第十八話 懐かしき日常
―――これは夢なのだろうか。
少なくとも、現実ではない。今目の前で起こっていること、自分が体験したことが余りにも現実離れしているからだ。
あり得ない。信じられない。だが今目の前にその光景がある限り、起こりようもない奇跡が起きたという事実はある。
夢だろう。幻覚だろう。懺悔と後悔が産んだ、ただの妄想だろう。
切り捨ててしまいたかった。嬉しくもあり、悲しくもある。
もしもこれがタイムリープならば、そんなことは決して起こり得ない。
タイムリープは、要は時間を巻き戻すというもの。それには時空を曲げないといけない。
我ら神の力をもってしてもそんなことはできないし、やってはならない。
神にとって、運命をねじ曲げるというのは重罪だからだ。
直接的な人間の死への関与。例えば、残りの寿命がまだある人間を運命に逆らって殺した場合、己が報いを受けなければならない。
神にとっての報いなど一つしかない。いや、ディボスならもっと知っているのかもしれないが、少なくとも我はその一つしか知らない。
死。
神が命を懸けるその行い。運命をねじ曲げるというのは、時空をねじ曲げるのと大差ない。
かかる労力も、それによって及ぼされる影響も。
つまり時空を曲げるというのは、神にとっての死を表す。
無論、神以外にこんな事ができるはずもない。
魔王でさえ、元はただの生き物。いくら神の力を手にしたとて、神に成り代われるわけがないのだ。
神にもできないのに、神もどきの魔王にできるはずもない。
いや、確か時空を曲げる手段が存在したような気もする。
神之権能、【時空之神】。
あれはディボスが厳重に管理しているため、他の神や魔王はおろか、その強大な力を見事に使いこなせる者は一人たりとも存在しない。
管理者であるディボスでさえも、最強の能力である原初之権能でさえも、その膨大なエネルギーを制御することはできない。
神之権能でありながら、神おも超越した能力。
そんな能力がない限り、こんな事態を引き起こすのは不可能だ。
そんな能力があっても、神でさえ誰も使えないのだから、時空を曲げるなんて大それたことは誰にもできない。
そのはずなのに。今こうして、我の前には、死んだはずの少女が立っているのだ。
月影忍。村で唯一我の姿が見える少女。
玉座に座っている我を、ぽかんと不思議そうに見上げていた。
「あなた、だれなの?」
五歳くらいだろうか。シノブが死んだときより、まだ幾分か幼い。
言葉も拙く、やっとしゃべれるようになった赤ん坊のようだ。
先ほどから我が何者なのかと聞いてくるが、我はそれどころではなかった。
今何が起きたのかを考えるのに必死だったのだが、少し余裕が生まれ、いつまでも放置しているのも可哀想だと思ったので答えてやることにする。
「我は―――」
ここまで言葉が出てきたところで、急いでその続きを飲み込んだ。
もしこれがタイムリープなら、ここで『セト』という名前を出してしまうと不味い。
タイムパラドックスという現象だったか。過去で余計なことをしたために、未来が変わってしまうという現象。
最悪ソラたちもいなくなる可能性もある。発言や行動について、気をつけていかないと駄目なのかもしれない。
あの時、我は何と名乗ったのだろうか。ソラに出会う二百年前。当然まだ『セト』という名前はもらっておらず、ヤミとして行動していたのではないか。
「我は、ヤミ。闇の精霊神だ。」
「やみー?」
ピンときていないのか、その名を聞いてシノブは首を傾げる。
シノブの中で自らの記憶と我を結びつけようとしているのだろう。
シノブにとっては今出会ったのが初めてだから、記憶と一致しないのも無理はない。
「やみ!すごい!
やみ、ここでなにをしてたの?」
何が面白いのか、我の名前を復唱してキャッキャとはしゃぐ。
そして、唐突に来た質問だった。
「そうだな……」
タイムパラドックスを警戒し、我はどんな理由にしようかと考える。
「我はこの祭壇の神だ。だから、村を見守っていた。」
「かみさま!?」
幼少であるシノブでも、神であるということは認識できたらしい。
だが問題はここからだった。
「かみさまってさ、なにするの?」
まさかそれを聞いてくるとは。というか、よくよく考えてみたら我は虚無と混沌を司る神だ。特に人間に何かをもたらすわけではない。
今まで神だ神だと言っていたけれど、シノブにとって何かできるというわけでもない。
どう答えたらいいだろうか。
「そうだな……我はこの村を守護している神だ。」
「しゅご?」
「守るってことだな。」
「わたしたちをまもってくれてるの?ありがとう!」
…………可愛い。
神であり精霊である我にそんな感情があるなんて思ってもいなかった。
今目の前で、我の言葉に対してお礼を言って、ニッコリと無邪気に笑うシノブに、愛おしさを感じてしまう。
ああ、我は本当に何故シノブを守れなかったのだろうか。
未来が変わるかもしれないが、シノブを救ってやりたい。
より一層誓った。シノブを守る。あの大惨事でシノブを死なせない。
「シノブちゃ~ん?どこいったの〜?」
「シノブー!何処だー!」
そんな声が遠くから聞こえてくる。シノブはその声に反応して、声が聞こえてきた方を反射的に向く。
この丘に登ってくるための、唯一の道。余りにも急な傾斜の中の、唯一緩やかな場所から、二人の男女が息を切らしながら上がってきた。
その二人は我の前にいるシノブを見つけ、すぐにシノブに駆け寄る。
「シノブちゃん!」「シノブ!」
「パパ!ママ!」
「もう、探したんだよ?」「元気なことはいいけど、やんちゃはやめてくれよ」
シノブも女に向かって走っていく。
シノブと女は抱き合って、後ろで男が安堵の表情を浮かべている。
「いまね、あのかみさまとおはなししてたの!」
「神さま?ああ、あのカズム様のことか?でも、話すなんて……」
「ん?もしかしてあの影……」
男はシノブの言っていることがわからないらしく、首を傾げている。
だが女が我の方を見て何か気づいたようで、胸に抱いていたシノブを地面におろし、我に向かってゆっくりと歩いてくる。
「あなたが、カズム様?」
「そうだよママ!そのひとがかみさま!」
―――我の姿が見えるのか?
カズム様というのが、この地に祀られている神の名なのだろう。
だがこの地に祀られているのは我だ。闇の精霊神だ。
我は名無しであったため、“カズム”と、そう呼ばれているのだろうか。
人間の信仰の対象は神であろうと、名が違えばただの偶像に過ぎない。
名無しだから仕方がないと言えば、仕方がないが。
とりあえずカズムというのは我のことらしいので、女の問いかけに対して我は首を縦に振った。
「カズム様、娘が大変お世話になりました。
このお礼として、後ほどお供え物を持ってきます。」
信心深いこの女、今シノブのことを娘と言った。
シノブ自身も女のことを母親扱いしているので、よほどのことがなければこの二人は血縁関係にあると見ていいだろう。
つまり、この女がツキカゲココロ。
「お前が、ツキカゲココロか?」
「!?」
言葉は届いたようで、我が喋ると女は目を見開いて明らかな驚きを見せた。
「カ、カズム様の御言葉……」
「そんなに畏まらなくていい。
いいから質問に答えろ。お前が、ツキカゲココロか?」
「は、はい、そうですが……」
「なるほどな。とすると、向こうの男がブレイド・ムーンライトだな?」
目の前の女―――ココロは、薄桃色の布をその身にまとっていて、腰をベルトで締めている。
美しく長い黒髪、鮮明に光る黄土色の虹彩。肌も綺麗だ。
ココロの様子をあっけらかんと見つめている男は、ブレイド。シノブの父親。
前髪を全て後ろに押しやったような、いわゆるオールバックの銀髪。その体つきは逞しく、逆三角形とは言わずとも、少なくとも腹筋はバキバキに割れていそうだ。
こいつも白い腰布をベルトで腰に固定しているだけ。
シノブもそうだが、二百年後とは大分違う。
それもそうなのだ。二百年なのだから。でも何か違和感がある。
どうせその違和感も、すぐに消えてなくなるだろう。
人間は環境への順応が早いらしい。我は人間ではないが、長寿なので順応も早いというわけだ。
こいつらに現代の服を着せてみればどうなるのだろうかという、くだらない妄想をしていたその時だった。
「またお供え物を持ってきます、うちの娘を見守ってくださり、ありがとうございました。」
「かみさま!またね!」
再び我に向けられた、眩しすぎるほどの無邪気で純粋な笑顔。
我はできる限りの笑顔を作り、手を引かれて去っていくシノブに向かって手を振り返した。