7.妹に恋する婚約者様と、金持ちの家の年増のわたし
「なんであなたなんだ!」
ぼろりと涙をこぼした少年を、わたしは今でも覚えている。
その時わたしは十代前半で、彼はまだ十代にもなっていなかった。
けれどもこの婚約は、わたしとこの年下の少年なのだ。
何という皮肉だろう、と内心で父の事を罵倒していれば、この顔合わせのお茶会に可愛らしい闖入者が現れた。
「お姉様、遊んでほしいの、……あ、おじゃまでしたか……」
扉を開けて入ってきたのは、目に入れてもいたくない位可愛い、我が家の天使だった。
話を折るためにはちょうどいいし、少年に紹介してもいいだろう、とわたしは彼を見やり、自分の妹を彼の前に押しやった。
「ねえさまの婚約者様よ、ご挨拶してちょうだい」
「はい!」
妹はきらきらとする笑顔で少年を見やり、にこっと笑ってから、覚えたてのつたない挨拶をしてこう言った。
「初めまして、お姉様の婚約者の方ですね、わたしはリリアンヌと申します、仲良くしてください」
子供の挨拶としては上出来な部類の挨拶だった。
わたしの時はもっとスパルタだったな、と遠い昔を思い出しながら、わたしは婚約者様を見やった。
そしてその瞳の中に、間違いなく妹が映っている事実に苦笑いをしそうになるも、父の前なのでこらえた。
間違いなく、今この場所で、婚約者様は妹に恋に落ちていた。
始まりは、婚約者様の家が事業に失敗し、多額の借金を抱えてしまった事だった。
そこで、もともとこの婚約者様の父君と仲の良かった母、幼馴染だった母が、援助を申し出たのだ。
幸いというべきか、我が家はこの程度の借金など痛くもかゆくもない名家で大富豪だったので。
婚約者様の家は、一家で首をくくるかどうか、という瀬戸際だった事もあり、この申し出を受け入れた。
ただこれで美談にならなかったのは、父が介入した結果だ。
父は母と向こう様の当主のあいだに、ただれた関係があると邪推し、ただの援助ではない事を、申し出たのだ。
それがとどのつまり、自分の長女と向こうの家の長男を婚約させる事であった。
……父よ、これではわたしは完璧に行き遅れる、と内心で思ったわたしは悪くない。
何と相手は、わたしよりも八歳は年下で、乙女の八年は決定的な結婚適齢期を逃す事だったからだ。
彼が大人になり、婚約破棄を言い出せるくらいの頭脳を手に入れてしまったら、残されたわたしは二十代後半になってしまう。
この国で二十代後半ともなれば、行き遅れの婆と認識されてしまうのだ。
とても短い結婚適齢期なのだが、子供を産むためには仕方がないのだ。
この大陸の医療はそこまで発展しておらず、そして女性が出産のときに亡くなる割合はとても高い。五人に一人は死んでいる割合なのだ。
そして、その割合は、高齢であるほどに高まってしまっている。体力が減るからだ、というのがお医者様方の見解だ。
そんな中に二十代後半……となったらもう、眼も当てられない現実である。
父よ、なぜ年の近い妹ではなく、歳の離れたわたしにしたのだ、と首を揺さぶって問いかけたくとも、忙しい父にそれをするのは野暮というものだ。
母に至っては、あなたはしっかりしていていいわ、などとからからと笑っていたりする。
親たちは、わたしたちが仲良く、仲睦まじく夫婦になると思っていたらしい。
だがしかし、事はそう簡単にはすまない。
「お義兄さま」
「リリアンヌ」
わたしの婚約者様は、歳の近い、かわいらしくてきれいで、天使の様だと言われている我が妹に、心を奪われたっきり帰ってこないのだから。
お義兄さま、と妹が呼ぶのは、自分の義兄になると信じ切っているからだが。婚約者様の目の中に、幼い頃から燃え上がっている恋心は妹を逃しはしないだろう。
そして無駄になるほど知識を蓄えており、これからの将来が楽しみだとも言われている婚約者様は、とうとう今年で十六、そろそろ結婚の支度をする年齢になりつつある。
十四歳の妹も、そろそろ社交界デビューだ。
両親はわたしの時よりも、はるかに時間をかけて作法だのなんだのを、妹に叩き込んでいる。
ふわふわとした性格の妹だが、それに泣きながらも付いて行っているので、頑張っているのだろう。間違いなく。
ドレスに至っては、最近は新たな事業に成功した婚約者様の家が、お礼に送ると言ってきかないらしい。
それよりもわたしに送れ、世間的な目があるのだ、と思いながらたしなめれば。
「あなたは美しい色のドレスを、送っても来てくれないから」
と言われた。解せぬと思うのだが、この黒髪に黒い目ではコーラルピンクは似合わないのだ。
そんな、金髪碧眼の妹にふさわしい色のドレスを着た暁には、年増の若作りと嘲笑されるのだと気付いてくれないあたり、困ってしまう。
「お姉様、お義兄さまからのお手紙です!」
今日も妹が、婚約者様から送られてきた、ぶっちゃけ求愛の手紙をもって、わたしのもとに訪れる。
妹に悪気はないのだし、わたし相手には仕事の話しかしない婚約者様なのだ。
こういう甘ったるい愛の言葉のようなものを、送る相手ではないと認識されていても、わたしは構わない。
どうせこの婚約は終わりが見えているのだ。
最初から見えていたのだから仕方がない。
妹と出会わせたあたりで見えきっていた事で、最近になって父は妹と婚約し直すかと向こうの父と話し合っているそうだ。
なら最初から妹にしておけ、馬鹿やろう、こっちはもう大年増だと呪いたい。
「お姉様、今度のデビュタントパーティには出席してくださるの?」
「ええ、あなたの晴れ姿を見たいもの」
妹可愛い、可愛すぎて目に入れてもいたくない。
この子はふわふわとしているが、自分のやるべき事はきっかり理解しているのだ。
この子は家を継がない。どこかの家とのつながりを得るために嫁がされると、この子は知っている。
知っているからこそ、努力しているのだ。
少なくとも、婚約者様と縁ぐむために頑張っているわけじゃなかったはずである。
「何よりも楽しみだわ、あなたが一番かわいいのが」
「綺麗っていってほしいのに、お姉様はいつも可愛いって」
「姉様にとって、妹は可愛い物なのよ」
わたしは金色のふわりとした頭の、妹を撫でた。
「お前はこの婚約をどう思う」
「少なくとも、お父様の大馬鹿野郎と殴り飛ばしたくなる程度には」
わたしは微笑んだ。
父が軽く気圧された顔になる。そうだ、お父様。あなたはわたしを見くびりすぎていた。
「まったく、何が悲しくて子供を望めない結婚など」
「……しかたあるまい」
ぶつぶつと言い訳をするみっともないお父様に、わたしは言う。
「リリアンヌの社交界デビューと同時に、わたしは姿をくらます、という予定調和でしょう」
「しかしやはり……やはりやめにしないか、こちらの事情を話して」
「このくそ馬鹿野郎の親父殿、わるいがそれで済む問題じゃないだろう。このまま二重生活して、さらに結婚生活なんかして事実隠してたら、こっちの身が持たないと言っているのです。だいたい」
わたしは呼吸を一つしてこう言った。
「男のわたしと、向こうの家の長男を縁ぐむ辺りで、お父様の嫌がらせがひどすぎませんかね」
「この父は知らなかったのだ」
「仕事ばかりで、女物を着ているしかなかったわたしの性別などどうでもよかったのだと? ついでに、わたしの出自を考えれば、男だという事がどれほど危険だったのかは理解していらっしゃるようですが」
「仕方あるまい。降嫁した王女の息子だぞ。それもあの当時度の王子たちよりも早く生まれたお前は、本当ならば第一の継承権を持っていた。母がお前を守るために女と偽り育て続けていた事まで、よもや恨むのか」
わたしによく似た黒い瞳がぶつかるので、わたしは否定した。
「いいえ全く」
そこまで言ってからわたしは、こう告げた。
「リリアンヌが社交界デビューした次の日から、わたしはこの家から消えます。……馬車の事故でも作り上げておきますので、ご安心を。死体が上がらないように、川沿いのいい所を選びましたから」
「そう、決めているのか。決めた事は曲げないあたりが母にそっくりだ」
わたしはにやりと笑った。
「ええ、父と母譲りの、曲がらない頑固者ですので」
そうして来るデビュタントパーティである。わたしはこの時とばかりに女の着飾り方で着飾り、妹が従兄と踊るのを見ていた。
うん、妹超かわいい。
この日のために用意した純白のドレスである。銀のティアラの宝石は、わたしが稼いだお金で買った一級品だ。
幸いなのか商売に異様に長けたわたしは、男として貿易商も営んでいるわけだ。
後悔はしていない。
ただめちゃくちゃ忙しいので、寝不足の隈などは隠しきれないのである。
化粧で誤魔化しても限界があるのだ……
わたしは妹が踊ったのを確認し、さらに妹のセカンドダンスが、声をかけてきたわたしの婚約者様だと確認してから、見ていられないふりをして退室した。
その後は怒涛の隠ぺい工作及び偽装工作である。
馬車には乗ったし、御者もわたしが抱き込んだ長年の人である。
こっちの言いたい事を忠実にやってくれる。
そのため、家の別荘がある街へ続く崖路で、見事な仕事をしてくれた。
つまり。
わたしがわざと切れ目などを入れていた馬車のロープなどが、はずみでがたんと揺れて御者席と座席を二つに分けて、座席を落としたわけである。
それを御者と二人で見届けて、わたしは野郎の格好になり、誰にも制止を確認できない状態になった。
戸籍は無論用意してある。
元々親戚として、二つ目の名前を持っていたのだから。
そして。数年後。
「うるさい! 媚薬飲まされて発情させられて、一番に思い浮かんだのがあんただし、あんた以外欲しくないんだ!」
と安宿で知り合いの女傭兵に、見事に押し倒されているわけである。
そんな物に手を出しちゃいけません、とオレは教えておいたはずなのだが。
一体どうした、こいつ。と割合男に傾いた思考で思っていれば。
「うるさいうるさい、相手をしろ!」
と見事に真っ赤になった彼女が柔らかい胸やしなやかな腰を、押し付けてくるあたりで、男としての本能が完敗した。
そして抱きつぶしてしまい、まいったな……責任取るべきだろうかと真剣に悩みながら葉巻をふかしていると、こう言われた。
「処女だったんだよ」
「だろうな」
安いシーツが赤いのだから。破瓜である。
「……ほかの男がまるで欲しくない」
「たまったらまた誘いにくればいい」
オレもかなり男の思考回路になったと思いながら続ければ、女傭兵がこっちを見やる。
「信じるよ」
「信じろ信じろ」
あー、オレも三十代だ、そろそろ子ども作れって商会からせっつかれているのだと思っていながら、適当にながした。
男として暮らすうちに、色々染みついた男の調子で。
そして……オレが処女を散らしてしまった女傭兵は、溜まったり変な物を盛られたりするたびに、オレを押し倒してのっかって、やられてばかりはオレも癪に障るから途中から乗っかかり返して……という事が数か月続いた。
結果。
「妊娠したらしい、月の物が来ない」
真顔で告げられたので、オレもこう答えた。
「ん、ならば籍でも入れるか」
「なんでそんなあっさり……」
「お前はオレ以外受け入れていないんだろう? 認知は当然だ」
オレの稼ぎならば、子供があと三人はいても育つぞ、と笑うと、女傭兵は泣き出した。
妊娠初期は情緒不安定だと聞いていたが、本当にそうなのか……
取りあえず泣き止ませて、オレと女傭兵は初めて接吻をした。
それから、オレと妻となった女傭兵は、オレの生まれ故郷の都に行った。一度行ってみたいと言っていたので、時間を作って連れて行ったのだ。
そこで、結婚式と出くわした。
「……」
結婚式では、幸せそうに笑う妹と、オレのもと婚約者がいたが、元婚約者は顔色が悪かった。
後で聞くと、オレとの縁談が壊れたあたりで、あちこちから信用を失いそうになり、妹にも見放されかけて、色々奔走したらしいのだ。
妹は家のために、彼と結婚したとか。それでいいのかと思ったが、当人は知らない男よりも顔を知っている、人柄も知っている男の方が財産のために安全だと判断したそうだ。
取りあえずオレは、なかなか苛烈だが泣き虫な嫁と、可愛い五人の子供に恵まれて暮らしている。
親父にはしょっちゅう、手紙を送っている。商会としての手紙の中に、私的な手紙を紛れ込ませる手腕だけは、日に日に上がっているわけだった。