ローデリアの愛の話
読んだことがあるという方もいらっしゃると思いますが、どうぞおつきあいください。
結婚をする前の彼女の名前はローデリア・エルガス・クレムソン。
金髪にウェーブのかかった美しい髪を持ち、大きな瞳と左の瞳の下にあるほくろは色っぽく、スッと通った鼻筋は品があり、誰もが彼女を見れば美しいと形容する侯爵令嬢。
そして彼女が思いを寄せていたのはクライル・へスタ・シューベント伯爵子息。ゴールドブラウンの髪に茶色の瞳の整った顔立ちと、人当たりのいい性格で女生徒たちから人気のある青年だ。
「どうしてそんなことを言うのよ、クライル! 一緒にランチを食べるくらいいいじゃない」
マンスフィール王国の王都にある貴族学院の中庭に、ローデリアのイライラした声が響く。運よく周りに人がいなかったからいいものの、もし誰かいたらすぐに人が集まっていい見世物になっていただろう。
昼食を取るためにいつもの場所に向かおうとしていたクライルを強引に呼びとめたローデリアは、真っ赤な顔をして目をつり上げている。
これまでもローデリアは頻繁にクライルのもとに押しかけては、ランチに誘いデートに誘っては玉砕していた。
そして、ローデリアの誘いに一度も首を縦に振ったことがないクライルは、学院に入学した当初からの友人であるダリスやサマンサと過ごすことが多く、特にダリスとは殆どの時間を一緒に行動していた。
しかしダリスとサマンサは平民で、ローデリアに言わせればクライルと同じ時間を過ごすにふさわしい身分ではないのだ。その考え方はローデリアだけのものではなく、貴族子女の多くは貴族学院と銘打っている学院に平民が通っていることを快く思ってはおらず、あからさまに平民を蔑視している者も多くいる。たとえ学院では身分など関係ないとは言っても、実際には貴族と平民のあいだにある壁は見あげるほど高いのだ。
しかし、クライルはそんなことはまったく気にしていないのか、ダリスやサマンサと親しくしていて、時間が許す限り二人と一緒に過ごしていた。ローデリアとはほんのわずかな時間も一緒にいてはくれないのに。
それでも、ダリスだけならまだ許せた。ダリスは平民とはいえ医者の家系で、過去には準貴族の爵位を手にした者もいる優秀な家門の出身だ。しかしサマンサは許せない。学院でも美男で優秀と名高い二人の男を侍らせて、品のない平民女が当然の顔をして二人の横に居ることが不愉快極まりなかったのだ。
当然のようにローデリアの牙はサマンサに向けられる。
サマンサを呼び出し文句を言い、突きとばし、水を掛けるなど嫌がらせの鉄板といわれるようなことはすべてやったと言ってもいいくらい嫌がらせをくり返した。
その度にクライルから蔑みの目で見られることはわかっているのに、ローデリアは我慢ができなかったのだ。
そして、ついに大きな問題が起きてしまった。サマンサが階段から落ちて大けがを負いそうな事故にあったのだ。
運がいいと言っていいのか、五段ほどの段差から落ちたため擦り傷程度で済んだが、一歩間違えれば命にかかわるかもしれない出来事だったのだ。そしてその原因はローデリアの取り巻きの一人が、自分の後ろから階段を上ってきたサマンサを押したから。
その場にローデリアはいなかったし、彼女が取り巻きに指示をしてやらせたという事実もないためローデリアを責めることはできないが、まったく関係がないかといえばそうとは言いきれない。その取り巻きはこれまでもローデリアと一緒になってサマンサに嫌がらせをしてきたのだから。
「君たちは人殺しにでもなりたいのか?」
「そんな、なんて恐ろしいことを言うの?」
「実際、サマンサがそんな恐ろしいことになっていたかもしれないからだ」
「……そんなの、私のせいじゃないわ」
「たとえ君のせいでなかったとしても、君が先頭に立ってサマンサに嫌がらせをしてきたことは事実だ」
「だって、あの子はひどいじゃない。私がクライルのことを好きだと知っているのに、あなたから離れようともしない。貴族に取りいろうとしている卑しい性根がはっきりと見えているじゃない」
「やめてくれ! サマンサはそんな人じゃない」
「あなたは騙されているのよ!」
ハーッとクライルは大きく嘆息を吐いた。何度同じ話をしてもローデリアは聞く耳を持たない。第一、ローデリアとクライルの関係はただの同級生。恋人でもなければ婚約者でもない。この言い合い自体がそもそもおかしいのだ。
「ローデリア嬢、君には婚約者がいるだろう?」
「……」
ローデリアはクライルの言葉にぐっと唇を噛んでうつむいた。一番聞きたくない言葉だ。
「君の言葉が婚約者の耳に入ることを考えるんだ。しかも相手は侯爵家。うちは伯爵家で家格も下だ。君の不用意な言葉でどんな問題が起こるか考えてくれ。そして、僕と君は恋人ではないし、これからもそうはならない」
クライルのバッサリと切りすてるような言い方に、ローデリアは堪らずに涙を零した。
「はっきり言うのね」
「言わないと君には伝わらないだろう?」
「私、あの人と結婚なんかしたくない」
あの人とはローデリアの婚約者、ノーラン・ウィンズボロ侯爵子息のこと。ノーランはローデリアより七歳年上。残念ながら美しいとは言えない容姿をしていて、少々母親に対する愛情が深い。
身長は男性にしては高いとは言えず、ドレスアップしたローデリアと並ぶと、わずかに彼の方が低くなってしまう。たっぷりと付いた肉は、年々横へと成長しているし、茶色のクルクルした髪の毛は、流れる汗のせいでぺったりと頭に張りついていることのほうが多い。
しかし見た目こそ残念な青年だが仕事はできる。文官として王宮に勤めていて評判もいいし、将来は爵位を継ぐウィンズボロ侯爵家の嫡男だ。性格に少し問題があるし女性からは人気がないが、高位貴族で仕事もしっかりしているのだから、政略結婚の相手としては問題はない。
だいたい世の中の男なんてそうそう完璧な人間ばかりではない。多かれ少なかれ問題はあるだろうが、結婚してしまえばどうにかなるものだ、と昔クライルの父親が言っていた。
「君が結婚をしたくないなら、君のご両親に言うんだ。僕に言っても何もできない」
「ひどい」
いや、ひどくはない。むしろ正論。ただ、彼女の欲しい言葉がそうではないだけ。
「クライルに婚約者はいないんでしょ? お願い、私にして」
それも何度聞いただろうか? それがいかに無意味なお願いであるかなんて理解しているはずなのに。
ローデリアの頭の中には白馬に乗った王子様が、自分を嫌いな婚約者から救ってくれる非現実的な妄想でも繰りひろげられているのだろうか? そして、その王子様がクライルであると。
クライルは冷めた目でローデリアを見つめ、大きな溜息をついた。
「僕に婚約者がいないのは、そういう話がないんじゃなくて僕が断っているからだ」
「だったら……!」
「僕は結婚なんてまだまだする気もないし、するにしても君ではない」
「サマンサと結婚するの?」
クライルはローデリアの言葉を聞いて呆れたように首を振る。
「そうなんでしょ! 彼女が平民だから言わないだけで、本当はサマンサと……!」
「ローデリア嬢!」
クライルの大きな声に驚いてローデリアが口を噤む。
「いい加減にしてくれ。サマンサとはそういう関係じゃない。僕は貴族学院を卒業したら国立の学習院に入るし、サマンサは薬事科を目指している。君のように毎日恋愛のことばかり考えているわけじゃないんだ。……この話はこれで最後にしてほしい」
そう言って踵を返したクライルの背中を、ローデリアはいつまでも見つめていた。
「涙って枯れないのね」
三日間泣きつづけたローデリアは、それ以降クライルにもサマンサにも接触しなくなり、学院を卒業してすぐにウィンズボロ侯爵家へと嫁いでいった。
それから十年。クライルは仕事人間と言われるほど仕事に没頭していた。
ダリスとサマンサは結婚し、二人はダリスの実家の病院を手伝っている。
そして、時々二人が愛娘のマリーを連れて屋敷に遊びに来てくれることが、クライルの何よりの楽しみだ。
マリーは陽気で愛嬌があり、屋敷に足を踏みいれた瞬間から周囲を明るくしてしまうほど天真爛漫。そしてクライルは、そのかわいらしい笑顔で自分に抱きついてくるマリーにとても甘く、ついつい色々と買い与えてしまってよくサマンサに怒られている。
そのクライルはいまだに独身で、クライルの父親は口を酸っぱくして結婚しろと言いつづけていたが、最近では諦めているのか、養子の候補を何人か見つくろい始めている状況だ。
「ローデリアが離縁されたんですってね」
久しぶりに遊びに来たサマンサが話のついでのように言った。
「本当か? それはいつ?」
「ずいぶん前よ。もう一か月はたつと思うわ」
仕事で長く外国に行っていると、自国の情報に疎くなることも多い。それにしても一か月も前のことだなんて。
「夫婦仲がうまくいっていない噂は前からあったみたい」
それはクライルも聞いていた。
十年たっても子宝に恵まれず、二人の仲は冷えきっているなんて噂は誰でも一度は耳にしたことがあるはずだ。
「彼女は実家に?」
「それが、実家からは門前払いされたらしいの」
「なんだって? では、ウィンズボロ侯爵家に戻ったのか?」
「それはわからないわ」
どういうことだろうか? 侯爵家にも実家にもいないとしたらどこへ?
ダリスたちが帰ったあとも、クライルの頭の片隅にはローデリアのことがあった。サマンサの話では、ローデリアはいまだに行方不明のままで、実家や嫁ぎ先が彼女を探している様子もないという。
「薄情なもんだな」
家族に捨てられたローデリアに生きる道があるのだろうか。
「……まぁ、関係ないか」
クライルが手がけている洋服店ランテ・マ・ソは、王都の中央を抜ける大通りにあって、その一本奥の通りは、平民が生活するために必要なものを売っている店が並んでいる。
食料や生活雑貨などが並ぶこの一本奥の平民の通りは、表の華やかな大通りと違って平民の生活が根づいている場所だ。そして平民の通りを貴族が歩くことはほとんどない。
クライルはそんな通りを歩くのが好きで、ランテ・マ・ソに顔を出したあとは、一本奥の平民の通りに行き、露店で串焼きを買うのがお決まりとなっている。
通りの端にあるベンチに座って、行きかう人を眺めながら串に刺さった肉を頬張る。凡そ貴族らしからぬ行動だが、クライルはその辺はまったく気にしない。このあたりの人たちもクライルのことは見なれていて、気さくに挨拶をする人もいるほどだ。
しっかり串焼きを堪能したクライルは口元を拭き、カップに残った水を飲んだ。
実は先ほどから気になっていることがある。クライルが座るベンチの向かいにある、店と店のあいだの暗く細い道。いや、道とは言わない、ただの隙間。
立ちならぶ建物のほとんどが、隣の建物とのあいだに隙間なく建てられているが、そこだけは火事で焼失した部分を補修した関係で、隙間ができてしまったと聞いている。
周囲の壁は煤で真っ黒になっていて、屋根だけはそのまま残っているので雨が降っても濡れることはない。その為、何年も経っているのに壁は煤で黒く、店の前を通るとかすかに焦げた匂いがするその場所は昼間でも薄暗くはっきりと見とおせない。
その不自然に暗い場所で何かが動いたような気がした。
(猫か?)
普段なら気にならないどうでもいいことが今日は妙に気になった。
クライルはゴミ箱に串焼きの串とカップを捨ててその隙間に向かって歩きだした。
(猫にしては大きいな。犬か? ゴミ袋でも漁っているのか?)
しかし、その隙間をのぞき込んだとき、そこで見たものにショックを受けてクライルの体が固まった。
「……ローデリア?」
そこに居たのは猫でも犬でもなかったのだ。
何日も風呂に入っていないその姿は薄汚く、ドレスは擦りきれ、全身が埃まみれ。髪の毛は乱れ、体は傷だらけでやせ細り、口の周りに黒いものが付いている。顔は土色で一見すると誰だかわからないが、左目の下のほくろを見てローデリアだと気がついた。
座りこみ震えながらクライルを見あげているローデリアにゆっくりと近づくと、ローデリアは逃げるように後ろに下がる。しかし、袋小路のその場所にローデリアの逃げる場所はない。
「ローデリア? 私だ、わかるか? クライルだ、ローデリア」
優しく話しかけるとローデリアは目を見はり涙を流した。
「ク、ライ、ル……」
弱々しく腕を伸ばしたローデリアの手を取ると、クライルはその痩せすぎた体を横抱きに抱えあげ、急ぎ足で待たせてあった馬車まで運んだ。
ジャケットでローデリアの顔を隠したが、彼女が放つ異臭に人々はすぐに気がつき、顔をしかめながら好奇心を持ってクライルを見つめている。
「どうしてこんなことに……」
口の周りの黒いものは、血ではないか? ローデリアの実家は何をしているんだ。娘がこんなことになっているのに何も気にしていないのか?
想像もしなかった。あのローデリアがこんなにボロボロになって、浮浪者のように座りこんでいるなんて。いや、十分に予想できたことだったではないか。ただ、他人事と思っていただけだ。
頭は混乱しているが、やらなくてはならないことがなんなのかはわかる。体を清めて医者に診せ、食事を取らせて休ませなくては。
クライルは馬車を急がせた。
熱のせいか飢餓のせいかわからないが、ローデリアの意識は混濁していた。わけのわからない言葉をくり返し、謝り、髪の毛をむしろうとしたり、血が滲むほど強くその痩せこけた腕に爪を立てたり。
そのため常に誰かがローデリアに付きそい、自傷しないようにひと時も目を離さないようにしなくてはならなかった。
ローデリアが目を覚ましたのは、クライルが見つけてから二日たった日の夕方だった。クライルを認めたとき、ローデリアは声もなく泣いた。安心したのか知られたくなかったのかわからない。ただ、ローデリアが泣きやむまでクライルは付きそった。
「しばらくここでゆっくりして養生するといい」
「ごめんなさい、迷惑をかけて」
「気にするな。……実家に連絡をしておくよ」
「い、嫌、しないで」
「……わかった。しないから何か食べてしっかり寝るんだ。明日医師が来るから」
「ありがとう」
クライルが部屋を出るとローデリアは体を起こそうとしたが、全く力が入らず枕から頭を浮かせることができなかった。
「情けないわね」
久しぶりに寝た柔らかく温かいベッドが、こんなにありがたいものだとは知らなかった。柔らかく煮込んだ薄味の野菜スープが、今まで食べてきたものの中で一番おいしかった。あんなに冷たかったクライルが、自分に優しくしてくれるなんて思いもしなかった。
「……」
翌日の昼にやってきた医師はローデリアの腕を取って脈を計り、いくつかの質問をして、わかりました、と言うとそのまま部屋を出ていった。
横たえたまま天井を見つめているローデリア。
「家族は私のことを見すてたのに」
ローデリアのことを嫌っているクライルがこうして助けてくれるなんて。
「彼にしたら、いい迷惑よね」
たまたまローデリアを見つけてしまって、放っておくこともできずにここまで連れてきてくれたのだろう。きっと、すぐに出ていけと言われるはずだ。
しばらくしてクライルがドアをノックして部屋に入ってきた。その表情からは複雑な感情をうかがい知ることができて、すぐにローデリアは理解した。彼は知ってしまったのだと。
「いつからなの?」
「二年前よ」
「ウィンズボロ侯爵は知っているの?」
「ええ」
「実家も?」
「実家には言っていないの」
「ノーランにも言う気はなかったんだけど、目の前で血を吐いてしまったから」
ローデリアは肺を患っていて余命幾何もない。そう医師が言っていた。
「治療は?」
「少し遅かったのよ。調子が悪いとは思っていたけど、結婚してから体調が悪い日が多かったし、大袈裟に騒いで迷惑をかけたくなかったから」
「迷惑って」
ローデリアは結婚した当初から、義母である侯爵夫人と良い関係を築くことができていなかった。それはそうか。
婚約者がいる身でありながらクライルを追いかけまわし、取り巻きたちにノーランと結婚をしたくないとぼやいたことだって何度もあるのだ。それがノーランや義母の耳に入ったとしても不思議ではない。
夫であるノーランは母親思いのよくできた子で、母親の言うことは絶対だった。当然ローデリアの味方などしてはくれない。ノーランがローデリアに求めることは子をなすことで、それ以外のことは望んでいなかった。
ローデリアには、人を呼んでお茶会を開くこともパーティーを開くことも、他の人のパーティーに参加することも許されなかった。義母は楽しそうにお茶会を開き、何度もパーティーを開いていたが。そしてローデリアが招待されたことは一度もなく。
夫からも義母からも大切に扱われない女を、屋敷の使用人たちも主人とは見てくれない。義父は我関せずで、一切口を挟まない。せめて子どもでも生まれればグラグラに揺れている足場が少しは固まるのに、その望みもわずか二年で潰えた。二年を過ぎたあたりから、夫と寝室を共にすることがなくなったからだ。
だからといって愛人を囲いこむわけでもなかったため、ローデリアの首の皮が一枚繋がっているような状態だった。
あまりにひどい扱いだと思って侯爵家を飛びだし実家に戻っても、父親はカンカンになって追いだそうとする。母親が庇ってくれるから一日二日は置いてくれるが、結局侯爵家に帰らされ義母に謝らなくてはならなくなる。
しかし、結婚した当初こそ侯爵家を飛びだしていたローデリアだったが、何年もたつと諦めて大人しくなっていった。若々しくキラキラ輝いていた時代は過去のものとなり、次第に老けこみ、身なりにもあまり気を遣わなくなっていく。人前に出ることを許されていないのだから、身なりなんて気にする必要がないのだ。
寝こむことが多くなり医者を呼んでくれと頼んでも、大袈裟だと言って取りあってもらえないこともあった。
あまりに調子が悪いと思い、自分で町医者を探して診てもらったところ、良い状態ではないと診断された。そして、町医者が知り合いの名のある医師を紹介してくれて、そこで診察を受けたところ、肺を患っていると言われた。
身なりが悪かったことと、侍女も伴わずに一人で来ていたことで貴族とは思われなかったのだろう。親切にも、長くは生きられないだろうと余命まで教えてくれた医師は、病気の進行を遅らせる薬をローデリアに渡してくれた。
それからは一人の戦いだった。できる限り弱っている姿を見せないように振る舞った。余命がわかってしまったことで逆に勇気が湧いたのかもしれない。何も怖くないような気がして、うつむき気味だった自分に活を入れて背筋を伸ばした。
それでも初めて血を吐いたときは声を殺して泣いた。こんなときでさえ、ローデリアの肩を抱いてくれる人なんて一人もいない。家を追い出される一年前の出来事だ。
どんなに胸を張っても体は日に日に弱っていき、薬を貰いに行くこともできなくなったころ、ノーランと義母の前で血を吐いてしまった。
義母はうつるからあっちへ行け、と汚物でも見るかのような顔をして叫ぶ。ノーランはローデリアに声をかけることもなく、青い顔をして義母と共に別の部屋に行ってしまった。
離縁状にサインをさせられて、家を追いだされたのはそれから三日後。
実家に辿りついたとき、門をくぐらせることもなく、離縁されたウィンズボロ侯爵家に詫びて復縁してこいと追いはらったのは、クレムソン侯爵家を継いだ弟だった。
ローデリアの母親は五年前に亡くなり、父親は弟に爵位を譲ったあと、領地に家を建て後妻と二人で暮らしている。とてもローデリアが頼れる環境ではなかった。
それに、結婚をしてから社交することができなかったローデリアは、こんなときに頼れる友人もいない。
仕方なくどうにか持ちだせたわずかな装飾品を売ったお金で、数日宿を取ったローデリアだったが、そんなことをすればすぐに金は尽きる。払えるお金がなくなると、すぐに宿を追いだされてしまった。
修道院に駆けこみたかったが、歩いて行けるほど短い距離ではなく断念せざるを得なかった。ローデリアには長距離を歩きつづけるほどの体力がなかったのだ。
途方に暮れたローデリアは、休める場所を探してふらふらと当てもなく歩き、ひと晩を過ごせそうな場所を見つけて座りこんだ。屋根のない場所で寝たのはそれが初めてだった。寒くてつらくて惨めで。私はこんなふうに死ぬのかと、わずかな命が早く尽きることを祈った。
クライルがローデリアに声をかけたとき、死の国からお迎えが来たんだと思った。それなのに、あんなに死にたいと思っていたはずが、本当に死ぬんだと思ったら怖くて逃げだしたくて。しかし、自分に手を差しだしたのがクライルだとわかったとき、やっと安心して死ねる気がした。
「全て、私が悪いのよ。幼稚過ぎたの。自分のせいで全てが悪い方向に進んでしまったけど、気がついたときには遅すぎた。だからこれは、私への罰」
ローデリアの笑みは痛々しくて見ているほうがつらくなる。
「そうか」
「クライルにも迷惑をかけてしまったわね。できるだけ早く出ていくから」
「そんなことは気にしないでゆっくり治療して。ここには両親と私しかいないから気をつかう必要はない」
「……ありがとう」
学生時代、クライルは優しくはしてくれなかったけど冷たい人ではない。自分があまりに幼稚だっただけで、クライルは至極全うなことを言っていただけ。過去の自分の失態を思いだせば、恥ずかしくなって布団を頭から被りたくなる。
(でも今はダメよ。まだクライルがいる。それこそ子どもっぽ過ぎて呆れられるわ)
「君がここにいることは誰にも言っていないから安心して。もし誰かに連絡をしたくなったら遠慮はしなくていいから。薬は、君の世話をするケイトが準備するから必ず飲むこと」
「わかったわ」
「何か欲しいものはあるかい?」
「いいえ、何もないわ」
「そうか、じゃしばらくは体力を戻すためにもしっかり寝るんだ。いいね」
「ええ」
「私はもう行くよ」
「うん、ありがとう」
クライルが出ていくのを確認してからローデリアは布団を頭から被った。
こんなふうにクライルと穏やかに話をしたのは初めてだ。
(学院でダリスやサマンサと、楽しそうに話をしているクライルを見るのがつらかった。どうして、私とはあんなふうに話をしてくれないのかしら、っていつも思っていたんだったわ。友達としてならこんなに優しく話をしてくれたのね)
あのころの自分に教えてあげたい。そうしたら、もっと違う未来があったかもしれない。
クライルの屋敷に来てから一か月が過ぎたころにはずいぶんと体力が戻り、少しふっくらとしてきた。血を吐く回数は増えてきたし、息は苦しいけど、体力が戻ってきた分少しはつらくなる波にも耐えられる。
いや、正直に言えば耐え難い。いつ苦しみながら死ぬのかと思うと恐怖で震えてしまう。でも、そんなときは必ず誰かが手を握ってくれた。侍女のケイト、クライル、ときにはクライルの母の伯爵夫人が握ってくれたときもあった。
あるとき、ドアをノックする音がして返事をすると見しった女性が顔をのぞかせた。
「…サマンサ」
「こんにちは。久しぶりね」
昔と変わらず可愛らしい笑顔。
「どうしてここに」
「ふふふ、私たちは今も変わらず友達なの。クライルがあなたの話し相手兼薬師として呼んでくれたのよ」
「クライルが」
遠くから聞きなれない女の子の楽しそうな声が聞こえる。
「うるさくてごめんなさいね。娘も連れてきているの」
「そうなの」
「静かにするようにあとで言っておくから」
「いいわよ。私のことは気にしないで。名前はなんて言うの?」
「マリーよ。旦那にそっくりなの」
「私の知っている人?」
「ダリス」
「あなたたち結婚したのね」
「そうよ。今はダリスの実家の病院を手伝っているわ」
「じゃ、今日はダリスは」
「来ていないの。私と娘だけ」
「そう。いまだに仲が良いなんて羨ましいわ」
「私とダリス? それともクライル?」
「両方よ」
無知な少女のころ、サマンサが憎らしくて仕方がなかった。ひどいこともした。
「私の話し相手なんて嫌な役、引きうけなくてもいいのに」
「別に嫌じゃないから引きうけたのよ」
「嘘よ」
「本当よ」
「私はあなたにずいぶんひどいことをしたわ」
「そうね、だから仕返しに苦ーいお薬を出してあげるわ」
「嘘、やだ」
「ふふ、それくらいの仕返しは甘んじて受けるべきよ」
「……そうね、確かにそうだわ」
ローデリアの真剣な顔を見てサマンサは微笑んだ。
「このお薬を頑張って飲んだら、おいしいお茶とクッキーを用意するわよ」
「なによ。私は子どもじゃないわ」
そう言って少しぷりぷりしながら粉末の薬を飲んだローデリアの顔がグシャッと歪む。
「ほら、水を飲んで一気に流しこまないと」
グラスの水を大きく二口飲んで、眉間にシワを寄せながらごくりと薬を飲みこむ。
「恐ろしい仕返しだったわ」
「ふふ、よく頑張りました。お口直ししましょう」
そう言って用意されたのは蜂蜜をたっぷり入れた温かいミルクティーと、口に入れるとホロホロと崩れる柔らかいミルククッキー。硬いものや大きいものを嚙み砕くことや飲みこむことが大変なローデリアへの気遣いがうかがえる。
「とてもおいしいわ」
「よかった。クッキーは私の自信作よ」
「あなたが作ったの?」
「そうよ。意外といけるでしょ?」
「ええ、本当においしい」
サマンサは強く優しい女の子だった。ローデリアがどんなにひどい嫌がらせをしても、涙を見せたことなど一度もないし、クライルに泣きついたこともない。だから実際にはクライルが知っている数よりずっと多く嫌がらせをしていたのだが、サマンサはその状況から逃げることもなく、平然とした顔で学院生活を送っていた。
思いだせば思いだすほど、自分の心根の醜さや幼稚さを思いしらされる。
「ごめんなさい」
「何? 急に」
「意地悪ばかりして」
「……ああ。もちろん、忘れていないわよ」
「そ、そうよね。こ、今度は私に意地悪していいわよ」
「大丈夫? きっと大変なことが起こるわよ」
「それは仕方がないわ。私がひどいことをしたんだもの」
「ふふ、覚悟はできているのね。それなら毎日私の嫌がらせに耐えてもらいましょう」
サマンサの言葉にローデリアは唾をゴクリと飲んだ。
それからは毎日サマンサとローデリアの戦いだった。
「嫌よ。私を殺す気?」
「なんで薬を飲んで死ぬのよ」
「死んじゃうわ。こんなに苦いのよ」
「仕方がないでしょ。お薬は苦いものなの」
「いや!」
「リア、いい加減にしなさい」
「そうよ、リアいいかげんにしなさい」
サマンサと同じように腰に手を当てたマリーが、サマンサの口調を真似してローデリアに言いたい放題。
「いいおとなが、わがままはいけないわ。リア」
「マリーも飲んでみなさい。泣いちゃうわよ」
「わたしはなかないわ。いいこだもの」
「――っ」
いい子と言われると何も言えない。
そこへドアをノックする音がして、返事をするとクライルが入ってきた。
「賑やかだね」
「おじさん!」
嬉しそうにクライルのもとに走っていったマリーが手を広げると、クライルはマリーを抱きあげ、二人で話を始めた。
「や、マリー。ローデリアの面倒を見てあげてるのかい?」
「そうよ。リアったらわがままをいっておくすりをのまないの」
「それはいけないね」
「ちょっと、二人で話をしないで。だいたい、私はマリーに面倒なんて見てもらってないわよ」
「それにリアはおとなげないわ」
「まったくマリーの言うとおりだね」
「ちょっと」
「ははは、冗談だよ」
そう言ってマリーを下した。
「マリー、おいしいケーキを買ってきたから食べておいで」
「わ、やった。ありがとう、おじさん」
マリーは元気に部屋を出ていった。
「ありがとう」
サマンサはクスッと笑ってお礼を言う。
「いいえ。それで、調子はどう?」
「……ありがとう、ずいぶんいいわ。サマンサの苦いお薬のお陰で」
「ふふ、喜んでもらえて嬉しいわ」
「体調がよくなったみたいで、安心したよ」
顔色はそれほど良くはないが、声に張りがあるしクライルがローデリアを見つけたときから比べればずっといい状態だとわかる。
「仕事はまだ忙しいの?」
サマンサの質問に首を振ったクライル。
「いや、ようやく一段落ついたから、しばらくはゆっくりしようと思っている」
「そう、よかったわ」
ドアの向こうから、クライルを呼ぶマリーの声が聞こえる。
「お姫様に呼ばれたから行ってくるよ」
「ごめんね」
サマンサが笑った。
「いや、あとでケーキを運ばせるよ」
「ありがとう」
そう言ってクライルはニコッとして出ていった。
「本当に、あれがあのクライル? 何度見ても信じられないわ」
「あれがクライルよ」
マリーに呼ばれていそいそと部屋を出ていくクライルの後ろ姿を見おくりながら、ローデリアは呆れ顔。
「父親みたいね」
「そうね。第二の父ね。いえ、おじいちゃんの部類かしら。ダリスより断然クライルの方がマリーに甘いから」
「本当に信じられない」
ローデリアは小さくくり返しながらクスリと笑った。
「あんなに子どもが好きなのになんで結婚しないのかしら?」
「そうね」
「私は、絶対にサマンサのことが好きなんだと思っていたわ」
「そういえばあなた、学生のころにそんなことを言っていたわね」
「皆がそう思っていたはずよ。それより、あなたがクライルとダリスを手玉に取っていると思っていたわ」
「失礼ね。私はずっとダリス一筋よ」
「どさくさに紛れて惚気ないで」
「ふふ、ごめんなさい」
「それにしても、なぜクライルは結婚しないのかしら。いつまでも独身でいられるはずがないのに」
「そうでしょうけど。……私には何も言えないわ」
「どうして? 友達なんだから、言ってあげてもいいんじゃ……」
そう言いかけてローデリアはハッとした。
「やっぱり、そうなのね。身を引いたのね」
「え?」
「クライルは、ダリスの為に身を引いたんでしょ?」
「ふふ、違うわよ。本当に私じゃないの」
「クライルの好きな人を知っているの?」
「うーん、もういいのかな。本人は絶対に言わないだろうし…」
サマンサはしばらく考えて、そっとローデリアに耳打ちした。
「……嘘」
「本当よ」
「嘘」
「本当」
「本人から聞いたの?」
「そうよ。私がそうなのかって聞いたら、そうだと教えてくれたわ」
「なんて……」
なんて……。
「ひどい女でしょ? 私」
「……」
「それでも、クライルは結婚式には必ず呼んでって言ってくれたの。マリーが生まれたら自分のことのように喜んでくれたわ。私には絶対に謝らないでって言ってくれて、二人の幸せが自分の幸せだと背中を押してくれたの。だから、私たちはずっと友達よ」
「あの人は知っているの?」
「知らないわ。知っていたらきっと友達ではいられない」
「……そうよね」
「秘密よ。私達の秘密。お願いね、リア」
「……うん。約束する」
ローデリアはその日なかなか寝つけなかった。
そうだったのか。ずっと心に引っかかっていた気持ちが、ストンと落ちて一気に軽くなった。そうだったのか。
(あなたも苦しい恋をしていたのね)
数日してサマンサとマリーは帰っていった。大量の薬を置いて。
「またすぐ来るからね」
「リア、さびしがらないでね」
マリーのちょっと生意気な口調がおかしくて、ローデリアは眉尻を下げながら、はいはい、と手を振った。
二人が帰って静かになった屋敷にはぽっかりと穴が空いてしまったようだ。
「静かになったわね」
「寂しいかい?」
「少しね」
「またすぐに来てくれるよ」
「そうだったら嬉しいわ」
「今日の体調はどう?」
「ずいぶんいいわ。息が苦しくないし」
「それはよかった。庭に連れだしてあげたいけど、もう少し暖かくなってからのほうがいいだろうな」
「外に行けるの?」
「君がもう少し元気になって、外も暖かくなったらね」
「うん」
「ねぇ、ローデリア」
「なに?」
「私たち結婚しないか?」
「え?」
唐突なクライルの言葉。
「あ、もちろん君が良かったらの話だよ。その、もし好きな人がいるとかだったらほかの方法を考えるけど」
「ほかの方法?」
「君がこの屋敷にいることを知っている人がいるんだ、わりと沢山。それで、結婚もしていない男と女が、一つ屋根の下に住んでいると何かと都合が悪いだろ? それなら結婚してしまったほうがいいかと思って」
「なによ、それ。あなたは良いの? 私の為にそんなことして」
「私はかまわない。むしろそのほうが都合がいいんだ。夫婦なら君の面倒見ることに何も言われる筋合いはないからね。……実は結婚しないと爵位が継げないんだ。この家の家訓でね」
クライルがヘラリと笑った。
「ふふ、抜け目ないのね。もちろん……願ってもないことだわ」
「そうか、よかった」
クライルが優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、クライル」
「気にしないでいい。それより、君が気を悪くしないか心配だったんだ。私たちは形だけの夫婦になるわけだから」
「それこそあなたが気にする必要なんてないわ」
「そうか、ありがとう。それなら、時期を見て婚姻届けを出すよ」
「ええ、ありがとう」
「こちらこそ」
爵位が継げないというのがクライルのうそだということはわかっている。少しでもローデリアの心の負担を軽くしたいと思うクライルの優しさだ。ローデリアもそれをわかっているから何も言わない。
少しして二人は形だけの夫婦になった。呼び名が変わっても、これから先も大切な友達であることが変わることはない。
しかし、ローデリアの症状は日に日に悪くなっていった。
ケイトが体を支えてくれてようやく起こすことができる弱い体を叱咤して、ローデリアは今日も一人寝返りを打とうとベッドの中でモゾモゾしている。
すると外が何やら騒がしいことに気がついた。言い合いでもしているかのような、一方的に叫んでいるかのような男性の声。
「窓が閉まっているからはっきり聞こえないわ」
しばらくすると外は静かになり、少しするとドアをノックする音がしてケイトが入ってきた。
「奥様、お目覚めでしたか」
「ええ、ちょっと寝坊してしまったわね」
「すぐにお湯を用意いたします」
ローデリアが用意されたお湯で顔を洗いすっきりしたところで、ケイトが食事を運んできてくれた。
「今日もとてもおいしそうね」
「奥様が喜んでくださるのでシェフも張りきっております」
「ありがとうって伝えておいてくれる?」
「かしこまりました。きっとシェフも喜びます」
わずかに形を残したカボチャのスープは、甘みと塩味のバランスが良く、じんわりと体に染みこむようだ。
「そういえば外が騒がしかったけど」
「ここまで聞こえていましたか」
「何を言っているのかは聞こえなかったけど」
「そうですか。奥様の耳にお入れするようなことではありませんので、お気になさらないでください」
ケイトが嫌そうに言うところを見ると、気分の悪いことだったのだろうと推察できる。ローデリアには知らせたくない、そういう思いが見てとれるからローデリアもこれ以上は聞かない。何もできずにただベッドに寝ているだけの自分に引け目があるというのもあるが。
「あ、いえ、決して奥様に知る権利がないとかそういうことではないんですが」
ローデリアのわずかに曇った顔を見て、ケイトが慌てて言葉を足した。
「わかっているわ。心配しないで」
「申し訳ございません。私の口からは申しあげられませんが、旦那様ならお話ししてくださると思います」
「そう。ならクライルに聞いてみるわ」
そう言って、残ったスープを飲みほした。
クライルがローデリアの部屋にやってきたのはその日の夕方。ベッドの横に置かれた椅子に座り、ローデリアの顔をのぞき込む。
「ケイトから聞いたんだけど」
「朝の話かしら?」
「君も知っておくべきかと思って」
「話してくれるの?」
「うん」
クライルは体を起こそうとするローデリアの背中を支え、ゆっくりと上半身をヘッドボード前の大量に並べた枕に凭れかからせた。
「ありがとう」
クライルは椅子に座りニコリと微笑む。
「実は、今朝外で騒いでいたのは、君の弟君のクレムソン侯爵なんだ」
「え?」
ローデリアは予想外の名前が出て驚いた。
「あの子が? なぜ?」
「数日前にはウィンズボロ侯爵も来たよ」
「ノーランも?」
一体何が起こっているのかローデリアにはわからないが、クライルに迷惑をかけていることだけはわかる。
「ごめんなさい」
「謝ることなんてないよ」
「私のせいであなたに迷惑をかけてしまって」
「リア、気にしないで。全部私が仕掛けていることだから」
「あなたが……?」
「黙っていてごめんね。実は私たちの『真実の愛』が実を結んだんだ」
「何? 『真実の愛』?」
クライルが衰弱したローデリアを抱えて馬車に乗りこんだときから、既に始まっていた真実の愛の物語。
その日クライルが一人の女性を抱えて屋敷に戻ったことは、その場にいた人たちのあいだで密かな話題となっていた。見目麗しく実業家として成功しているのに、いまだに結婚をしていない伯爵家の令息クライルが抱える女性は誰なのか?
密かに噂されていた話が大きな話題になったのは、クライルが結婚をしたと知れわたってからだ。
お相手は、クライルが学生時代から密かに思いを寄せていたローデリア。既に婚約者がいた彼女に思いを告げることもできないまま、卒業をして離れ離れになった二人。ローデリアへの思いを断ちきれないクライルは、婚約者もいないまま仕事に没頭した。
それから十年。ウィンズボロ侯爵はローデリアを虐げ、子どもも産めず病気を患っていることを理由に離縁した。ローデリアの実家であるクレムソン侯爵家からも見はなされたローデリアを救いだしたクライルは、全てを捧げてローデリアに尽くした。
そして、晴れてクライルはローデリアを妻に迎えいれることができた。
決して結ばれるはずがなかった二人が、数多の障害を乗りこえて再びめぐり逢い、『真実の愛』を手に入れたのだ。
「それは、すごく、ロマンティックね」
あまりに現実とかけ離れた物語に、ローデリアの口は開きっぱなしだ。
「噂があっという間に広まってね、君はすっかりヒロインだ」
「あなたが流したの?」
「そう」
「ということは、その話を聞きつけた弟とノーランが文句を言いに来たのね」
「文句と言うより、君を引きとりにね」
「私を?」
世間は美談は褒めたたえるが、そこに付随する醜聞には厳しい。
両侯爵家がローデリアに対して冷たい対応をしていたことは、貴族のあいだでも知られていたし、クライルと結婚したのなら、昔婚約を嫌がっていたローデリアの気持ちもわからなくもない。二人は実は思いあっていたのだから。
ウィンズボロ侯爵家は十年間虐げた上に病気を得たと知るや否や、離縁をしてローデリアを追いだした。わずかな財産も渡さずに。
実家であるクレムソン侯爵家は、病気を患っていたローデリアに、手を差しのべることもなく門前払いをした。
世間が両家を叩くのに十分な話題を提供したクライルは、静かに事の顛末を見まもるだけでよかった。
世の女性は美しく儚い悲恋がお好みだ。この素敵な物語に心をときめかせ、夫に両侯爵家との関係にネチネチと嫌味を言えば、手懐けられた夫が妻の言うことを聞かないわけにはいかない。
繋がっていた両侯爵家との糸を、少しずつ切りはじめる貴族たちの異変に気がついたときには既に遅い。慌てて、伯爵家まで来てローデリアを返せと喚きたてたが、二人は既に結婚をしていて、侯爵家に返す理由がない。
散々騒いで追いだされたクレムソン侯爵のクライルに対する罵声。それは、クレムソン侯爵家がかなり切迫していることを意味し、クライルは大いに満足した。ただ、ローデリアが自分のしたことを、許してくれるかが心配ではあるが。
「君を見すてた侯爵家が世間に叩かれ、評判を落としてね。そんな彼らと繋がりを持って、巻き添えを食うのは嫌だろう? 多くの貴族が彼らから離れていったから、君を引きとって信頼を回復しようとしているんだ」
「そうだったの」
自分が寝ているあいだにずいぶんと様子が変わったようだ。
「少しはすっきりした?」
「うーん、そうね。私は、何も見ていないし聞いていないからかもしれないけど、あの家と関わらないで済むなら、もうどうでもいいというのが本音よ」
「そうか」
「いろいろとありがとう」
「うん」
両侯爵家がどうなろうとローデリアには関心もない。ただ、妻と言う名の友人の為に、クライルが尽くしてくれたことが心の底から嬉しい。
「ねぇ、クライル」
「何?」
「もし私の病気が治って元気になったら、私と離縁して」
「え?」
「私ね、どこか遠くに行きたいの」
「一人で?」
「そう、一人で。平民になって、仕事をして一人で生きてみたいの」
「仕事なんて君がするのかい?」
「するわ。食堂で働いてもいいし、教師もいいわ。修道院に入ってもいいけど、それじゃ旅行には行けないわよね」
「旅行がしたいの?」
「ええ。実は私この国から出たことがないの。ねぇ、クライルは何か国くらい行ったことがあるの?」
「そうだなぁ、私は三か国だな」
「すごいわね。私も行ってみたいわ」
「それなら離縁なんてしなくても私と一緒に行けばいい」
「ダメよ。私は自由に生きたいの。自分の力で」
「そうか。それなら私が全力でリアを支援しよう」
「だから、自分の力でってば」
「ああ。だから、リアが自分の力で生きられるように全力で支援するよ」
「もう!」
「はははは」
それから一か月程穏やかな時間を過ごし、ローデリアは息を引きとった。
大きな旅客船に乗って水平線を見つめるクライルの手にはローデリアの肖像画。
クライルは仕事で外国に行くとき、常に小さなローデリアの肖像画を持ちあるいている。彼女が生涯見ることができなかった世界がここには広がっているのだ。
「この景色が、君の見たかったものだといいけどな」
医師に、わずかな負担で病状がどう変化してしまうかわからないと言われ、ローデリアを庭に連れだしてあげることさえできなかった。それが今でも後悔として残っている。
「こんなにみすぼらしくなってしまって、恥ずかしいわ」
美しかった過去の面影を失くしてしまったローデリアは、少し寂しそうに自分の頬を触って微笑んでいた。
「でもね、私はベッドで穏やかな笑みを浮かべていた君のほうが、若いころの君よりずっと美しいと思うよ」
最期のときまでローデリアは優しい笑みを浮かべていた。
――ありがとう。あなたのおかげで素敵な人生だったわ。……ありがとう――
最後まで読んでくださりありがとうございます。