1-1 アクアリウム
五月の土曜日の朝、どこかで聴いたようなアラーム音が枕元のスマートフォンからしつこいくらいに鳴り響いた。
あぁ、またこの音だ。
この音を聴いたときの憂鬱さと言ったら他に追随を許すものがないほどだ。
毎日毎日この音がした後、同じ格好をして、同じ場所へ行って、同じ顔の人たちと一緒に嫌々何時間も何らかの作業をしなければならない。
ベルの音がしたらウキウキで餌入れの前まで駆けつける犬と同じだと思った・・・気分が最悪なこと以外は。
そんなことを考えながら乱暴に車のドアを閉めてキーを回した。
「世間様はGWか」
いつもの朝と違い、明らかに交通量の少ない出勤経路を会社へと向かいながら運転席で独りごちた。
この世間様というのには弊社の大多数の人間も含まれていた。
なぜかというと、僕は世間的に言うところの工場勤務者で、従業員の多くは、加工したり、組み立てたり、検査したりといった製造に係る業務をしているわけだ。
つまりGWのような長期連休ともなれば製造ラインを止めて数日の間ラインは稼働しない状態になり、そこで働く人間は当然、休暇に入ることになる。
一方、僕はその大多数ではなく、電気系保全を生業とする部門に所属していた。
有り体に言ってしまえば製造ラインのメンテナンスをする人間である。
思い切った修繕や改造や更新のようなメンテナンスは製造ラインが稼働しているうちは出来ないだろう。
そこへ長期連休がやってくると、僕たちはチャンスだとばかりに喜び勇んで仕事に取り掛かるのだ。
いや、違う。取り掛かるよう指示を受ける、だったか。
さて、今日の仕事はなかなかに手ごわい。
電力会社の息のかかった業者と協力して33000ボルトの高圧変圧器を新しいものに換えなくてはならなかった。
こういった滅茶苦茶に高い電圧を持つ設備には何をするのにも作業前に確認作業を怠らぬように気をつけねば死亡災害に直結してしまう。
「吉村君、作業前のチェックシートを持ってきてくれ。」
4月に入社した一回りは年下の男の子に僕はそう命じた。
気持ちのよい返事をして彼はコンクリート張りの部屋から飛び出して行った。
教育係である僕の後ろをいつも付いてくる彼は、物分かりがいいわけではないが、カラッとした性格で快活を絵にかいたような男の子だった。
僕にもよく懐いているように思えたし、実際僕も彼のことが気に入っていた。
すぐに戻ってきた彼は、僕が昨日用意しておいたバインダーを僕に向かって差し出した。
「塩田さん!これであってますか!」
「うん、ありがとう。」
僕たちは早速、作業前点検を進めていった。
目視で点検を続けながらチェックシートに〇をつけていると、吉村の視線が天井の方を向いたまま動かなくなった。
「塩田さん・・・あれ・・・」
吉村は眉間にしわを寄せた顔をこちらに向けながら天井を指さした。
ヘビだ。
種類はわからないが、体長2m弱ほどの蛇が天井付近にある33000ボルトが印加されている絶縁被覆のない銅製のケーブルの近くを這っている。
この建物に僕たちが入ったときに一緒に入ってしまったのか、それとも冬ごもりの根城にしていたこの場所に不躾にも僕たちが立ち入り目覚めてしまったのか。
ヘビに表情筋があるのかは知らないが、今朝目覚めた時の自分を思い出すとどことなく不機嫌そうにも見えてくる。
違う。
今考えることはそんなことじゃない。
まだ電力会社からの給電はストップさせていない。
つまり、あのヘビがケーブル同士の間を渡ろうとしてしまうと、短絡が起こって大きな事故になることが予想されるということを最も憂慮すべきなのは明らかだった。
余談だが、人体が33000ボルトもの電圧に曝されるとどうなるかというと、電流の通り道にぽっかり穴が開いて死に至り、奇跡的に生き延びても、四肢のいくつかは壊死してしまい、切断するはめになるだろう。
とっさに僕はこう叫んだ。
「吉村くん!今すぐ主任を呼んできてくれ!」
彼は大きく目を見開いて頷くと、再び建屋を飛び出して行った。
しかし、後から考え直すと、この時なぜ僕はその場に残ったのかと問われた場合の答えが用意できない。
そのヘビを見張り続けても何もできることはないし、こんなに近くで短絡事故が起きてしまっては僕の生命はひとたまりもない。
僕のとるべき行動は可愛い後輩の手を引いて、一目散にこの現場から脱出することだった。
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本日二度目の目覚めだった。
なぜ眠っていたのか思い出せない。
それにしてもこの場所は何なんだろう。
どこまでも広いようにも感じるし、電話ボックスのように狭くも感じる。
というか、あまりにも暗すぎる。
街灯がない夜道や、自分の部屋の布団の中など比にならないくらいの暗さ、というより黒さ。
目を閉じていても開いていても目の前の黒に濃淡の変化がない。
モノが全く見えないからなのか、空間を認識することが出来ない。
驚くべきことに、それに加えて音すらも全くない。
普通どんなに静かな場所であろうと「無音の音」と表現するのが適切かはわからないが、多少の空気の揺らぎや流れが外耳に触れる音が聴こえたりするものだろう。
外側からの光と音を完全に遮断できる空間などそうそうあるものだろうか?
もしかすると僕は、盲目のろう者になってしまって、ここは病院のベッドの上ではないのかと現実に起こりうる事象を想像してはみたが、どうもそれも事実とは違うようだった。
「・・・あ」
僕は驚きの余り息をするのを忘れていたらしかった。
嘆息による空気が鼻から抜ける音を耳がはっきりととらえたことで耳は聞こえるのだとわかった。
「なんなんだよこれ・・・」
そうつぶやいた瞬間、目の前に青白く仄光る球体が現れて僕の身体の前面を照らし出した。
「うわっ!!」
叫び声をあげてとっさに手の甲で打ち払うと、その光球はまるで蛍の群れのように霧散し、それまでよりも少し離れた場所で再び球の体を為しはじめた。
『『シオタ ケイ』』
頭上から降り注ぐような声が響いた。
そして僕は理解した、自分が死んでしまったことを。
今頭上で響いた声は聴き覚えがあった。
まぎれもなく僕の父の声だった。
しかし、ここが現実のうちだということはどうしても否定せざるを得ない理由を僕は持ち合わせている。父さんは数年前に心不全で若くして亡くなっているからだ。
あの世とはこんなに何もない場所なのか。
「父さん・・・?」
僕が光に向かって呼びかけてみると、意外な言葉が返ってきた。
『『ナハハ!私は君の父ではない。君の記憶から、君が親しみを持ちやすい人物の音声を借りて呼びかけているに過ぎない。』』
笑い方まで父さんそのままだけれど、確かに父さんとは違う人物のようだということは十分に理解できた。
「あなたは何者?」
『『君たちから見て私がどんな存在なのかは定義しづらいが、逆は簡単に説明することが出来る。』』
「逆・・・?」
『『君たちの世界にあるものでわかりやすく私と君の関係を例えるなら、人間と水槽の中の熱帯魚といったところかな。』』
「熱帯魚って・・・じゃあ僕らの生活する様を見て楽しんでるとか、そういうこと?」
『『それは否定しないが要点はそこではない。君たちは熱帯魚を飼おうとする時に、まずなにをする?』』
「そりゃあまず水槽を用意して、エアーポンプとか水草とかを・・・」
全部言いかけて、僕はぞっとするような馬鹿げた想像を膨らませた。
光球は僕の顔色から察したようにこう言った。
『『君の想像で間違いないよ。君たちは私の作った箱庭で泳いでいたんだ。』』
この謎の光が言うことが正しいのかは依然としてわからない。
でもこの不可解な空間や、今は亡き父親の声帯を借りて喋る光球などは到底現実とは思えないものだということが、逆説的にその信憑性を示唆していた。
「じゃああなたが地球を作ったってことなんですか?」
相対しているものが高次の存在と分かったからか、無意識に敬語で話してしまう。
『『うーん、それも間違いではないよ。君たちの星は私が作った。でもね、君たちの世界に熱帯魚が泳いでいる水槽はたった一つだったかい?』』
僕は絶句した。
身の毛もよだつとはこんな状態のことを言うのだろう。
つまりこの光の球は、私が作った箱庭はなにも地球という水槽だけじゃないと言いたいのだろう。
『『ここには君が生活していた世界とは別の並行世界が無限に存在する。その無数の箱庭の主が私ということさ。』』
そして、想像をたやすく超えてきていた。
僕たちが住んでいる宇宙を作った創造主のような存在かと思えば、それよりもはるかに高次の存在だったわけだが、あまり驚きはなかった。
目の前にとてつもなく巨大な物体があったとしても、視認できる範囲までしかその巨大さを認識できないことと似ていた。
僕はここへ来てからずっと気になっていることを彼に訊ねてみた。
「僕は死んでしまったんですか?」
すると彼は落ち着き払った声色で、僕の辿った道程を話し始めた。
高電圧の短絡事故のエネルギーで偶然発生したワームホールに吸い込まれたこと、別の世界線へ漂流していく僕を見つけ、この場所に連れてきたこと、そして幸運なことに僕はまだ死んでしまったわけではないこと。
そして、僕に与えられる二つの選択肢を。
『君には二つの道を用意している。一つは、君が元々いた世界にもう一度赤子として生まれること。今の記憶は全て無くなってしまうけれど、君はまた普段と変わらない生活を送ることが出来るだろう。』
「もうひとつはどんなものなんですか?」
僕は間髪を入れず訊きかえした。
もう一度すべて忘れて赤ん坊からやり直すなどは、正直に言って御免だったからだ。
記憶をなくして生まれ変わるということは、今僕を構成している肉体も精神も何ひとつ元居た世界へは持ち帰ることが出来ないわけで「あなたは死んでしまいます」と言われたようなものではないか。
僕の記憶と、僕の肉体を持たない赤ん坊は毎秒生まれてきているはずなのだから。
『『もうひとつは、別の箱庭へ行くことだ。』』
「別の箱庭?別の星に行くってことですか?」
『『そういう解釈で構わない。別の世界線の別の星に君は今の記憶と姿を保って移動する。君たちと同じ種族が暮らす別の世界さ。』』
僕はあきらめたように言った。
「後者にします。」
この全知全能者が僕にさせたいことは理解できた。
従属か。さもなくば死か。僕はこの二択をこんな風に受け取った。
でも引っかかるのは、なぜ別の世界なのだろう。
このまま僕を別の世界へ運ぶことが出来るのなら、この肉体と精神のまま僕が元々いた世界に帰してくれればいいじゃないか。僕は思うままに訊ねてみた。
「なぜ別の世界なんかにわざわざ僕を飛ばすんですか?」
『『君はミナミヌマエビさ。』』
全く意味が分からない。
しかし全能者の話はそこで終わらなかった。
光の球は目を開けていられないほどまばゆい光を放ち、黒で塗りつぶされていたはずの空間を白で塗りつぶさんばかりだった。
『『さて、行き先も決まったことだし、おしゃべりはおしまいにしよう。君には《エナ》を与えてあげよう。《エナ》は私がもつ創造の力。君にわかりやすく言うと魔力のようなものかな。これから行く世界はこの《エナ》を扱う人間たちが住む世界。君はそこで秩序の楔になるのさ。』』
何を言っているのか本当に理解できなかった。
暗闇に慣れようと必死だった僕の瞳孔は、その努力を裏切られ、僕ができることと言えば腕を顔の前にかざして必死に耐えるのみだった。
『『気を付けて行けよ』』
父が生前、僕が家を出る時によく言っていたセリフと声帯を借りて全能者は僕を送り出した。
僕はあの途方もない暗闇から脱出することに成功した。
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『『あ、そうそう、ちょっとだけオマケしておいたよ。』』




