8.ブラコンな婚約者様と、嫉妬され続ける私
「今度観劇を見に行きましょう。とても素晴らしい出来なのだとか。新作ですって」
私はそう言って婚約者様の出方をうかがった。
もはや大体予測はついてしまうのだけれども、今回もそうかしら。
「そんなに素晴らしい出来の脚本ですか、それはぜひ兄上も一緒に」
あららやっぱり今回もこのパターンなのね。
私は心の中で苦笑いをしながら、表面上はくすりとほほ笑む。
「お兄様も、観劇がお好きでしたものね」
「病気がちな方だから。滅多に外出なんてできないし、それに狐狩りにだって行けない方だからこういう娯楽がとても好きなんだ」
「それは知っているけれど、お兄様がお好きな傾向の観劇かしら。恋愛ものなのよ」
「恋愛もの!」
そこで婚約者様の顔が輝いた。何かしくじったかしらと思えば、彼はこう告げてくる。
「兄上が一番好きな傾向の脚本だ!」
婚約者様との記憶は、さかのぼればいつも、お兄様の影がある。
というよりも、小さい頃になればなるほど、お兄様の姿にぴったりと張り付く婚約者様だと思い出せる。
十歳くらいは年上の長男のお兄様と、六男坊の婚約者様。
その間の生まれてきた子供たちは、皆はやり病で一気に死神にとられてしまっていたから、長男のお兄様はことのほか婚約者様を大事にしていたらしい。
大事な弟たちが次々と先立つのを、見てきたというお兄様は、六番目の婚約者様くらいは守ろうと、医学の道を志し、薬草学の主席になり、そして自分を実験台にした結果体を壊してしまったのだ。
そのため遠い記憶の中のお兄様は行動的なのに、私が大きくなっていくごとにお兄様の顔色は青ざめ、そして今では部屋の中にいるばかりになってしまっている。
そんな方だけれども、病気がちだという割にははやり病にはかからないのだし、病にかかりやすい人と体を壊した人は、何かが違うのかもしれない。
婚約者様はお兄様の後を追いかけてばかりの幼少期で、私もそれによく付き合っていた。
あにうえ、あにうえと慕っている婚約者様はまっすぐで、私もその婚約者様がお兄様を慕う理由が良く分かっていたから、大して気にも留めていなかった。
この前までは……
たとえば。
遠くに行く事がある。そういう時に婚約者様はいつも、お兄様に手紙を書く。
「遠くに行けない兄上だから。兄上は大昔は、外に出るのがとても好きな方だったんだ」
言いながら一番いい紙を使って、一番いいインクで文字をしたためる婚約者様。
近くに遊びに出かける事がある。そういう時の婚約者様はもっと顕著で、
「兄上も一緒でいいだろうか? 兄上は最近は出不精のように近くにもいかないから」
きらきらとした顔で、兄上が、兄上と、という婚約者様を、私はとてもかわいいと思っている。
私にも覚えがある物だからだ。私も実は末っ子のような物で、親戚の中では二番目に年下だからそれはもう、眼に入れてもいたくないほど従兄弟たちに可愛がられて育ってきた。
そんな私も、あまり外に出たがらない従姉さまの好きな催し物があったりする時は、やっぱり従姉さまも一緒でいいだろうか、と聞いてしまう。
だからお相子なのだと、私たちは思ってきたはずだったのだけれども。
「そんなのおかしいわ」
と夜会で親しくなった公爵家の令嬢が言ったのだ。
「普通、お兄様をそんなに優先したりはしないわ。あなたは愛されていないのよ!」
彼女は婚約者様と仲が悪く、この場合この婚約者様は王子様なのだが……彼が女遊びに浮ついているから、もしかしたら八つ当たりなのかもしれなかった。
「いつものことだもの、お相子だわ」
「お相子ってそんな物の言い方はおかしくってよ! あなたは何でもかんでもお兄様優先で許せるの? そんなだったら、自分の子供よりもお兄様の子供を優先されてしまうわよ!」
「そうかしら……?」
考えた事もない指摘だったせいで、私もずいぶんと考えてしまった。もしもこのまま婚約者様が、お兄様ばかりを優先して、家庭を顧みなかったらどうなるのだろうかと。
そんな事はありえないと思うのに、私のどこかがそれはありうるのではないかと囁いてくる。
まるで悪魔のささやきのように、私の心の中にいつまでも残ってしまう言葉たちだ。
それでも私は、いつも通りにお兄様の同伴などを許してしまう。同じ家柄の対等な婚約者だから、どちらも言いたい事を言えるくらいに遠慮はないのだけれども、やっぱりお兄様にも素敵な物を、楽しい物を、と言っている婚約者様がどこかで、可愛いからだった。
「素敵な脚本だったねえ」
丸いポチャッとした体の、お兄様がにこにことしながら私に話しかけてくる。
お兄様は温厚なお人で、めったに怒ったりしないし、声を荒げる事もない。
いつものんびりののほほほんとした調子で、誰にでも接しているこの人が、実はとてもキレ物なのだと知っている人間はそうそういない。
婚約者様の家の、最強のカードと父は言っている。あの見た目と言葉遣いに騙されて、悪事を見抜かれて失脚した政敵は数知れないのだとか。
「女の子が可愛い考え方でとても素敵だった。男の子がまた情熱的だったから、女の子と結ばれた時は思わず叫びそうになっちゃったよ」
くすくすと笑っているふくよかなお顔のお兄様が、それから欠伸をしかねない弟を見やっている。
「ん、眠たいの? それならお先におかえり。まだまだ今回のお話の話を、君の婚約者と語りあいたいなあ」
「いいえ。それはなりません。未婚の男女が二人きりなんて。いくら兄上でもだめです」
「そうだったね。じゃあ、我が妹君を君は送って差し上げなくちゃ。外は暗いよ。馬車を使っても変な奴は出て来るのだから」
「兄上がどこかで体の調子を悪くしたらどうするのです!」
「そうだねえ、その時はその時だと思うのだけれども」
「兄上!」
いつものやり取りで、私は彼らを見やってから小間使いにこういうのだ。
「馬車の支度をしてちょうだい、この言い合いはあと三十分は続くからその間に帰りましょう」
「はい、姫様」
長年仕えている小間使いの彼女も慣れたもの。
さっさと帰るための馬車を用意してくれるので、私は彼らを放っておいてさっさと帰宅をする。
「姫様はさっぱりとした方ですよね」
「どうしてかしら?」
「婚約者様がご自身をないがしろにしても、全然気にしていないようですので」
「可愛らしいじゃない。お兄様がいつまでたっても大好きなのよ。小さい頃からずっと後をくっついてカルガモのように歩いていたのだもの」
私は今でも思い出せる。お兄様の後を追いかけてくっついて、時にその薬草の匂いがこびりついた服の裾を掴み、歩く婚約者様を。
それを見かねて、お兄様がひょいと抱えて肩車をして、屋敷の中だったり庭園の中だったりを歩くのを。
私はその時いつでも、お兄様の片手を独占して、歩いたものだ。
お兄様はわたしたち二人のお兄様のような感覚の私は、お兄様優先の彼の事を、たいして辛いとも思わない。
世間様がそれをおかしいのだと言ったとしたって。
それでも、最近は少し不安になったりもするのだ。
「お兄様が秘密裏に、私に会いたいというの?」
「ああ。あちらの長男が何か気にかかる事があるそうだ。小間使いと数人の影の物を側に控えさせるから、行ってやりなさい」
「はい、お父様」
お兄様が婚約者様を飛び越えて、私だけに会いたがるなんて変な話だけれども、お兄様のお願いだもの、変なことはないはずだ。
そう思って私は、彼の家の、同じ町にある洗濯用のロッジに向かった。
綺麗な水を求める洗濯メイドたちがよくいるそこは、彼女たちの宿泊施設も兼ね備えているのだ。
そのためか、色々と清潔で整っていた。私みたいな身分の女が行くところではないから物珍しい、と思ったけれど、そこの小さなお庭でお兄様が待っていた。
「お兄様、体の調子は大丈夫なのかしら」
「今日は具合がいいんだよ。ここ数日は気候が温かいから、昔痛めた骨も傷まない」
にこりと笑うお兄様が、私の分のお茶を注いでこう言った。
「悩みがあるみたいだね、聞くよ」
「……お兄様には何でもお見通しなのですね」
「お兄ちゃんは千里眼だからね」
微笑んでいるお兄様に、私は弱音を吐いてしまう。
「あの方が、あまりにもお兄様を優先しているから、もし家族よりも、お兄様の家族を優先したらどうしようと……」
「君は優先されなくていいの?」
「……え?」
「君の言い方だと、まるで自分は優先されなくてもいいから、いつかできるだろう子供をないがしろにされたくないと聞こえるよ」
私は数秒黙った。私が考えた事のない事だったから。
私は婚約者様にどうしてほしいのだろう。
考えた後に出てきたのは、とても簡単な言葉だった。
「たまにでいいから……私を一番にしてほしいの」
くすくすと、お兄様が笑った。
それなら簡単なことだよね、と言いたげに。
「簡単な事ばっかりだ。たまに一番にしてほしいのなら。お兄ちゃんの知恵を貸してあげよう」
優しいお兄様が微笑む。
「まずは、君の異性の従兄たちを、たくさんあのこの前で褒めてごらん。それから、君には言い寄る男たちがたくさんいるから、彼らの素敵な所をあのこの前で言ってごらん。時間はかかるかもしれないけれども、あのこは君をたまには一番にするよ」
「そうなのですか?」
「この切れ者のお兄ちゃんを信じてちょうだいよ。甥っ子か姪っ子がとっても楽しみなんだから」
お兄様の言葉は私を思うそれで、私はそれを信じた。
「従兄様は背が高くて紳士的で素敵」
「三番目の従兄様は、この前は私にお花をくださったの。とても素敵な香りのお花だったわ。私の好きな香りをわかってくださっていてうれしいの」
「まあ、五番目の従兄様がいらっしゃるの? 涼し気な目元で笑って下さるから、私もなんだか悲しくても笑いたくなってしまうの」
まずは従兄たちを褒めるところから始まった。
誰もが申し分ない従兄たちなので、褒めるところには困らない。
婚約者様は、最初は平気そうだったのになんだか、最近はふてくされた顔もするようになってしまっていた。
その事を手紙で報告すると、お兄様があと少し、そろそろ他所の男性も褒めてみるといいよ、何て言い始めた。
確かに最近は、婚約者様も出かけたりしないで、私の所にいるようになったから効果は少しずつ現れてきているのかもしれない。
第一段階が終わった、と私はお兄様の助言通りに、
「公爵家のステファン様がダンスに誘ってくださったの。素敵なステップだったわ」
「男爵家のオーレリー様の香水は何かしら、とても素敵な香りだから、ぜひ業者をうかがわなくては」
「伯爵家のヴァニエル様はこの前、私が困っているときに手を貸してくださったの。とても男らしい頼りになる方だったわ」
と、接触する男性たちを次々と褒めてみた。
うちの父は、お兄様から事情を聞いているらしく、私の事を放置している。
それに、単純に素晴らしい部分を褒めているだけなので、そこまでゴシップにもならないように、私も微調整をしているのだ。
婚約者様はだんだんと機嫌が悪くなり、
「彼らの話は聞きたくない」
とこぼすようになってきている。私の事を見てくれているようでちょっとうれしい。
それでもまだまだ、とお兄様が言った直ぐ後の事。
「君からほかの男の話を聞くのは耐えられない! 君はもしかして、僕が兄上の事を優先してばかりの時、こんな気持ちだったのかい?」
何て驚く事を言った。効果てきめん、さすがお兄様と感心しながら、私はこう答えた。
「いつもお兄様ばかりだから。嫌ではないのだけれど」
「……ごめん」
彼は大貴族の子供として、滅多に下げない頭を下げて謝罪してきた。
「君にこんな不愉快な思いを常にさせてきたなんて。思ってもみなかった。……君が嫌じゃないのなら、今度から兄上も一緒なのは、たまに、にする事にするように努力する」
だから他所の男の事なんてほめないでほしい、彼等を上回る男になるから。
そう壮大な決意をしてくださった婚約者様は、確かにお兄様も同伴する頻度を減らしてくれた。
でも、私もいつもお兄様も一緒だったから。
「たまにはお兄様も一緒がいいわ」
なんて、私の隣を歩いて、私が離れないように腰を抱いている婚約者様におねだりをしたりする。
「自覚のない恋人を振り向かせるには、嫉妬させるのが一番いいんだよね。近くにある素晴らしいものほど、人間気付かない物だから」
結婚式の二次会で、お兄様が楽しそうにそう言ったあたりで婚約者様にも、私とお兄様の意地悪が知られて、婚約者様はぶうぶうと文句を言ったけれど、それからも私たちは仲のいい家族で兄妹である。
そしてお兄様は、生まれるであろう姪っ子か甥っ子のために、レース編みをしているそうだ。
気の早いお方だけれども、私も婚約者様もしょうがないなあと微笑ましく思っている。
私はとても幸せだ。