六 頼朝追討令
――五月三十日。
この日、二十六日の宇治合戦の論功行賞が行われた後、六波羅の清盛泉邸にて主だった武士を集め、慰労の宴が催されていた。
六波羅は京の東にあり、平氏一族の邸が建ち並んでいる。
広大な広間の上座中央には、平清盛が着座していた。
この時清盛は六十三歳。
従一位太政大臣を辞して出家の身であるが、平氏の総帥としての貫禄はいささかも衰えていない。
「景親、これへ参れ」
清盛は、大庭景親を呼び寄せた。
景親は、相模国大庭御厨の下司職にある武士で、宇治合戦には関東の平氏方の武士らとともに従軍しており、今回のいくさにおいて景親の活躍は称賛を集めていた。
御厨とは伊勢神宮に寄進された荘園のことで、下司職とは現地管理者のことである。
「はっ」
景親は清盛の近くに膝行した。清盛は勝ちいくさに上機嫌である。
近くにいる家人に命じた。
「景親に杯をとらせよ」
清盛はそれに酒を満たしながら、
「こたびの汝の働き、見事であったそうじゃな」
「はっ、有難き幸せ」
出家とはいえ、前太政大臣と無官の武士との直の対面など、普通はあり得ないが、身分秩序のうるさい御所を離れた六波羅の自邸では、清盛はざっくばらんな人付き合いが好きだった。
家人や台所の下女とも気軽に世間話をする。好悪の感情は激しいが、身分を超えて気さくに接する懐の深さがあった。
ひとしきり、いくさの話をした後、
「時に景親。汝の所領は相模であったな」
「左様です」
「こたびは飼い犬に手を噛まれたが、そやつの孫犬が伊豆にいる。もう一匹の別の犬のところにな……」
飼い犬とは、先日自害した頼政のことである。
せっかく従三位にしてやったのに、恩を仇で返しやがったと清盛は憤慨しているのである。
孫犬とは頼政の嫡男仲綱の子息で、領地であった伊豆国にいたため難を逃れている。別の犬とは頼朝のことだ。
「景親。関東の武士を集め、この犬どもを退治せよ。うまくやりおおせば、汝の望む地を与えよう。いかがじゃ」
「承って候」
「うむ。頼んだぞ」
宴が終わって武士たちが退出し、平氏一門のみが残っていた時、誰かが清盛に訊ねた。
「何故、頼朝らの討伐を大庭景親に命じられたのですか?
大庭はもともと頼朝の父義朝の家人だったではありませぬか。
景親が頼朝と組んで、我らに歯向かってくることも考えられるのでは?」
清盛は微笑しながら答えた。
「大庭は鎌倉権五郎景正以来、大庭御厨の下司職を務めておるが、義朝が関東にある時にさんざん痛めつけられて、いやいやながら義朝の家人となったのよ。
じゃから義朝には深い恨みがあるゆえ、頼朝に加担する心配は無用じゃ」
大庭御厨は、今から三十六年前の天養元年に、突如すさまじい兵乱に見舞われた。
御厨東の鵠沼郷の供祭料の魚が蹴散らされ、郷内の大豆・小豆を強引に奪われ、神人らが半殺しの目にあわされた。
この攻撃の中心人物が源義朝である。
攻撃はさらに続き、一千騎を従えた義朝は御厨に再度乱入し、米八百余石を強奪、景義・景親・景久兄弟の父である景宗の財産すべてを没収し、神人七人をす巻きにして半死半生になるまで痛めつけた。
実は義朝は、相模国の在庁官人と結託していた。
在庁官人とは、地方行政の実務に従事した役人の事である。
当時、公的な公領と私的な荘園とは、土地の領有をめぐって紛争が絶えなかった。
相模国の中央に広がる大庭御厨は、在庁官人側からすれば邪魔者以外の何物でもなかったのである。
在庁官人の依頼を受けて、この紛争に義朝が介入し、徹底して御厨を攻撃したのである。
当然、大庭から本所である伊勢神宮を通じて抗議を申し入れたが、結局うやむやにされて終わってしまった。
義朝は、敵となった者には徹底して攻撃し、味方に下ればこれを許して家人とし、反抗すれば容赦なく殺した。
そうやって着々と自分の勢力を広げていったのである。
大庭は、内心反感を持ちながらも義朝に従った。
だから平治の乱の後、源氏が没落すると景親は喜んで平氏方に与した。
このことを清盛は知っていたのである。




