三 頼朝の出自
頼朝は、内面の感情をおくびにも見せず、山伏姿の行家を見送った後、北条時政を呼んで尋ねた。
時政は、頼朝の妻政子の父親である。
「時政、汝はこの令旨を何とみる?」
「恐れ多くも佐殿への懇切丁寧なご書状。おろそかにしてはなりませぬ」
時政は頼朝のことをいつも、佐殿と呼ぶ。それは頼朝の官名が右兵衛佐だったからである。
「ふーむ……」
以仁王の令旨は、命令書である。だから行家は頼朝の返事を必要としなかった。
命令を伝達すればそれでよい。
だが、どのように実行するかは受命者にまかされる。
「挙兵するにやぶさかではないが……」
頼朝の思案げな表情を見て、時政が言った。
「今しばらくは、京の様子を伺うのがよろしいかと」
頼朝が顔を上げる。
「うむ。康信に使いを出し、その旨を伝えよう。文面はわしが書く」
三善康信は、頼朝の乳母の妹の子で、京で典薬大夫の地位にあり、頼朝に京の動静を知らせてきていた。
いわば京における頼朝の目と耳の役割を果たしている。
時政が退出した後、康信への書状を書きながら、関東で自分に味方する武士たちにも令旨に関する書状を出した方が良いかどうか迷った。
だが、京の情勢がどうなるかわからないし、あまりに早く書状を出して、平氏方に察知されるのも得策ではないと思い直して止めることにした。
源頼朝は、清和源氏の嫡流で、源義朝の三男として生まれた。
母は、尾張熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘で、他の兄弟より母の家柄が良いため、義朝の正嫡となった。
父義朝は、少年期・青年期を関東で送り、その暴虐な武力を以て周囲を斬り従えていった。二十代半ばころには京に進出する。
保元の乱で戦功を上げ、左馬頭に抜擢されるが、次の平治の乱では敗れ、東国に落ちる途中で、年来の家人に裏切られ殺害されてしまった。
頼朝も父兄と行動を共にしていたが、途中で父兄一行とはぐれ、平氏方に捕縛された。
本来であれば、義朝の正嫡として断罪されるところであったが、平清盛の継母の池禅尼によって助命され、伊豆国に配流となったのである。
それから二十年が経ち、頼朝は今年三十四歳となる。
流人生活は、伊豆の在地の武士である北条時政と伊東祐親によって監視されていたが、さほど窮屈な境遇ではなかった。
祐親の娘に手をだした時は、平氏への外聞を恐れた祐親に引き離されたが、その後、時政の娘の政子と深い仲となり、時政は渋ったが後に二人の仲を認め、頼朝は庇護されることとなった。
住まいも当初いた蛭が小島から北条館に移り住んでいる。
康信への書状をしたため終わり、家人に託して京に発たせた後、頼朝は政子のところへ行こうとしたが、時政と政子が話をしているようなので、自室に隣接する持仏堂に入り、法華経の読経の続きを行うことにした。




