4.女勇者に恋する婚約者様とただの小娘のわたし
お前は弱いな。
当たり前じゃないですか、とわたしは言い返そうとしたのを、いまだに覚えている。
「お前は弱いなあ、だから全然、興味がわかない」
単純な言葉とともに言われた、その中身に、わたしはひどく傷ついたのを覚えている。
「僕は強い人が好きなんだ」
言い切った言葉の中身に、少し悲しく思ったのも覚えている。
「だから」
その後に続く言葉もまた、覚えている。
「お前を、好きになるって天変地異が来てもあり得ないかもしれない。でも婚約者だから、きちんと大事にはする」
その言葉を不実だとなじるには、わたしの家の家柄があまりにも彼とかけ隔たっていた。
それが事実でしかない事が、歯がゆかった。
それでもわたしは、強くなるなんて事は、出来なかった。
強くなる事なんて許されなかったから。
この両腕に、強くなる余地なんてどこにもなかったのだから。
この婚約は、本当に本当に、どうしようもない借金をしてしまった家の娘が、借金の肩代わりに身売りされたような物。
だからわたしは、彼の愛を求める事などおいそれとはできないものなのだ。
わかっている。
だからわたしを開放して。
お願いだから。零れ落ちた涙は、きっと見えないはず。
美しい、とつくにからきた女勇者様と共に出陣していく、少数精鋭の人々の中に、わたしの婚約者様がいる。
それを表立って見送ることもはばかられてしまうのが、このわたしの立ち位置だ。
身売り同然の身の上の婚約者は、そろそろおしまいになるのだろうと聞かされていた。
彼のまわりをうろつく令嬢たちから、彼を守るための虫除けがこのわたしだったのだ。
だからわたしは、一人静かに物置のような狭い部屋で、目を閉じる。
なにももう恐れはしないけれど、やはり悲しいという思いは変わらない。
実家にもどっても居場所はないだろうし、何故戻ってきたのだとどやされかねないし、もしかしたら本当に、何処かの花街に売られてしまうかもしれない。
生粋の令嬢それも、高い身分の婚約者の元で花嫁修業をしていた娘、というのがわたしの肩書なのだから。
女勇者様がこの国に現れて、その強さを見せつけたあたりから、わたしの婚約者様は恋に落ちていた。
そしてあこがれの言葉を語りまくり、女勇者様が滞在する名誉を勝ち取った家で、わたしは隠れるように生きてきたのだ。
女勇者様はわたしの事をきっと、ちょっと身なりのいい召使、おそらく奥方様辺りの小間使いだと思っているに違いない。
とても彼の婚約者だという言葉を、かけてもらった事が無い。
優しい女勇者様だけれども、独占欲は人一倍の様で、自分に愛を囁く男性は軒並み、側にいた人。
とても恵まれた人。
その女勇者様が、魔王と戦ったのだけれども、酷い負傷で帰国したのが数日前。
彼は女勇者様に付きっ切り。
そして寝ずの看病をしているけれども、女勇者様が倒れた今この国は、ありえないほど恐怖に包まれている。
とつくにの最強の女勇者様が倒れている今、この国で魔王に太刀打ちできる存在はいないのだ。
皆は早く、女勇者様が起きて戦う事を望んでいる。
彼女だってまだわたしと同じ歳で、きれいな事だって可愛らしい事だって好きな、ただの女の子の一面を持っていたのに。
彼女は夢を見ている部分もあってそこが、普段の強い面との落差で男の人たちを、きゅんとさせてきた。
彼女とともに魔王に挑みかかった男性たちの多くは、ズタボロに負傷していて、わたしの婚約者様だって本当は、寝ていなくちゃいけないのに、起きて女勇者様の看病をしているのだ。
離れたくない、守っていたい、この人にはとても守られてきたのだから、今だけは。
そう言って燃える瞳で押し切った婚約者様を、わたしは見ていた。
わたしは守られた事もなければ、守った事もないのだと思いながら。陰から。
何度も何度も、彼が間違いそうになる治療の手伝いをし、時に見守り、ずっと。
わたしは婚約者様の、ために生きなければいけないのだから。
彼がわたしを愛さないのはとうの昔に知っていて、大事にするという言葉通りに彼は大事にしたけれどほかの、だれもがわたしよりも女勇者様を優先しただけ。
女勇者様のために、日当たりのよいわたしの部屋を。
女勇者様の心の慰めになるために、わたしにあてがうはずだったドレスの資金を。
そんなもの、どうだっていいのに。
わたしがこらえればいいのだ。
そして、女勇者様が婚約者様とまた、魔王に挑み今度こそ打ち勝つ、その時に世間の表舞台から退場すればいいのだ。
それが端役の役割と割り切り、わたしは生きている。
女勇者様は意識が戻られたのに、女勇者様は起き上がれないで臥せっている。
余程の怪我だ、呪いの怪我だ、と噂するのに皆々そろって、女勇者様が意識を取り戻したのだから、直ぐに回復して魔王を倒しに行くと活気づいている。
あの方だって人間だわ。
体を治すのだって大変なのに。
そう思っていて数週間。
民衆はそろそろ、女勇者様の心配をしなくなってきていた。
国王陛下だってそうだろう。
女勇者様への見舞いは、彼女への重圧になっている。
彼女は魔王の強さを、怖がっているようだった。泣きながら、わたしの婚約者様に縋りつき、戦った時の事を口にしていた。
とても強かったのだという。
とても恐ろしかったのだという。
邪悪で残酷で、醜悪で。
数多の英雄譚を築き上げた彼女でも、恐れるほどの相手、それが魔王なのだと思うと、わたしは身がすくむ思いがした。
わたしは、もっと休んでいいと思った。けれどほかの民衆は待ってはくれない。
女勇者様は心が痛めつけられていたらしい。強い、彼女へ愛を囁く男の人たちがぼろ雑巾のように投げ出された現場を思うと、少し心が病んでしまうだろう。
わたしの婚約者様も、それを十分に分かっていて、女勇者様のそれでも、戦おうという意思が残っている強さに、また恋い焦がれていた。惚れなおしたと言ってもいいだろう。
彼は強い人が好きなのだ。
そしてとうとう、国王陛下からの使者がやってきて、女勇者様たちに、出撃の命令を下した。
女勇者様の体はすっかり治っていたけれど、ほかの男性たちも治っていたけれど。
殆どの者が、魔王の恐ろしさに絶望を抱いているようだった。
「いやよ、どうしてわたしだけがあんなものに、立ち向かわなければならないの! 勇者も一人の女なのよ!」
泣きじゃくる彼女に、わたしは声などかけられなかった。
「それでも戦おう、この世界の未来のために」
ある男性が言った。大魔導士の誉れ高き人だった。
「一緒に戦いましょう、愛する人とともにあるために」
ある男性が言った。歴戦の武人だった。
「あなたの盾になりますから、あなたは我らの最後の希望」
ある男性が言った。聖者とよばれた癒し手だった。
口々に男性たちが、彼女を奮い立たせようとしていたけれども、彼女はいやいやと首を振っていた。
そんな時だった。
空が掻き曇ったのは。
それは見事な快晴だったというのに、青空は一変したのだ。
それは紫の稲光を伴う、雷雲と強烈な雨雲を持った黒雲だった。
男の人たちが青ざめる理由はすぐに分かってしまう。
「魔王の黒雲だ……」
と言ったから。
女勇者様がますます蒼褪めて取り乱して、泣きじゃくる。
わたしの婚約者様が彼女を抱きしめて、言う。
「他の誰もがあなたに戦えと言いますが、わたしはあなたを守ります」
とても聞いていられないと思った。
あの家でわたしがいた意味は?
あの家に、売られたようなわたしの行く先は?
わたしは誰もが家の中に逃げだす中、我先に逃げ出す中、一人で外に飛び出した。
体はたちまち濡れ鼠に変貌し、雨粒は恐ろしく冷たくて生ぬるかった。
これが魔王の雨粒、人の命を削っていく呪いの雨、とどこかで思いながらわたしは、空に向かって怒鳴った。
「出てきなさい! 雲に隠れて姿をさらさないなんて、魔王の風上にも置けやしないわ!」
捨て身だったし無鉄砲だったし、そして何より命がいらなかったのだ。
わたしは。
何もかもがなくなっていくわたしは命なんて、もう、いらなかったのだ。
空を睨み付ける。ただ一人、誰も外に出ないでおびえる中、わたしは空を睨んで立っていた。
「でてきて、わたしと勝負しなさい!」
破れかぶれの捨て鉢で、わたしは高らかに怒鳴り声を上げた。
魔法だって剣術だってなんだって、魔王と呼ばれる存在にはかないもしないわたし。
だけれども、一矢報いたかったのだ。
わたしの、幸せじゃないけれど不幸でもないだろう人生を、こっぱみじんにしてしまった、魔王という相手に。
怒鳴ってまた、空を睨み付けたその時だった。
ほんの一瞬目を瞬かせた間に、その男が立っていた。
ねじくれた山羊の角、瞳孔の形は魔族を現す六芒星。
吊り上がる唇は美しいのに、そこから覗く牙は鋭利そのもの。
わたしなんかよりもはるかに大きく、圧倒的で、強く、そして偉大と言ってもいい存在。
その存在は長い長い外套を身にまとい、わたしを見下ろしていた。
魔王だと認識した瞬間の、わたしの行動はもはや愚かの極みだっただろう。
その頬だと思われる場所を、盛大にひっぱたいていたのだ。距離が近かったから行えた事だった。
そして頬を打たれた魔王は、目を瞬かせた。アレキサンドライト、そう言う石のような瞳で。
さらにわたしがやった事を実感すると、その魔王はとつじょわたしに跪いたのだ。
「見事な平手打ちだ! 英雄や勇者と呼ばれる人間の傲慢と暴力は造作もなく避けられるが、ここまで見事にこの私に平手打ちをかました、ただのにょしょうは存在しなかった!」
跪き、わたしなんかに熱っぽい瞳を向けて、魔王が言う。
「人間を滅ぼす事などどうでもよくなった! 尊敬するべきにょしょう、そなたを我妻として迎えいれる!」
何が起きたのか見当もつかないわたしだったのだけれども、魔王は立ち上がり、わたしを抱き寄せて顔を覗き込み、とろけるような顔で言う。
「式は人間風か魔族風か。それとも竜族のなかなか熱烈な物も捨てがたい。招待客すべての目の前で寝台に沈み、夜の営みをおこなうという鬼族もまた……」
ぽかんと間抜けな顔をしていたわたしははっとして、こう言った。
「この国を滅ぼさないでくださるのでしたら、どのような式でも喜んで受け入れましょう」
破れかぶれの捨て鉢の捨て身の、そんな言葉だったのに魔王は、さらにわたしを熱い瞳で見つめ始める。
「そのように遠慮深いのもまたいじらしい! そなたの願うままに式を執り行い、子供はいくらでももうけよう。さいわい私はまだまだ若造だ。人間のそなたを妻として生きさせる事など年寄りに比べたら簡単だ」
言った魔王が不意に当りを見回し、にいやりと悪辣に笑った。
まさに魔王という顔をしていた。
その魔王が、わたしを抱き込み、長い外套を膨らませて空へ舞い上がる。
そして。
『腰抜けの英雄や勇者しか持たぬ、哀れな人間どもよ! この魔王、そのどの者よりも勇敢にして気高い一人の娘が気に入った! この娘、我妻に免じ、貴様どもを見逃してやろうぞ! みな我妻へとこしえの感謝をささげるがいい!』
と国中に広がる魔法を宿した声で、わたしを認知させてしまったのだ。
いろいろな事が起きすぎて追いつけないわたしだったが、魔王はわたしの頬に口づけて、言う。
「さあ、新居は南がいいか、西がいいか。よく考えておいてくれ。そなたの打った頬どころか、この胸がじりじりとそなたを見ていると焦げ付くようだ!」
それからの事はあまり言えないけれども、わたしはとりあえず、魔族の皆さまから魔王様を強制させたトンデモナイ英傑として、知られるようになった。何でも魔王様は世の中を嫌いに嫌っていて、人間どころかあらゆる生き物を殺しつくそうとしていたらしいので。
それを果敢にひっぱたいて改心させたわたしは、魔族の皆様からも素晴らしい奥方と認識されて、三回結婚式を挙げた。
人間風と、魔族風はもちろん。
その後の三つめは何かと言われたら……とにかく黙秘するしかないのが、わたしの大きくなったお腹で察してもらえることだろう。
風の噂で、女勇者様はわたしのもと婚約者様と結婚し、しかし散々に浮気を重ねて離縁されたと聞いた。
一途な婚約者様は彼女を見放さず、隠れた場所で愛人として迎えて、かなり落ち着いて生活しているようである。
「妃よ、我妻よ、あまり風に当たってはいけない」
体が冷えては人間はいけないだろう、と外套を着せかけてくれる旦那様。
わたしは、その熱くなる息を振り払いながら、取りあえず。
「自重なさって下さい!」
その頬を、ひっぱたく。