10.とばっちりを受けやすい婚約者様と、私
「婚約を破棄してもかまわないんだ……」
げっそりとした顔の婚約者様の言葉に、私はちらりと彼が腕に抱きしめている存在を見やる。
「まあまあどうしたのですか?」
「とにかく、婚約を破棄してほしい」
「理由が分かりませんの」
私は事実理由が分からなかったので、そう問いかけてみた。
すると彼は、腕の中の存在を一層大事そうに抱きしめて、告げる。
「……子供ができた」
「まあ、おめでたいお知らせですわね。いったいどこの犬が子供を産んだのかしら?」
私が真剣に喜んでみせると、彼は深々と溜息を吐いた。
「僕に子供ができた、と言っているんだ」
「まあ……!」
私は目を見張った。
そして同時に、彼の腕のなかにいる赤ん坊が、彼の子供だと知る事になったのである。
元々、彼は私に興味がないらしく、日常的に私は放置され続けていたのだけれども。
まさか子供をつくる相手ができていたなんて……
声も出ないほど驚いている私に、彼は頭を下げてきた。
「子供ができた以上、君との婚約を続けるのは不誠実だ」
その前に、一体どこの相手があなたの子供を産んだのかしら、と私は言いそうになって口をつぐむ。
ここにその母親がいない事が、大きな事実のような気がしたからだ。
きっとこの子供の母親は死んでしまっているのだわ。
産褥熱で、倒れたのだろう。
産褥熱はとても危険な物で、消耗した母親がそのまま死んでしまうのもよくある話だったのだから。
彼は頭を下げて、ちっとも動かない。
ただただ、こちらのような格下の相手の令嬢に、頭を下げる分だけ彼は誠実で、人としてまっとうなのだろうとどこかで思い、評価が少し上がる。
もともとどこかしら、ちゃらんぽらんな次男という扱いだったというのに、子供の養育に関しては真面目になるようで。
そこで、底辺だった評価が上がっただけの話である。
元々、父がかき集めてきた縁談の一つが、成就しただけの婚約。
私の意思などどこにもないそれだから、彼が破棄してほしいと言えば、教会に申請すれば通るでしょうね。
そんな事もしっかりわかっていた私だったのだけれども。
「こんな所にいたのか!」
いきなり怒声が響いてきて、彼の父君が現れたのには、とても驚いてしまったわ。
「まあ、公爵様……いったいどのような御用事でしょうか?」
いくら格下の相手でも、一人の未婚の娘の所に来てよいわけがない。
遅れてやってきた私の父の表情からも、彼が歓迎されていないのは伝わってくるのだ。
「お前は! その子供を孤児院にでもどこにでも、捨てて来いと言っているのに!」
怒鳴り散らした公爵様が、彼から子供を奪おうとする。
彼はぎゅうっと赤ん坊を抱きしめて、背を向けて庇い守ろうとする。
それだけ、大事な方の子供だったのね、と私は胸が痛くなりかけた。
「そんな子供は捨てて来いと、何度言ったら分かるのだ!」
「出来ません!」
彼が子供を奪われまいとしながら、公爵様に反論する。
「この子は僕が育てるのだと決めました! 彼女にはきちんと、婚約を破棄してほしいと、こちらの不貞の結果なのだと説明をしていたところです!」
「馬鹿者! 貴様がそんな振る舞いをすれば、この公爵家の名前に泥が塗られてしまうわ! お前がその子供を手放せば、万事が丸く収まるのだ!」
公爵様が、彼を使用人で取り囲み、子供を奪おうとする。
彼が子供を守ろうとする。
赤ん坊が、剣呑な空気で泣きわめいてしまっている。
彼は真剣に、何もかもを捨ててこの子供を育てようと決意しているのだわ。
私はその、まっすぐな心に心臓のどこかが貫かれたのを感じた。
それくらいの覚悟があるんだったら、答えは簡単な物になってくれる。
「待ってくださいな」
私は父の顔をちらりと見る。言い出すだろう事を予測した父が嘆息した後に、頷く。
この家に長い事貢献してきた私だから、このわがままがきっと許されるし、もしだめなら他の手段を考えればいいのだ。
「待ってくださいな。彼と私が婚約しているのに、彼の子供がいるのが問題なのだというのでしたら」
私は公爵様に微笑む。
そして、今まで一回も私の事を積極的に知ろうとしなかった婚約者様に笑顔を向ける。
「私、この子供を養子にしますわ」
「なっ!?」
私の言葉に、公爵様が息をのむ。
「ねえ、婚約者様。私と二人で、その子供を立派に育てていきましょう。お嫌でしたら、無理にとは言いませんけれど」
彼は目を見開き、私と子供を交互に見やる。
頭が動いて、一番穏便に事を済ませるのがこれだと、察したようだった。
頭は悪くないようで、評価がまた一段上がったわ。
「公爵様も、それで手を打っていただけないかしら? こんなに可愛い子供ですもの」
私は彼に寄り添い、小首をかしげてにこりと微笑む。
「出生届はまだなのでしょう? でしたら、私の子供として届け出るのも可能ですし、書類が正式な物であれば、人間を黙らせる事も出来ますのよ」
幸い、私は滅多に人前に出ない。ここ一年は色々あって、人前に全く出ていないのだ。
だから、妊娠していたと偽る事も出来るのだ。
「どうします?」
「……おまえなど、もう知らんわ! 勝手にやるがいい、お前とはここで縁を切った!」
公爵様が吐き捨てて、去って行く。
彼は大きく息を吐きだし、膝をつきそうになりながら、泣きじゃくる子供をあやし始める。
「ほら、いい子、いい子」
「だめですわよ、そんな抱きかたでは。貸してくださいな」
私は泣き止みそうにない赤ん坊を受け取り、そっと抱きしめて揺らし、子守唄を口ずさむ。
すると子供は、嘘の様に泣き止んで、きゃらきゃらと笑った。
「……しかし、君は絶縁された僕を夫に選んで、いいのだろうか」
その様子を眺めていた彼が問いかけてきて、私は微笑んだ。
「私、カモフラージュになってくださる旦那様が欲しかったところですの」
「……はい?」
「あなたの家は頭の良い男が生まれると有名ですもの。ちょっと縁を切られたくらいでしたら問題ありませんわ。それにあなたも、実は学園で主席に一歩届かない位の立派な成績だったと伺っておりますのよ」
私は父を見やり、ねえ、お父様と続ける。
「我が家と領地の繁栄のために、彼を囲ってもよろしいでしょう?」
「旦那は囲う物ではないぞ、娘よ」
私の言葉に苦笑いをしながらも、父が答える。
「そうだな、では大急ぎで二人で領地に戻り、急ぎ婚礼の支度を整え、子供のお披露目もしてしまおう」
「え、えっっ」
展開が早すぎてついていけない彼に、私は笑いかけた。
「いろいろとお話を聞かせていただきたいわ、婚約者様」
私はそう言って、彼と同じ瞳の色の子供を抱きなおした。
「……じつは、この子は僕の兄の子供なんだ……」
領地に戻り、ものすごい速度で結婚式を挙げて、結婚証明書にサインをしたあと、彼が懺悔する調子で私に言ってきた。
「あなたの兄様は、確かもう結婚なさっていて、でも奥方様との中が冷え切っていると有名な方ですわよね」
「……ああ……」
なんだかとても疲れ切った調子で、婚約者様が続ける。
「兄には愛人が複数いて……問題な事に自分の素性に嘘を言っていたのだ」
「まあ。大方身内の名前でも使ったのでしょう」
「よく分かったな」
「大体予測できますもの。それで、この子の母親は」
「……彼女は、兄を僕だと信じていて、信じたまま亡くなってしまったんだ。そして、その縁者たちが認知しろと押しかけてきて、それはもう屋敷は大騒ぎで」
「でしょうね。遊び歩いているあなたの結末として、いかにもありそうな物ですもの。年貢の納め時だとでも思われたでしょう」
「そこで、父が激怒してしまって、子供を捨てて来いと。でも、この子は血縁なんだ。間違いなくうちの血縁なのに、捨ててしまうのはちょっと」
「だからあなたが、自分の子供だとして育てようと決意なさったのね」
「何も知らないけれどね、育児の事なんて」
笑った彼が続ける。
「それに……家に居ては、奥方の嫉妬に巻き込まれそうだったからとにかく、君も巻き込まないように、婚約も解消し、遠くの国に逃げ延びようと思っていたんだけれど」
「私の言葉で、それもしなくてよくなってよかったではありませんか。それに、この子はなんだかとても可愛らしくて。自分の子供の様ですわ」
私は心底本気の言葉を言い、子供の頭をそっと撫でた。
「でもなんだか、二度あることは三度あるような気がしてしまいますわね」
「……兄の愛人の数を考えると、心底そう思うんだ。……君には恩しかないね。悲しい事に恋愛的な興味が何一つないのだけれども」
「まあ、私もあなたに対しては、打算以外に何もありませんから問題ありませんのよ」
私たちは顔を見合わせてしまい、手を差し出す。
「なんだか同盟が組めそうだ」
「あら奇遇ですこと、私もそんな事を思っていましたの」
しっかりと握りあった手と手は、まさに同盟というにふさわしかった。
「母さん……たのむから仕事をもう少し減らしても」
「まだまだだわ、領地改革の下準備は私がやる事なのよ、元は私が発案したのだから」
「それで表舞台には父さんを出して、自分は後ろで操っているのかよ」
「そうよ、お父様も頭がいいから、こちらのやりたい事を理解してくださるし」
「かあさまー」
「あらあなた、お腹が空いたのかしら? お昼は食べた?」
「もうすでに、おやつの時間を超えてるからな、母さん……」
「それじゃあ誰かに頼んで、お茶の用意をしましょう」
言いながら、仕事机からたちあがれば、最初の息子が苦笑いをしながら、二人の子供をあやしている。
ちなみに背中には、ぐっすり眠る五番目の子供がいるわ。
「あら、我が家のお姫様の片方は?」
「父さんにべったり。後ろついてあるってるから、特に問題ないだろ」
「そうね、お父様と一緒なら」
「最近おれより、文学的な才能を発揮していていて将来有望そうだわ」
「まあいいお知らせ」
「母さん、子供の事ちゃんと見ているのに、構えない状態どうにかした方がいいって」
「この段階が終わったら、お母様も少しは時間が空くのよ、だからその時皆をうんと可愛がってあげると決めているの」
「おれはいいからな!?」
「まあ、なんて事を言う子かしら!」
私がふざけてよろけると、子供たちがお兄ちゃんを睨む。
「母様いじめてる」
「母様にひどい事言った」
「お前たち、言ってないからな? 兄ちゃん言ってないからな?!」
慌てふためく我が家の長男。
私は、私には誰一人似ていない子供たちを見ながら、色々あったものだわと思った。
一人目を受け入れたから、か。
その後も、旦那様の兄の愛人たちが、ベビーラッシュだったようで、産んだ女性たち全員が認知を求めて屋敷に押しかけてきたらしい。
無論慌てふためいた屋敷だし、兄の奥方は自分には子供が生まれないコンプレックスから、彼女たちを害そうとしたようだ。
領地にいて現場は見ていないのだけれども、連絡役の使用人が語ってくれた。
そこで、偶然書類を王族にプレゼンするために、都に戻っていた旦那様が、毎回引き取ってしまったのだ。
それも私にお伺いを立てて。
私はちょっと養育費を考えてから、了承した。
元より、我が家は資産家だから、あと後六人の子供を育てても問題がないのだし、同盟を組んでいる旦那様は、子育てがやけに得意だし。
私が領地を繁栄させればいいだけ、と二人で割り切って、相棒の様に日々を送っている。
風の噂では、旦那様の兄がとうとう、奥方に嫉妬のあまり刺されて大人しくなり、愛人がよいを止めたらしいとも聞いている。
それでも、縁を切った旦那様と、無関係な私の家ではどうでもいい出来事だわ。
と思っていたら。
「……ここ数年、言うに言えなかった事を言わせてほしい」
旦那様が、真っ赤な薔薇をたくさん抱えて、結婚記念日に私に跪いてきたのだ。
それも早朝から。
「え?」
「もう僕は、君なしには生きられないほど君を愛してしまったんだ……! 同盟じゃなくて、夫婦としてこれから、一緒に人生を重ねてくれないだろうか」
驚いた私だけれど、泣きながら笑ってこう言ってしまった。
「私の方は、あなたが最初の子供を連れてきた時に、もう心を奪われていたのよ!」
あの時、何が何でも誰かを守ろうとする、その強い眼差しと盾になる気概に、私は恋をしていたのであった。
それからはもう、二人でいちゃいちゃとする時間を取り戻すべく、べったりとして見せて、子供たちになかよしね、と嬉しそうに言われてしまい、長男には人前でやらないでほしい、と真剣に泣かれてしまった。