第132話 沈鬱
一九三九年四月二日。ドイツ、ベルリン。
総統官邸の会議室では、いつものように定例会議が行われようとしていた。しかし、会議室の空気は非常に重苦しかった。
報告する事項は、どれもドイツ軍の戦術的・戦略的敗北の数々。出席している閣僚からすれば、自らのことを死刑にするようなものである。
そのことを察したのかどうかは定かではないが、ヒトラーが会議開始時に声をかける。
「最初に言っておく。今日の会議では、都合の悪い事でも全て報告するように。すでに悪いニュースは速報で聞いている。悪いニュースを聞かなければ、今後の我が国の舵取りができないからな」
閣僚たちは半信半疑であったが、総統であるヒトラーがそのように言っているのだから、耳障りの悪い発言も大丈夫だろうと考えた。
そして、ありのままの戦況が伝えられる。
まずはバトル・オブ・ブリテンの発端となったレーベン作戦の進捗具合。
「作戦開始直後はブリテン島の各都市を順調に空爆できていましたが、最近はイギリス軍によるレーダー網が発達し、さらには待ち伏せを受ける状態になっており、損耗率が上昇しています。加えてこの状況に乗じて、逆に我が国の沿岸部を空爆してくるという状況です。主に航空基地を攻撃してくるため、稼働率は大幅に減少しています」
次に、ドーバー海峡での海戦の報告。
「ドーバー海峡にて、我が海軍の主力部隊と連合国艦隊による戦闘が発生しました。この海戦にて、少なくとも四隻の艦が沈没し、残りは全て拿捕されたとのことです。捕虜となった水兵たちは、スウェーデンを介して帰国させるとのことです」
そしてウェイクアップ作戦の損害。
「オルレアン・フランスのコタンタン半島を中心に、連合国軍が一斉に上陸を開始しました。今回の上陸戦で、沿岸部に建設していた仮設の要塞の半分以上が攻撃によって使用不能な状態になりました。仮設要塞内部で待機していた兵士のほとんどが戦死、辛くも撤退できた兵士は全体の一パーセント程度にとどまっています。上陸戦は実質連合国側の勝利とも言え、現在は橋頭保の建設や戦車を含めた物資の陸揚げを行っていることが、航空偵察によって判明しています」
さらに悪いニュース。
「先の報告通り、上陸を許したことによって、西部戦線が復活しました。現在軍団の再編成を行っているところですが、連合国軍の攻撃開始までに展開できるか微妙な状況です。加えて、東部戦線も押し込まれている戦線が存在し、一部部隊では撤退も行われています」
ナチス・ドイツにとってみれば、大損害とも言えるニュースで埋めつくされていた。
それらを聞いたヒトラーは、椅子に背中を預け、深く溜息をついた。
「我がドイツは、我らアーリア人は、こんなにも弱くなってしまったのか? 我々は他の国の人間よりも、人種的優位に立っているのだぞ? それなのに、こんな敗戦続きでどうしろというのだね?」
いつものような威厳に満ちた姿はなく、未来を憂いている一人の人間がそこにいた。
そんなヒトラーに、ゲッベルスが反論する。
「閣下、悲観的になる必要はございません。我々の現状を鑑みれば、少々敵が多すぎるだけなのです。数が多いほうが強く、また勝ち続けるのは当然の帰結です。我々は決して弱くなどありません。むしろ善戦している方でしょう」
それに同調するように、ゲーリングが発言する。
「その通りです。我々は誇り高きアーリア人なのです。それは閣下が一番よく分かっていらっしゃるでしょう? 閣下がアーリア人のことを否定してしまったら、我々の国家を否定しているのと同義です」
「……分かっている」
ゲーリングの言葉に、ヒトラーは絞り出したような声で答える。
こうして定例会議は終了した。
閣僚たちは内心安心しているだろう。誰一人として犠牲者を出していないからだ。普段のヒトラーなら、何か悪いニュースを話しただけで、スターリンよろしく粛清対象にするだろう。
「総統閣下、今日はなんだか悲壮感に浸ってなかったか?」
「あぁ。やはり連日の損害報告が身に堪えているのだろうさ」
そんな閣僚たちの心配など届くはずもなく、ヒトラーは執務室の壁にかけてある世界地図の前に立つ。
そしてそれを呆然と眺める。
「……アーリア人を中心とした新世界秩序。これを達成するために、国家方針を変えるべきなのだろうか……」
珍しく悩んでいるヒトラー。その弱気な姿には、独裁者の面影はなかった。