったが、海太夫屋敷で働く姉を東京へ呼び寄せられるくらいには身が立った。姉を東京に呼び寄せた次の年、海太夫屋敷は台風によって海のなかへ没した。
そして、あの地震と津波であの辺りは全て海にさらわれてしまった。
今はただ、屋敷があった崖だけが残っているようである。




