14.夢を追い続ける婚約者様と、残されたわたし
あなたがきらきらとした瞳をして、舞台を見ているのを、わたしは知っていた。
そしてあなたが、そこに立つのだと夢を見ている事も知っていた。
「行ってらっしゃい」
元気で。
その言葉の裏側で、あなたがあちらの国で運命の出会いをしてしまう事を、わたしはずっと恐れていた。
恐れると同時に願っていた。
あなたの夢にとって、わたしは邪魔な存在なのだから。
鞄一つを抱えて、実家から勘当されたような状態で去って行くあなた。
その見送りにきたわたしも、本当は許されてはいなかったのだが。
「ええ、必ず有名になって、あの忌々しい実家を見返してやるわ! 待ってなさいよ婚約者様、あたし絶対にあきらめないんだから!」
胸を張り、いつまで続くかわからない強気な表情をしているあなたを最後に見たくて、こっそりと家から抜け出したのだ。
ちょうど今から、十年ほど前の話である。
ある程度の年齢になれば婚約など、当たり前だった当時、そう、今よりも少し堅苦しい時代だったあの頃。わたしは同じような規模の商家の女性と婚約していた。
今もしていると言っていいだろう、婚約は破棄されていないのだから。
彼女は明るく、歌う事がとても上手で、どんな鳥だって彼女のように歌う事は出来ないだろうと思っていた。
明るい声と、明るい笑顔と、諦めない心と。それから彼女の中にあるたくさんの美徳と。
姿ではなく、わたしはそれら全てに恋をしていた。今もしているのだろう。
姿はそこまで美しい、と言えない彼女だった。いかんせん胴回りは当時のわたしよりもはるかにあったのだから。ふくふくとした手足が、きびきびと動くのがとても好きだった。
髪の色はよくあるマルーン、瞳の色はやや珍しいオリーブグリーン。ちょっと日に焼けた肌色にそばかすが散っていて、それが愛らしいといつも思っていた。
そんな彼女は舞台にあこがれていて、とある劇団が団員を募集していると聞いてすぐさま動いたのだ。
結果は当然反対されて、彼女は家を飛び出した、きっと帰るつもりもないのだろう。
当時わたしが与えられていた離れに飛び込んできて、旅立つための準備の時間だけ置いておいてほしいと言ってきたのだ。
わたしの両親は、外に出たがらなかったわたしが唯一彼女と共にならば外に出歩くと知っていた。そしてそれにとても恩を感じていたので、彼女のわがままを許してくれた。
それでも、両親も狸のようで、婚約者の所に遊びに来た娘さんという姿勢を崩さず、彼女の出立に関しては関わらないという姿勢だった。
もっぱら手伝ったのは、わたしだった。遊びに行く振りをして、買い求めたりもしたのだ。
それでも、見送りに行ってはいけないと言われていた。そこまでやってはいけないのだ、と。
ギリギリの見極めが必要なのだと。
わたしはそれでも、彼女と会うのがこれで最後かもしれないと思っていて、こっそり見送ったのだ。
「いい? 必ず見返してやるし、あなたに恥じない女性になって来るわ!」
その前向きな明るい態度が、もう見られないと思うと悲しくて悲しくて、泣き出したわたしに彼女は言った。
「一つだけ約束するもの。あなたに会いに、戻って来るわ」
そして汽車が出発する時間になり、わたしたちは別れた。
それ以来手紙の一つも送られてきていない。
子供のわたしには、隣の国の手紙を受け取る事も、手紙を書く事も出来なかった。流通事情が難しいのだから。
わたしはそれでも、彼女がいつかいかなる形であっても会いに来てくれると信じていた。
だが風の噂で、彼女のような女性が数多の男性たちと浮名を流していると聞いてしまって、とても落ちこんだ。
そして。彼女の事はあきらめようと思ったのだ。
だが事は簡単に進まない。両親の反対に、あちらの実家からの圧力。
その結果彼女を自由にできないまま、わたしはまだ彼女の婚約者だ。
そんな風に、実家を手伝いながらもやもやとしていたある日。
隣の国の絶世の歌姫がやってくるという話になった。
そして、なぜか平凡な商家の息子のわたしの所にも、その歌劇場の招待券が届いた。
しばし考えた後、わたしは行く事にした。絶世の歌姫の歌声など、これから聞くことだってできないかもしれないのだから。
そうしていれば、何故か招待された前日に、衣装が一そろい送られてきた。
これならばどこに出しても恥ずかしくない、一人前の男性として見られるだろう衣装だった。
元々背丈は高く、体格は立派なわたしにちょうどいい大きさであり、おそらくこっそりと両親が用意したのだろうと思って着る事にした。わたしが舐められたらそれは、わが商家も舐められたという事だからである。
歌劇場に入ると、そこは特等席もいい所で、一体どんな人間がこのような招待券を、と考えている間に歌劇が始まった。
現れた歌姫は見事な体をしている、大変な美女だった。艶やかに金色に光る茶色の濃い飴色の髪。瞳はきらきらと驚くほど光る緑柱石の様だった。とにかくとにかく、大変な美女がそこにいたのだ。細身だから歌声もある程度声量がない、などと思うのは失礼な事で、彼女の声は舞台一面に高らかに響き渡った。
大変な感動が胸に生まれる、それは愛の唄だった。
それは間違いなく、誰かを思っているからこその歌声だったのだ。
奇跡のような体験をした後、わたしはすぐに出て行こうとしたのだが。
招待券の中に、この後の夜会の招待券もあった事、そしてそれに参加してどこかのコネを作ってこなければならない事を思い出し、少しばかり憂鬱になった。
しかし夜会は皆々先ほどの歌劇の事ばかり話題にしており、少し気楽になったともいえるだろう。
そしてその夜会の一番の賓客は、皆をじらせて現れた。
やはり見事な衣装に身を包み、彼女の内側から光る輝きが、彼女を一大女優にしていた。
こんなに近くで見られるとは、と思っていた矢先の事だ。
彼女がわたしを見た、と思えば両手を広げて駆け寄ってきたのだ。
「ああ、来てくれて本当に良かった、招待券を送っただけではだめかと思っていたのよ」
その声に聞き覚えがあったわたしは、呆気に取られてこう言った。
「君なのかい……?」
「ええ、あたしよ!」
遠い遠い昔の、ふくよかだけれども不敵な笑顔と、今の彼女の美しく無敵な笑顔が重なった瞬間であった。
それからわたしは、足しげく彼女のいる劇団に連れて行かれた。
彼女が実家を追い出されているのは有名な話で、いられる場所がわたしの家なのだというのだ。
そしてわたしの家は、こんな評判をよくすることはないと言わんばかりに彼女を歓迎しており、わたしをせっついて彼女の送り迎えに使う。
彼女はわたしを友人たちに紹介し、わたしがほめられると飛び跳ねて喜んだ。
「君がわたしの事を忘れなかった事に驚いたよ、色々な噂を聞いていたから」
「あら。だって。女の武器は愛嬌と度胸よ? あなたの家がつながりができると嬉しそうな相手と、茶飲み友達になっても損はないわ」
「君はまだ、わたしの婚約者でいるのかい」
「当たり前じゃない、あなた以外の誰と婚約して結婚するのかしら、あたしったら」
彼女の胸の張り方を見て、わたしは男を決める事にした。
「今度きちんと、求婚させてほしい、君にきちんと言いたいんだ」
……その求婚の一連の動きを、彼女の劇団仲間が追っかけて話題になり、脚本の一つになるのは少し後の話である。