九十八 正観音像
起き上がって書状を開いてみると、頼朝が髻の中にいつも隠し持っている正観音像が転がり出てきた。
手に取ってよく見ると、正観音像の胸に、矢の先端によって抉られた痕跡が付いていた。
頼朝の思考が一瞬麻痺した。なぜ胸に正観音像があるのだろう? いつも髻の中に入れているのに?
すぐに思い当った。
そうか、切株を出発する時に、髻から取り出して書状を懐に仕舞いこんだのだ。
頼朝は、正観音像を握りしめて、天を仰いだ。
心の底からしびれるような感動が湧いてくる。
矢を放ったのは大庭景親だと、実平が言っている。
絶体絶命の危機を救ってくれたのは、小さな正観音像であった。頼朝にとっては亡き姉そのものである。
……姉上が、この頼朝を救って下されたのだ。
頼朝は、仰いでいる天から何かを感じ取った。
……姉上は、この頼朝に命じておられるのですな? この世にとどまり、なすべきことをなせ、と。
これまでの戦いが頭をよぎった。
山木館討ち入りは何とか勝利することができたものの、次の石橋山では景親の罠にはまって味方は壊滅状態に陥ってしまった。しかし加藤景廉や土肥実平、八郎太らの良き味方に助けられた。
だが、最後の最後で景親の狙撃に見舞われ、自分は死の寸前まで追い詰められた。もし矢が正観音像に命中していなければ、自分はこの世にいなかったはずだ。最後は姉に救われたのだ。
涙が頬を伝ってくる。
……自分は、何と恵まれた人間なのだろう。
頼朝は、手を開いて正観音像を見つめた。
姉が、我が心に話しかけているように感じる。
――頼朝よ、そなたはまだこちらに来てはなりませぬ……
頼朝は、手の中の正観音像に語りかける。
……姉上のおかげで頼朝は命を永らえました。これから源氏の棟梁として、我れを支えてくれる者たちと共に歩んで参りまする。姉上のおそばに参りますのは、しばらく後のこととなりましょう。
――妾は、いつでもそなたのそばにおりますよ……
正観音像が微笑んでいるように感じた。
頼朝は、顔を上げた。その顔は涙に濡れていたが、凛とした表情に戻っていた。
……うむ!
「者ども。さあ安房へ参ろう。陣を立て直すのだ!」




