五十一 頼朝の悪寒
……景親は、我らが山木館を第一の目標としていた事を、早い時期につかんでいたのではないか?
そう言えば、山木館への討ち入り日を決めようとしていたころ、突然、関東から武士が伊豆北条館に攻めてくると言う噂が立ったことがあった。
そのことと佐々木秀義からの伝言が決め手となって、本来は九月下旬に討ち入りを考えていたのを、急きょ繰り上げて八月十七日としたのだった。
今考えるとあの噂や伝言も怪しい。我らを騙すためのものであったと考えた方がよい。
では、その噂や伝言は、何を意図したものだったのか?
……それは……我らに時間を与えないためだろう……
十分に軍備や兵粮を整え、我らに合流する武士を増やし、かつ三浦・千葉と連携して鎌倉に向かう、という万全の準備を、景親は警戒したのだ。
我らが小勢のうちに挙兵させてしまおうとする意図だったに相違ない。
さらに頼朝は考える。
……我らが噂にまんまと引っかかり、討ち入りを八月十七日と決定したが、厨房の下女によっておそらくそれも漏れていたことだろう……
……だが……解せないことがある……
仮に、山木館討ち入りを景親が事前に知っていたなら、何故、山木館の防備が手薄いままだったのか?
それは景親が、我らの討ち入りを山木兼隆に通報しなかったからだ。
なぜ通報しなかったのだろう? 同じ平氏方なのに?
……そうか!
景親は、太政入道清盛との間に、頼朝誅滅の暁には破格な恩賞が約束されているに違いない。
自分自身の手で、この頼朝を打ち果たさねばならないのだ。
……あえて山木兼隆を見殺しにしても……
また、景親は北条館の工作を我らに察知されることを恐れ、厨房の下女や雑人が万一我らに捕らえられた時、それが山木兼隆の指図であると誤解させようとしたのだろう。
事実、我らはそう思って、深く雑人を追及しなかった。
厨房の下女や雑人は、山木兼隆とは繋がっておらず、実は久重と景親の線上で動いていたのだ。
……なんということだ!
頼朝は自分の不明を呪いたくなった。
これだけの謀略が進行していたのであれば、当然、土肥館から届けてきた例の書状も謀略の一環として捉えるべきであろう。
そう理解すれば、二十一日の南北からの挟撃がなかったことも当然と言える。
……罠だ!
景親は、我らが挟撃にあう前に北条館を出発させるように仕向けた。
しかも北と南から攻められるということは、東に行くしかない。
我らの行き先が、源氏ゆかりの地鎌倉であることも察知しているのだろう。
頼朝は、横にいる郎党に尋ねた。
「今は何時で、どのあたりじゃ?」
「はっ、そろそろ卯辰の刻と存じます。先ほど石橋村を通りましたゆえ、まもなく早川村かと」
この先の地形は、早川村あたりまでは山が続き、その先は早川と酒匂川の沖積平野が広がっている。
……まずい!
今、いるところは山と海に挟まれた狭い地であるが、平野に出てしまえばどの方向からでも我らを攻撃できる。
……おそらくどこかで待ち伏せされている……
頼朝の背筋に悪寒が走った。




