第37話 弾圧
一九三六年六月十八日。
まだ言葉の壁があるものの、今のところはガルシアとの共同生活は順調なものだ。
そしてこの日も、宍戸は立川の研究所へ出勤する。
「おはようございます」
「所長、おはようございます。今、時間ありますか?」
その言葉で、宍戸はある程度察する。
「何か面倒なことでもありました?」
「そこそこ厄介なことが」
「分かりました。席で話を聞きます」
宍戸は、所長室にある自分の席に移動する。すると、そこに見たことのある人がやってきた。
外務省の三浦である。
「以前、ソ連で暴動が発生していることはお話ししたと思います」
「えぇ。何かきな臭いことでもありました?」
「きな臭いどころじゃありません。ソ連軍が武力で市民を排除し始めたんです」
それを聞いた宍戸は、思わず頭に手をやる。
「あー……、そうきたかぁ……」
「心当たりあるのですか?」
「これは自分の生まれる少し前の話なんですけど……。今大陸にいる中国共産党が、中華民国を台湾に押しやって中華人民共和国を建国しました。事実上の一党独裁で、圧政を強いていたのです。そこに自由を求めた若者中心のデモ隊が反旗を翻したところ、中国共産党は軍を出して武力による排除をしたのです。このことは中国共産党が報道などを厳しく取り締まり、数十年経っても事実を認めようとしなかったのです」
「そんなことがあったんですか……」
「今ソ連で起きていることは、市民の弾圧そのものです。これはまずいですね……」
そういって宍戸は、何かできないか考える。
「そうだ、彼に連絡を取ってみよう」
宍戸はスマホを取り出し、アレクセイ・イグナトフに連絡を取る。
『生きてるか?』
『あぁ、なんとかね』
『今、ソ連国内で軍が市民のことを弾圧しているようだけど、何か知ってるか?』
『何も分からないんだ。しばらく日の光を浴びてない』
『まだ監禁されているのか?』
『そうなんだよ。しかも特注の牢屋に入れられてる。たまにスターリンのような姿の男を見かける』
『なんとか脱出する機会を見つけるしかなさそうだな』
『その望みも絶たれそうだ』
イグナトフの弱気な様子が伺えるだろう。
「うーん。なんとかして救出したい所だが、場所が場所だからなぁ……。そもそもどこに監禁されてるかも分からないし……」
宍戸は申し訳なさそうにスマホをしまう。
「えーと、ソ連での暴動が軍によって制圧されているって話でしたね」
「はい。問題は、これを許可した中央委員会の対応です。中央委員会は非公開で臨時の会合を開き、今回の暴動を国防人民委員部に委任する形を取りました。そして国防人民委員部がが命令として、軍の派遣を決定したのです」
「うーん、確かに問題だ」
「それだけではないんですよ」
「と、いうと?」
「今回の暴動をきっかけに、中央委員会や国防人民委員部の招集をせず、書記長が戒厳令を自由に発布することができるようにしたのです。これが悪い方向に向かうと、ポーランドや満州国の国境沿いにいる軍を戒厳令を根拠として動かせるのではないか、と考えられています」
「あ、確かに……」
国境沿いにいる軍を、戒厳令を根拠とした書記長スターリンの一声で、簡単に進軍させることができる可能性がある。
「今はまだ可能性で留まっていますが、あの大粛清を行っているスターリンのことです。きっとある瞬間、糸が切れたように軍を動かすことも考えられます」
「面倒なことになったなー……」
「今、ソ連の周辺国家が変な動きを見せれば、すぐに陸軍が飛んでくるでしょう」
「やっぱり満州から関東軍引き上げるの愚策だったか……?」
「今なら愚策であったと言えるでしょうね」
「ウーン……」
宍戸は少し考え、三浦に一つ提案する。
「ソ連との中立条約って結べます?」
「現在省内で検討中ですが……」
「国家間の大きな戦争が起こっていない今のうちに、できるだけ中立条約を結ぶのが最善ですね……。ドイツとは防共協定を結び、ドイツとソ連は不可侵を結ぶ。これで三すくみの状態が出来上がります」
「ナチス・ドイツとの防共協定を三すくみの一つにするというのは、すなわち将来的にナチスと戦うという解釈になりますが……」
「自分のいた未来の世界では、ナチ党は諸悪の根源みたいな扱いを受けてましたからね。この世の悪を煮詰めたような存在ですよ」
その言葉に、三浦は少し苦い顔をする。
「その……、ナチスのことはあまり公言することは控えたほうがよろしいかと。どこでスパイが聞いているか分かりませんから」
「そー……ですね。分かりました」
宍戸に忠告した三浦は、そのまま席を立つ。
「それでは、自分はここで帰ります。また何か動きがあったらお知らせしますので」
「はい、よろしくお願いします」
三浦は所長室を出ていく。
一人になったことを確認した宍戸は、椅子の背もたれに寄りかかった。
「はぁ、面倒なことがまた一つ増えた……」
そういってスマホもメモ帳を開き、懸念すべきリストに書き加えるのだった。