第十九話 怨恨
―――それは、セトが出発した四日日目の出来事。日は山際から顔を出し、先ほどまで闇夜だった空は明るくなってくる頃のことだった。
それまでいつも通りの日々を送っていたソラたちは、たちまち絶望に包まれることとなる。
彼らにとっては最早日常茶飯事と言っても過言ではないほどの、これまでくぐり抜けてきた幾つもの死地の一つに数えられるだけの、小さな出来事に収まるはずだった。
だがしかし、多数の要因と当人たちの思想が絡み合った結果、負の連鎖となって彼らに牙を剥くことになる。
そう。これは彼らにとっての一つの山場であり、同時に大きな分岐点となる出来事。
生と死の分岐点。滅亡と生存の分岐点。真実と多次元の分岐点。
所詮神の手のひらの上で踊っている虫である彼らにとって、積み重なっていく力と悲しみはどう身につくかは未知数である。神にとって、彼らが死んだところで痛くもかゆくもないのは事実だ。
例え予想外のことだとしても、神でさえも見通すことができなかったとしても、世界の環に沿って今日も時間は過ぎていく。
神の手のひらの上で、神と神が激突する戦い。愛しき人を救うための戦い。故人の敵を討つための戦い。守護のための戦い。
大切なものを賭けた、熾烈なる闘いの火蓋が切られる、数十分前だった。
◀ ◇ ▶
ノアに関する話し合いを打ち切り、ソラとリュナとシエラの三人は各々が部屋に戻り、夜も更けてきた頃。
至って普通の、ここ一ヶ月続いてきた平和で退屈な日々の、繰り返し。
人間として必要不可欠なルーティンを送り、月に見守られながら眠りにつく。
当然、平和な日々が続くことは本人たちにとってその限りではないだろう。
セトは不在で、特に訪ねてくる客人もいない。ルミア、リア、リーベの三人も日々同じような、仕事をこなして一日を終えていく。
ルミアは就寝する前にソラの部屋を訪れ、あどけないソラの寝顔を暫し眺めてから部屋に戻っていく。
リアとリーベはまるで姉妹のように、いつまで経っても仲が良い。
現在病床に伏せているノアも、時々真夜中外に出て星を眺める。今日もブランケットを羽織って静かに屋敷を出てきたノアは、アクロの中心街にある噴水の縁に腰掛け、自らの後ろで流れる水の音に浸りながら、星を眺めている。普段だと、特に何をするということもなく、暫く夜空を見上げてから満足したように帰っていくのだ。
だが、今日は少し違った。牡丹の痣が浮き出た右手を空にかざし、一言呟いた。
「ソラさんを、護りたい。」
と。
その一言だけ呟くと、ノアは立ち上がって屋敷がある方向へと歩いていき、静かに屋敷へと帰って自室にて眠りについた。
翌朝。
平和な生活は、平凡な毎日は突然の爆撃により幕を下ろす。
早朝、まだ街は寝静まり小鳥がさえずり始めたまだ肌寒い時間帯。
昨夜ノアが座っていた噴水の頂上に、一人の人間が降り立った。
灰色の地にオレンジ色のラインが装飾として入った軍服を着て、背中では黒い一対の翼を羽ばたかせる。
その素顔は仮面で隠されていた。憎しみと怒りの表情を模した銀灰色の全頭仮面。左目の下には、まるで涙のように、それでいて名誉の負傷のようにヒビが入っている。
「―――ついに、ついに来た。
あのクソガキ……絶対殺してやる」
仮面で顔が分からない所為で表面上の感情は全くと言っていいほど読み取れない。が、声色と内容で男が強い怒りと誰かに対する恨みを抱いていることは明確だ。
男は直ぐに攻撃に転じる。右手を天に掲げ、ぶつぶつと魔術の詠唱を開始した。
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神
咎人等の禍事・罪・穢を祓い給い清め給えと白す事を聞こし食せと恐み恐み白す……
掛けまくも畏き伊邪那岐の大神―――」
詠唱を続けていくと、男の手のひらの上に紫色の禍々しい魔球が生成され始める。それと同時に快晴だった空には黒く分厚い雲が渦を巻き始め、たちまち辺りは暗く重い雰囲気で包まれた。
「―――【黄泉軍】。」
そして男の手のひらの魔球は爆散。無数の破片が黒い光の糸を引きながら街の各地に落下し、衝撃波を巻き起こす。
早朝の静まり返った街は一瞬にして大混乱に叩き落され、あちこちで爆発音や悲鳴、騒ぎ声が木霊する。
破片が落下した場所からは半身が黒く半身が紫の異形の鬼が現れ、たちまち建物を破壊していった。
その混沌の渦中、男は右手を下ろして時を待つ。誰かを待つかのように、何もしないまま噴水の上に立ち続ける。
◀ ◇ ▶
早朝に起こった突然の爆撃。その凄まじいほどの音と騒ぎに叩き起こされたソラたちは、急いで支度をして屋敷の外に駆け出てきた。
全員が寝起きにも関わらず、戦闘準備は万端。襲撃を素早く鎮圧する心意気は皆が持っていた。
何が起こったかを把握するために中央街へと移動しようとした一行は、そこで一件の首謀者と相まみえることになる。
「お前は―――っ!」
「……やっと来たか」
男は静かにソラたちの方を振り向き、至って冷静な態度で接する。
一方ソラたちの方は、男の姿を一目見て理解できたようだ。各々が警戒心を剥き出しにして、男の動向を伺っている。
「カマエル、お前がやったのか!」
「だからなんなんだ。やられたら倍返しにする。それは当たり前のことだろうが。」
「最初からお前のせいで俺たちは被害を被ったんだぞ!それをあたかも俺たちが悪いみたいに言うな!」
ソラは平静なカマエルに対して激昂し、正論ながら強い言葉を次々と吐き出してぶつけていく。ただ、カマエルはそんなことを気にしている様子はなかった。
「じゃあ、魔王様を殺したのは?」
「それは魔王がイヴァナを監禁して、殺そうとしたからだろう!」
「これだから人間は感情論で困るんだ。いいか、俺が言ってるのはな、お前らにとっての仲間はそのイヴァナとかいう奴だろう。だがな!魔王様は俺たちが忠誠を誓っていた相手だったんだよ!そんな大切な人を殺されて、むざむざと生き延びてるわけにゃいかねぇんだよ!」
先ほどまで落ち着いた口調でソラの雑言を受け流していたカマエルだったが、感情がまるで洪水のように溢れ出してくる。
喉が張り裂けそうなほど強い言葉を散々ソラにぶつけ、一度冷静に戻ってからまた再開させた。
「魔王様を殺した奴に、復讐したかった。お前と、新たな魔王となった奴と、世界最強だ。だが、今や俺に敵うやつはいない。」
「―――どういうことだ」
「はっ!まあどうせ殺すから、冥土の土産にでも聞くか?この一ヶ月間で、どれだけの人間を殺しただろうなぁ。お前のような異世界人や、ユニークスキル持ちの人間どもを虐殺した。その末に手に入れたのが、この【黄泉之神】だ。神之権能所持者となった俺に対抗できるやつは最早あの新参魔王しかいない。あいつの配下は殺したしな。」
「―――っ!?まさかミホとマークを!?」
カマエルが最後に付け加えた一言に、ソラたち四人は目を見開く。
そんな反応を見てさえ、カマエルの態度が揺らぐことはなかった。
「ミホとマークって名前だったかは覚えてねぇが、どっちにしろ俺は大量虐殺を繰り返した末にこの権能をゲットした。お前の権能でも俺を止めることはできない。諦めて死ね。」
カマエルが『死ね』と言ったその時だった。あまりの怒りに言葉が出ず、頬が紅潮していたシエラが背中の二本の大剣を抜いてカマエルに斬り掛かった。
話を終えた直後の不意打ちに躱しきれなかったカマエル。だが、彼にとっては避ける必要すらもなかった。
カマエルは二本の大剣による重さの斬撃を右腕で防いだ。
当然何の防護もしていない腕で剣を受け止めたら、怪我をする。
大剣は重さと勢いによって構えるの腕に深くめり込んだ。だが、実際に怪我をしたのはカマエルではなかった。
「あ゛っ!?」
たちまちシエラの右腕に深い二本の傷が生まれ、そこから鮮血が勢いよく噴き出す。
突然脳天を突き抜けた痛みにうめき声を上げたシエラはカマエルに跳ね除けられて地面に投げ出され、噴水から飛び降りたカマエルの足で脇腹を蹴飛ばされて、遥か後ろまで蹴り飛ばされた。
砂ぼこりを立てながら地面を滑っていくシエラ。その腕からは流血が続き、もう片方の腕では蹴られた脇腹を押さえて、倒れたまま蹲って悶絶している。
シエラが一瞬で戦線離脱したことに激昂したリュナが、自身が持てる最大の魔法でカマエルへの攻撃を試みる。状態異常で攻撃する緑と黄色と薄紫の光線を発射し、カマエルの脳天に照射する。
その攻撃も虚しく、光線が照射された次の瞬間にリュナは倒れた。頭を抱えて蹲り、痛そうに強く目をつぶって足をジタバタ。
顔色はどんどん悪くなり、やがて手足が動かなくなってくる。
地面に倒れて身体に異変が起こったリュナに駆け寄るソラ。【諸行無常】によりその異変を無効化しようと試み、それによってリュナの状態は少なからず改善した。
「―――リュナちゃんに一体何を」
「今度はお前かよ。簡単なことだ。俺へのダメージをそっくりそのまま返してやってるだけ。お前らみたいな脳足らずの馬鹿でもわかる理屈だろ?」
その内容とカマエルの態度に激怒して、ノアが杖を振る。が、ユニークスキルである【空即是色】が神之権能に通用するはずもなく、効果が出ることはなかった。
そのままカマエルは強烈な右フックをノアの横腹に叩き込み、ガードしようとしたノアの鳩尾を思いっきり蹴り飛ばした。
咄嗟に防御魔法を展開していたノアだが、衝撃を吸収しきれずに後ろに飛ばされ、建物に衝突。一枚壁を突き破り、瓦礫だらけの家の中で止まったところで口から吐血し、動けなくなった。
あっという間に三人が脱落。後に残されたソラだが、シエラ、リュナ、ノアが戦闘不能になったことに対して怒りを覚えていた。
現在彼の中でかつて無いほどの怒りが蓄積していた。
それを原動力に、日本刀により斬りかかるソラ。それが無駄な攻撃だと分かっていながら、少しでもカマエルの気力を削ぐために、玉砕覚悟で攻勢に転じた。
カマエルの暴力は防御魔法で威力を緩和しつつも、細かい斬撃をカマエルに食らわせていく。だがカマエルに与えたダメージによる傷はたちまちそこから消え、代わりにソラの身体に現れるようになった。
ボロボロになりながらも攻撃の手を休めないソラ。そして、それをうざったそうに受けるカマエル。
そもそもユニークスキルと神之権能という時点で、力の差は歴然だった。
人間であるソラはやがて力尽き、それを待ってましたと言わんばかりにカマエルはまくし立てる。
「所詮お前はガキなんだよ。お前の女三人が負けた時点で諦めてりゃよかったんだ。だが、これで俺の目的は一つ達成される。ありがとよ、俺の血肉になってくれるんだろ?」
そして、力尽きながらもかろうじてカマエルの前に立っているソラの身体は揺さぶられた。
ソラはその衝撃に目を大きく見開き、震えながら恐る恐る自らの下腹部を見る。
カマエルの手刀が、鳩尾を貫通していた。
カマエルがその手刀を抜くと同時に、空っぽとなった腹部から血が噴き出す。そしてソラの身体から一気に力が抜けて、ソラはうめき声一つ上げることもできずに地面にうつぶせに倒れた。
ソラの視界に映るのは、血に濡れた手をソラに向けてかざし、魔術を詠唱し始めるカマエルの姿。
そしてカマエルの手のひらの前に燃えたぎる火球が生成されたところで、ソラの視界は霞んでいき、やがて瞼は完全に閉じた。
ソラは、この世界に来て三度目の敗北を、これ以上無いほどの痛みと屈辱と共に味わうこととなった。