杪冬の綻び
春が近づく晴天の今日。就任して二年目の中学校で、卒業式が行われた。
長い校長の式辞や来賓挨拶に退屈しながらも出席し、副担任を任されたクラスの生徒達を送り出し終えた。
教師として母校に勤めているが、当時からの不真面目さは、担任だけでなく、校長にまで伝わってしまっているらしく、常に目を付けられている。
今日も最後のホームルームを終え、一目散に教室を抜けようとしたところ、担任に捕まってしまい、雑務を押し付けられた。
教師になった理由は、特にない。
大学卒業後の進路に希望はなく、なんとなく教職課程を履修していたことから、教師になる道を選んだ。
勉強を教えるのは得意だが、その他のことに興味がないという、全く充実性のない日々を送っている。
旧校舎への渡り廊下から見える校庭は、多くの卒業生やその家族で溢れかえっていた。
もう冬も終わりだというのに、スーツだけでは少し肌寒い。
それでも、春が来るのを今か今かと待つように、木々は蕾を膨らませている。
旧校舎の階段をギシギシと音を立てて上る。
教室の扉を開けると、卒業生の証である、赤い花飾りを胸につけた櫻井梨花子が、今日も我が物顔で居座っていた。
「先生、質問があります」
いつもの構文だ。
新校舎が出来てから、旧校舎で使われている教室は数少ない。
その中でも目立たない教室を見つけ、サボり場所にうってつけだと使っていたのに、窓辺でタバコを吸っているのを、彼女に見られたのが運の尽き。
その日からこの隠れ家は、一人のものではなくなった。
毎日のようにこの教室へ来ては、よくわからない質問をぶつけてくる。
その度にするいい加減な返事に嫌気がさす様子もなく、変わらず彼女は会話を持ちかけてくるのだ。
「大人になるってどういうことですか」
また回答に戸惑う質問だ。
その瞳は、答えを期待しているようではないが、世間話をしている時のような目ではない真剣さだ。
「そんなの聞いてどうするんだ。それに、こんなところで油売っていないで、卒業なんだからみんなと写真撮ったりしにいけ」
追い払うようにして放った言葉に、一瞬拗ねた顔を見せたが、隠すようにして話を続けた。
「今日の最後のホームルームで担任が言ってたじゃないですか。『これから君たちは大人になっていく。人生を悔いのないように生きるんだ』って。大人になるって、抽象的な言葉じゃないですか。私は好きじゃないです」
そういえばそんなことを言っていた。
卒業の日だから良いことを言おうと試みたのか、その後の発言が、空回りするのを見て、思わず教室の後ろで笑ってしまいそうになったのを覚えている。
「先生は『まあ、ほどほどに頑張れ』でしたっけ? あんまり覚えてないですけど」
そういえばそんなことを言った。
まさか自分にも発言を求められるとは思わず、咄嗟に出たのは気のない言葉だった。
しかし、あまりにも正直な彼女の感想を聞いて、「はは」と苦笑いをした。
ポケットからタバコを取り出し、窓を開けて火をつける。
「こんな日くらい、タバコやめたらどうですか」
せっかくの一服に、水を差す言葉が飛んでくる。
「昨日外れたからな」
「また競馬ですか……」
彼女が呆れた顔をしながら、ため息をついた。
中学生と競馬の話で盛り上がれるとは思っていないが、卒業の門出に餞でもと、話を続けた。
「知ってるか。競馬場の桜は昔、桜花賞の日に必ず満開になっていたんだ。なぜだと思う?」
「知りませんよ、そんなこと」
またしても呆れたように返事をする。
そんなことは聞いていないと、答える気がないのが丸分かりだ。
「木の根元を暖めたり、冷やしたりして、咲かせたい時期に咲くように調整していたらしい。そうして、舞台は必ず美しい桜色で飾られたんだと」
彼女が「ふうん」と少し興味を示したように、立ち上がった。
そして、後ろ方の窓を開け、空を仰ぐように、その長い黒髪を風に靡かせる。
「そんなことをしてたなんて、桜が可哀想ですね。本当の春だと気付かずに咲いてしまうなんて。なんだか気の毒です」
そう語る彼女のどこか儚い顔を見て、「そうだな」と小さく返した。
緩やかな時間が流れ、彼女と出会った時のことを少し思い出す。
その日も少し寒い冬の終わりだった。
退屈と感じるほど晴れた空の下に、一人の生徒の姿が見えた。
中学生とは思えない、大人びた表情をしていた彼女は、その日から、この教室に暇を潰しに来るようになった。
最初は、個人空間に入られた鬱陶しさを感じたが、そのうち心のどこかで、彼女のいるこの狭い教室に、居心地の良ささえ感じていった。
時が経つのは早く、明日からは、また一人の日々に戻るのだと思うと、少し寂しさを覚える。
そうして、彼女の横顔を見つめていると、窓の外から彼女を呼ぶ声がした。
「梨花子ー! みんなで写真撮ろうよ!」
校庭の下から見上げるようにして手招いている彼女達は、おそらくクラスメイトだろう。
その呼び掛けに、小さく手を振って返した彼女は、荷物を取り、扉の前でこちらを振り向いた。
「それじゃあ、今までお世話になりました。タバコはほどほどに。体、気をつけてくださいね」
そういうと、彼女は名残惜しむ様子もなく、この古臭い教室から出て行った。
一人になった空間は、寂しさを覚えるほど空虚で、その静けさをかき消すかのように、遠くの笑い声や話し声が絶え間なく聞こえてくる。
その妙な雰囲気を誤魔化すように、タバコを携帯灰皿へとしまった。
タバコの匂いがふんわりと残る。
教室へ吹き込む風に、指先が冷えるのを感じた。
ふと校庭を見下ろすと、彼女を含めた卒業生が、記念写真を撮っていた。
寂しさや切なさはまるで感じられない、爽やかな表情をしている。
自分があのくらいの年の頃は、何を思って日々を過ごしていただろうか。
将来をどのように生きて、どのような人間になるのかなど、ちゃんと考えていただろうか。
大抵の人間が何も考えずに、日々を消化していく。
理想の未来など、いつの間にか願うことをしなくなった。
何も知らなかった無邪気なあの頃から、全てが当然でないことに気づく瞬間を、人は覚えているのだろうか。
僕は覚えていない。
「大人になるか……」
彼女の最後の質問が頭の中を巡る。
人生というグラフを描いた時、一体どこからが大人と明確に記せるのだろう。
みんなが同じレールの上を歩く中で、全てが自分にとって最適な環境であるわけではない。
それでも、周りに追いつこうと少し背伸びをしたり、知らないことに知ったふりをするようになる。
何者かになれると信じて生きていたあの頃も、今となっては青臭い青春だったと言えるほどに、世界はシンプルのように見えて、複雑だと思うようになるのだ。
まるで、春の訪れと誤解して蕾が開くように、僕らは気付かぬうちに、そうして大人になってゆくのだろう。