第九話 日常
朝。
レガリア学府・中央校舎第二棟。
「……広すぎんだろ」
クリサスは気怠げに廊下を歩いていた。
昨日、保健室で両腕を固定されたあと、「全治二週間だねぇ」と軽く告げられた。
なお、治療費は学費に上乗せらしい。ふざけている。
右腕には包帯。
左手にも固定具。
制服の袖が微妙に引っかかって、とにかく鬱陶しかった。
しかも痛い。
歩くたび、呼吸するたび、ガルドの膝蹴りが腹の奥で疼く。
「……人間、弱すぎだろ」
ぼそりと零す。
昨日の試験。
負けた。
完全に。
それでも「合格」と言われた。
未だに意味がわからない。
「一年A組……A組……」
廊下には生徒が溢れていた。
青と白の制服。 魔力。 喧騒。 視線。
そのほとんどが、クリサスへ向いている。
「アイツじゃね?」
「昨日ガルド先輩とやった」
「特例編入の」
「思ったより普通だな」
「でも顔はいい」
「最後いらねぇだろ……」
心底だるそうに呟いた、その時。
「おい」
低い声。
クリサスが顔を向けると、そこにはひとりの男が立っていた。
背が高い。
短い金髪。
制服はきっちり着込んでいるが、その上からでも分かるほど身体が仕上がっている。
鋭い目。
だがガルドのような獣性とは違う。
もっと研ぎ澄まされた刃物みたいな雰囲気。
「……誰」
「レオニス・ヴァルハイト」
男は短く答えた。
「昨日、お前の試験を見てた」
「あっそ」
「その腕で授業受ける気か?」
「受けなかったら退学なんだろ」
レオニスは数秒クリサスを見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。
「なるほど。確かに変な奴だ」
「よく言われる」
「褒めてない」
「知ってる」
沈黙。
すれ違う生徒たちが、妙に空気を窺っていた。
レオニス。
名前だけで周囲が緊張しているのが分かる。
強いのだろう。
少なくとも、この空気は“ただの優等生”のそれじゃない。
レオニスは壁にもたれながら口を開いた。
「ガルド先輩がお前を認めたらしいな」
「認めたっていうか、遊ばれただけだろ」
「違う」
即答だった。
「ガルド先輩は弱者に興味がない」
「じゃあ俺は何なんだよ」
「知らん。だから気になってる」
レオニスは真っ直ぐクリサスを見る。
「お前、弱い」
「昨日からそればっか聞くな」
「だが、昨日のお前は“死に慣れてた”」
クリサスの目が僅かに細まる。
レオニスは続けた。
「普通の生徒なら、あの二撃目で心が折れる。恐怖で身体が止まる。だが、お前は止まらなかった」
「……」
「まるで、“死ぬ側”に慣れてるみたいだった」
図星だった。
クリサスは昔から、自分が死ぬ想像をしたことがない。
なぜなら死ななかったからだ。
どれだけ傷ついても。
どれだけ壊れても。
神の心臓が、全部どうにかしていた。
だが今は違う。
死ぬ。
普通に。
昨日の戦斧だって、ほんの少しズレていれば首が飛んでいた。
なのに。
怖くないわけじゃない。
だが恐怖より先に、身体が動いてしまう。
昔の癖みたいに。
「……別に」
クリサスは視線を逸らした。
「ただ、避けなきゃ死ぬから避けただけだ」
「それを出来る奴は少ない」
レオニスはそう言って歩き出した。
「教室、こっちだ」
「案内してくれんの?」
「迷ってただろ」
「優しいな」
「勘違いするな。遅刻されると面倒なんだ」
「お前、真面目系?」
「嫌いか?」
「いや別に」
二人は並んで廊下を歩いた。
窓の外には、蒼い空。
巨大な魔術塔。
空中回廊。
飛行術式の軌跡。
何もかもが、現実感に乏しい。
まるで巨大な劇場だった。
「レガリアってさ」
クリサスがぼそりと呟く。
「なんでこんなに人数いんの?」
「世界中から集まるからな」
レオニスは淡々と答えた。
「貴族。軍属。魔術師。神官。傭兵上がり。色々いる」
「へぇ」
「卒業生の大半は国家機関に入る。世界政府直属になる奴もいる」
「……世界政府ねぇ」
その単語に、少しだけ胸がざらついた。
ミラ。
アズサ。
メイファーズ。
第二部隊壊滅。
脳裏に焼き付いたまま離れない。
レオニスはそんなクリサスを横目で見た。
「どうした」
「別に」
「顔色悪いぞ」
「元からだ」
「死体みたいな返答だな」
「よく言われる」
そこでレオニスが初めて少し笑った。
本当に僅かだったが。
「お前、変だな」
「だからよく言われるって」
「褒めてる」
「急だな」
「昨日見た時は、もっと嫌な奴かと思ってた」
「失礼だろ」
「ガルド先輩に向かって舌打ちする奴だぞ」
「だって痛かったし」
「そこなのか……」
レオニスは呆れたように息を吐いた。
やがて。
一年A組。
重厚な扉の前へ辿り着く。
中から喧騒が漏れていた。
「おー、例の転入生来た?」
「ガルド先輩に殴られて生きてる奴?」
「見たい見たい」
「動物園かよ……」
クリサスはげんなりした。
レオニスは扉へ手をかける。
「忠告しとく」
「ん?」
「このクラス、基本的に全員、自分を天才だと思ってる」
「うわ、だる」
「実際、才能はある」
レオニスは静かに言った。
「だからこそ、他人を見下す」
「……」
「弱ければ舐められる。強ければ妬まれる。普通なら埋もれる」
レオニスの視線がクリサスへ向く。
「お前はどれになる?」
クリサスは数秒黙ったあと、面倒そうに頭を掻いた。
「知らねぇよ」
そして。
「ただ、静かに寝られる席が欲しい」
レオニスは一瞬ぽかんとして、次の瞬間、吹き出した。
「はは……っ、お前、本当に変だな」
そのまま扉を開く。
ガラリ。
一斉に視線が集まった。
青。
青。
青。
教室いっぱいの蒼い制服。
好奇。
敵意。
興味。
嘲笑。
その全部が、クリサスへ突き刺さる。
教壇の教師が咳払いした。
「静かにしろ。……今日からA組へ編入する特例生だ」
ざわめき。
「特例ってなんだよ」
「昨日の」
「弱いくせにガルド先輩に認められた奴」
教師は露骨に疲れた顔で言った。
「席は一番後ろだ。問題を起こすなよ、クリサス」
「善処しまーす」
「信用ならんな……」
クリサスは窓際最後列へ向かう。
窓から蒼空が見えた。
青い。
馬鹿みたいに。
席へ座った瞬間、全身の痛みがどっと押し寄せる。
「……っだぁ」
机に突っ伏す。
眠い。
痛い。
だるい。
最悪だった。
なのに。
「ねぇ」
前の席の女子生徒が振り返る。
「昨日の試験、ほんとにガルド先輩殴ったの?」
「……ん」
「どうやったの?」
「頑張った」
「何それ」
「事実」
周囲から笑いが漏れた。
その空気を聞きながら、クリサスはぼんやり目を閉じる。
知らない場所。
知らない人間。
知らない日常。
最悪だ。
本当に。
けれど。
「……」
ほんの少しだけ。
昨日よりは、退屈じゃなかった。




