第32話 工作
一九三六年五月六日。
宍戸は、日常になっている朝礼を終えたあと、ある人物と接触していた。
「外務省ソ連対策室の三浦です」
「はじめまして。何やら緊急性の高い案件とは聞いているのですが……」
「はい。実は、ソ連で反乱ないしは革命が起きそうな情勢になっているのです」
「……それはまた、唐突な話ですね……」
宍戸は一瞬、思考停止した。詳しく話を聞く。
「どうしてそのようなことに?」
「秘密警察が転生者のことを投獄、監禁していることが、市民の間で広まったことが原因です。どういう経緯でこの情報が広まったのかは定かではありませんが、このことで秘密警察と共産党中央委員会、およびスターリン書記長に対する反感を買っているそうです」
「うーん……。なんだか面倒な方向に転がったなぁ……」
宍戸は頭に手をやる。
「それで、市民の様子はどうなっていますか?」
「それは暴走もいいところですよ。あちこちで暴動が発生し、一部の将校もそこに交じっているようです。市民らは要求として、転生者の記憶を欲しているようです」
「そりゃあなぁ……」
転生者は、未来の記憶や記録を持っている。それらを自分たちの手にすれば、粛清による殺害から逃れられる可能性がわずかでも上がる。
「すでに市民の間でスローガンが完成しています」
そういって三浦は、ロシア語で書かれた紙を宍戸に渡す。
「なんて書いてあるんです?」
「かなり意訳ですが『未来を知る者こそ指導者に相応しい。未来の記憶でソ連を偉大な祖国に』と書かれてます」
「なんか……、やってること変わってないなぁ……」
宍戸は腕を組む。
「そうなると、転生者の居場所を秘匿しておくのが最善だな」
宍戸はスマホのメモ帳に、「転生者の身柄の安否」とメモした。
外務省の三浦が帰ったあとに、宍戸はアレクセイ・イグナトフに連絡を取る。
『大丈夫か?』
『大丈夫じゃない! もう勘弁してくれ!』
『そういえば、ここ最近グループチャットにいなかったな』
『そうなんだよ。最近は毎日のように監禁部屋を変えられてるんだ。しかも僕にも分からないようにしてるし……。スマホを取り上げられてないだけマシだ』
「うーん。このままだと、彼も粛清される可能性が上がってきたな。まさかスターリンがイグナトフのことを知らないなんてことはないだろうし……」
そのことを口にした宍戸は、思わず考え込んでしまう。
「仮に知っていたとして、ここまで手の込んだことをする理由はなんだ……? 情報が流出した今、隠し通せるものでもないだろうに……」
人の考えていることはよく分からないものである。
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イギリス、ロンドン某所。人通りの多い道に隣接するように建っている、五階建ての建築物があった。
外から見れば一見普通の建物であるが、実は地下二階まで存在する複合施設である。
この建物の正体は、転生者のロバート・コーデンの進言によって設置された、世界の情報を収集分析する情報機関「知恵の樹」である。
「知恵の樹」の仕事は、主に世界中の公式発表情報を収集して情報を突き合わせるオシント活動と、秘密情報部から流されてきた情報をオシント活動によって得た情報と照らし合わせて確認する情報処理活動の二つである。
しかし、それ以上に重要な仕事がある。それは広報だ。厳密に言えば、世の中にある情報にバレそうでバレなさそうな、絶妙な嘘を流すというのが本当の仕事である。
当然、オシント活動も諜報で得た情報もしっかり活用していく。そのうえで、政府の公式発表に絶妙な嘘を紛れ込ませていくのだ。
「情報というのは繊細な生き物だ。丁寧に扱ってやれば、それは我々の身を守る猛獣となる。逆に雑に扱えば、それは我々に牙を向く猛毒となるだろう。情報の取捨選択は我々の考えを明瞭にし、本音と建前は敵を欺く盾となる」
ロバート・コーデンは、新設された「知恵の樹」で、そのように演説する。彼が所長代理となったのだ。ちなみに所長は首相が兼任している。
「情報を精査し、世界の全てを見通せるような組織になることを期待しています。以上」
コーデンが演説を終えると、拍手が沸き起こる。
そして職員たちは仕事に入った。
「さて、僕の仕事もこの辺かな」
そういって小さな個室に入る。
コーデンには、軍や内閣に対して直接命令できる権限はない。上がってきた情報を見て、助言するのみである。それが、転生者として未来の情報を有している人間が成すべき仕事だと考えているからだ。
「情報を使って、この世界を見させてもらうよ。かつて覇者であった、大英帝国の光でね」
コーデンの不敵な笑みが、白紙の世界地図に降り注ぐ。