1.女好きの婚約者様と放置されているわたし
サブタイトルが、その話のメインテーマです。
もともとアルファポリスさんの方で連載していた物です。誤字修正とかはします。
「そう言えば」
わたしはここ数週間、飽きもしないでやってきている男に話題を投げかけた。
いい加減に、この男が帰ってくれないだろうか……という思いに駆られてしまったせいである。
自分の婚約者に対してそれはない、と思われるのが世間様一般の反応であるが、わたしからすれば当然の話題を投げかけた程度の、事だった。
「最近、あなた様の女遊びの噂を聞きませんね」
目の前の男……婚約者様は、その赤々と輝く紅玉の瞳を瞬かせて、ああ、と言った。
ああ……って。
なぜそんなに愁いを帯びた息を吐いているのか分からない。
「たくさんいる、女性たちの誰かの所におかえりにならないのですか?」
「……ああ」
その肯定にわたしは心底、相手の余命がわずかなのではないかと心配した。
この婚約者様は女遊びが激しい事で、知られていて。
わたしのように、だまし討ちのように婚約を決められなければ、到底結婚の話など出てこないだろうと言われていた男だったから。
この相手が女に興味をなくしたような言動が、まるで余命宣告を受けた後のように聞こえてしまったのだ
だけれども。続いて言われた言葉に、思考回路が固まった。
「女関係は全て片付けた」
耳が誤作動という物を起こしたのではないか。
何も考えられないまま、間抜けな表情をとってしまった。じつに令嬢らしくない顔。
「……え?」
普段だったらもう少しまともな言葉が出てくるのに、口から出てきたのはなんと腑抜けた声だろうか。
「頭の中身と顔が一致した顔だな」
それを見ている相手もいつも通りに、ずいぶんと失礼な事を言った。言ってから続けた。
「だから訪ねる相手はお前一人だ」
淡々と、とても信じられない事を語る目の前の男に、わたしは茶器をひっくり返しそうになった。
ひっくり返しそうになったのではなく、実際にひっくり返した。
茶器が跳ねて、まだ冷めていない熱いお茶が手の甲にかかる。
「っ!」
わたしは熱さに引きつってから、婚約者様が立ち上がり、わたしの腕を掴んだ事にまた、驚いてしまった。
こうして触れられるのは、初めてだったのだ。この婚約者様はわたしになど興味がないと言わんばかりに、手を握る事すらしなかったのだから。
「火傷は軽いうちに手当てをするべきだ」
驚いている間に、言葉が並べられた。
また淡々と言われてしまい、わたしは小さいながらも庭師が丹精込めて作り上げた庭園を離れて、自室に連れて行かれてしまった。彼はこの屋敷に二人しかいない使用人の一人、うばやのアリアドネを呼んで氷の支度を命じた。
アリアドネはわたしにお茶がかかったという事を聞いてすぐに、氷の入った容器を持ってきてくれた。
そして、そのまま家の事をするために去って行ってしまった。
わたしの自室に残されたのはわたしと、婚約者様だけ。
婚約者様は、気まずくてでも逃げ場がないわたしを寝台に座らせると、手際よくわたしの手の甲を冷やし始めた。
氷がひやりと冷たくて、痛みが軽減するのが良く分かった。
「あなたも、女性の手当をするんですね」
怪我の手当など使用人に任せそうな、そんな男だったから茶化すように言えば、男は平素と同じ声と調子で続ける。
「……従軍中ならば誰の手当でもするが、平時に女の手当などした事はない」
「……あの」
なんだろう、気にしたら負けになってしまうのではないか、という思いに駆られているのに、疑問が口を飛び出してしまいそうだ。
「じゃあどうして、わたしの手当をするんですか」
しまいそうだ、ではなく。しまった、というのが正しかった。口から出てきた言葉は頭の中身の疑問と全く同じで、いけないとはっとする。
考えてもみればいい。平時は女性の手当などしない男が、わたしの手当をしている事の意味を。
自意識過剰かもしれないが、まるで特別の扱いの様だ。
ん、ちょっと待て、と冷静な部分が告げてくる。女の手当はしないと言ったのだから、男性の手当はするのだろう。つまりわたしは女としても見られていない、のかもしれない。
そちらの方がよほどこの男に、しっくりと来てしまったのでそちらで納得しそうになったのだが。
「……」
瞬くその紅の瞳が、じいっとわたしの形をとらえて、確認して、それから脳髄の中身を言葉にしていく。
「なに、特別に居心地のいい空間を維持するために、お前が必要だという事だ」
「居心地がいいんですか」
それも特別に。それはどういう意味だろうか。
わたしはこの邸で、彼を歓迎する事などなかった。どちらかと言えば、放っておいたような気がする。放っておいて、食事の時間まで居座っていたら食事を共にし、相手が帰ると言い出すまで放置する。
そんな事しかしていないのに、特別に居心地がいいとはどういう事だろうか。
わたしはこの男のために何かをした事は、ないと思ったのだけれども。
「……ああ」
短い肯定の言葉と首肯。わたしの手の甲を見る瞳は、肌色を赤くしているその具合を確認するかのようだった。
「気付けば」
割合に静かな声がわたしの耳に入ってくる。わたしがその声を聞いて居ると確信している男は、またいう。
「この家に向かって歩いている。疲れたと思った時。休みたいと思った時。そして」
「 帰りたいと思った時 」
何を言い出すのだろうと思って聞いていたのに、信じがたい言葉が耳に入ってきてしまった。
帰りたいなど、まるでそれではわたしの家が住処のようだ。
本家も分家も数多の女性の家も、もろ手を挙げて迎え入れてくれるだろう男が、わたしの家を住処のように扱っている。
これをわたしは、どうとらえればいいのだろうか。
こんなほうったらかししかしていない家を住処なんて。
「そうしたら、女の家に行く事がとても無駄だと思った」
手の甲の腫れが引いたからだろう、氷を離した男が、小さな容器の火傷の薬を塗りこめる。その容器がどこから現れたのかと言えば、男の懐からだった。使い込まれた薬の容器は見事な細工物だったから、男の所持品としては不似合いだったけれども。
塗りこめられる軟膏のような塗り薬は、男の体温が移ったように温かい。
氷を当てられていたからなのか、それは熱い位だった。
「寄る気にもならない女の家に行き、機嫌を取る事がとても無駄なように思えてきた。こんな風に思うの初めてだ。帰る気にもならない本邸に早々と行くよりも、ここに居座るほうがよほど建設的なような気がするのもだ」
「……どうしてこんな、家が。狭くて、あまり美しくもなくて、足りない物ばかりの家が」
途切れそうになった言葉をつなぎ合わせて、わたしは疑問を投げかけた。
快適とはいいがたい家にどうして、そんな思いを抱くのか。
「……たしかに、本邸と比べてはいけない。ここはお前とうばや二人だけしか手の回らない小さすぎるほどの邸だ。だが」
わたしの前に跪き、手当てをしていた婚約者様が強引に、わたしの膝に頭を乗せた。そのせいで表情は見えなくなってしまったけれども、彼が照れているのは伝わってきた。
だって耳が真っ赤だ。
「ここは、お前がいる」
「……え?」
「最初はここで毒見などいらない温かい食事をするのが目的だった。ここの食事はお前も同じ卓を囲む。お前は早食いでなんでもかんでもあっという間に食べて、さらにおかわりなんぞをしている。それで毒が入っていたらお前の方に先に回っているからな」
たしかにわたしは、令嬢にあるまじき早食いだという自覚はある。というのも、のんびりゆったりと食事をしていたら、動く分の燃料になるだけの食事をとれないで、動く事になるからだ。動く分の熱量を摂取しなければならない、まっとうな理由でわたしは早食いだけれども。
「お前が立ち働いているのを見ながら、武器の手入れをし、仕事の残りを片付ける。そんな時間がひどく居心地のいいものになった。お前は仕事をしていようが武器の手入れをしていようが、何一つ言わない。……ここはひどく気が楽だ」
話がずれている、と婚約者様は言う。
「この狭い、不便な所の方が多い家で、お前はまるで帰ってくるのが当たり前の事のように日常を送っている。そうしたらな」
頭をこすりつける仕草がやけに子供っぽいけれども、この人はわたしよりも二つほど年下なのだと思い出す。二歳分は、わたしのほうが姉さんだ。
「よその、来る事が特別なのだといわんばかりのしつこさの家が息苦しい」
わたしが放っておいた事が、なんだか知らないけれども肯定的にとらえられてしまっていたようだった。たしかにわたしは当たり前のように受け入れてしまって、気付けば料理の材料も食器も何もかもが、この婚約者の分も含まってしまっていた。
わたしとうばやとこの男のカップなんて、三つで安売りしていた色違いだ。
そんな特別じゃない受け入れ方が、この男にとって肩の力が抜ける事につながったらしい。
……天才と呼ばれていた男だ。将来有望と期待に期待を重ねられていた男だ。
傑物と、神に愛されていると、もてはやされていた男だ。
実際に才能は開花し、私生活はそれに比例するように荒れた男だから、もしかしたら、このどうでもいいような空間が、はじめて逃げ場になったのかもしれない。
「だからいいだろう。ここに長居しても」
「……そんな理由だったんですね」
わたしは少し呆れてから、なんだかこの男が可愛くなった。それまではふてぶてしくて偉そうで、少しばかり苦手意識のある相手だったのだけれども。
こうして腹の中身を教えてもらうと、それが薄らぐ。
「いいですよ。長居しても。なんなら、今度から寝具も用意しておきましょうか」
どうせわたしとこの男の婚約は解消されない。というのも両家のどちらもこの婚約を破棄する事が頭にないからだ。
変わり者の行き遅れと、能力は群を抜いているのに私生活は目をそむけたくなる男。
押し付けあうにはちょうど良く、手放すにはもったいない。つまり縁を結ぶ道具としてはものすごく都合がいい、そんな二人なのだから。
たぶん結婚したら王宮から邸宅が一つ、用意されるだろう。この婚約者の功績は屋敷一つを賜るに十分だけれども、独身の今それを行えば愛人を山と引き入れるなんていう、推測のために屋敷を与えられないのだから。
妻が屋敷位は管理するだろう、と思われていてもおかしくない。ましてわたしはかなり大きな名前を持った家の出身なのだから。
名前に恥じない生き方というのは難しく、そして具合の悪い物。そう言う考えに至るゆえにわたしは変わり者なのだ。
まあそんな話は置いておいて、わたしはこの男との婚約が解消されない以上、この男と憎しみ合う間柄にはなりたくない。親しい、というのか。そう言うのがちょうどいい間柄になりたい。
それにここで羽を休める事で、息がしやすいならば、出来る限り呼吸をさせてあげたいと思ったのだ。なんでここに来るのだろうと、不信感を抱いていたわたしだけれども、理由を聞かされればそんな、不信感はどこかに行く。
わたしの提案に、婚約者は顔を上げた。無表情と彫像の一歩手前を綱渡りしている、そんな美しいかんばせの中、一級品のザクロ石のような瞳が期待に満ち溢れていた。
なんだか赤い目をした子犬みたいだ。
この男はこんなにもわかりやすい部分があったのだと思うと、親近感がわく。
「なら泊まるぞ。何回も。今日からだって」
「今度から、と言ったでしょう。今日は寝具の数がないのです」
「明日から」
泊まってもいいと言ったとたんに言い始められる我儘。この男はどれだけここに長居したいのだろうか。わたしは明日の天気を思い出し、言う。
「頑張ってあした、寝具を一式用意しておきますから」
「ああ」
無表情の中の、硬質な唇の線が、美しい形で緩んだ。期待に満ちた目とその唇が合算されると、男の顔はおそろしく華やかな物になった。
「今日は帰ってくださいね」
「ああ」
その後、婚約者様は大人しく帰って行った。
わたしは翌日の早朝に起きだし、約束通りに寝具一式を用意するべく馬車を乗り回した。
人間は人生の三分の一を眠ると言うほど眠るのだから、粗悪な寝具では疲れてしまうだろう。それに相性の悪い寝具で眠る不愉快さは、わたし自身が体感して指折りに不愉快さだったから、吟味した。
客室の用意がないわが邸なので……客室用の部屋は見事に改装されて今や食糧庫の一部だ、まして使用人の部屋に婚約者を入れる事も出来ない……寝具はわたしの私室に並べて用意した。
婚約者様はその日泊まって、寝具が甚くお気に召したらしい。本邸に帰っている日の方が少ないのではないか、と思うほどしばしば泊まっていくようになった。
さっさと結婚式を上げろ、と父に言われたのはそんなある日の事で、婚約者様が厄介な盗賊の討伐に出て数日は、帰ってこないと踏んでいた日だった。
「結婚式、ですか……」
「事実婚は貴族として外聞が悪いからな。聞けばここに入り浸っていると言うではないか」
「まあ、寝泊りはしていますが」
父は脂ぎった額をハンカチで拭いながら、いう。
「子供ができたらどうするんだ。女性の胎が膨れるのはあっという間だぞ」
「父上、やる事もやっていないのですから、子供ができる事はありませんよ」
しれっと言い返すと、父は数秒黙ってから空を見上げて、身を乗り出してきた。
「何も……何もないのか……?」
浮名を流していた婚約者様だから、わたしにも手を出していると思って、父は心配してきたのだろう。見た目のあくどさに反して、実に良識的な方なのだ。
「手を握った回数すら片手ですから」
「……」
「それに、あの方には好きなお方がいますから」
わたしはねぐらを管理する大家のような物でしょうね、というと、父は耳を疑う表情をとった。
「そんな話は聞いた事がないぞ」
「食事の時に聞いてみたのです。好きな人はいるのかどうかを。この家に帰ってくる前にどこかに会いに行っているようですし」
「……お前、なにか大きな勘違いを」
「あの方が、女物の髪飾りを包んで大事にしまっているのも見かけましたしね」
父は深々と溜息を吐き、言った。
「お前がそれでいいのならいいのだが……」
「むしろ一人に絞れた事に、わたしは感心しています。一人だったら、屋敷を賜った後に迎え入れる事も簡単ですからね。わたしは名目上の妻。そのおかたは精神的な妻。すみわけが簡単でしょう? そのおかたの子供は、名目上わたしの養子にしなければ跡継ぎにはできませんけれど、そのおかたにも見守ってもらって育てれば」
「お前は婚約者を愛していないのか」
「親愛という意味では愛するようになりましたよ。貴族の結婚にこれ以上の物は厄介なだけでしょう」
そんな会話をした数日後、戻ってきた婚約者様に襲われるように一線を越えたのは誤算で、戦いで血が猛って兆したのだと思って、放置していたら何故か、しばらく婚約者は寄り付かなくなり。
好きなおかたの元に行ったのだろう、罪悪感があったのだろうと思っていたら、『鈍すぎる、限界だ!』と叫んだ婚約者様に、薔薇の花束を差し出されて、告白された。
好きな人がいるのに責任感から……とこちらが罪悪感を持っていたのに、毎日毎日愛している愛している、好きだ好きだとうわごとのように繰り返されて、ほだされて、求愛を受け入れてしまったのはそれから数か月後の事。
受け入れた途端に、なんと籍だけは入れると暴走されて、結婚式を挙げる前にわたしの名前に新たに、婚約者様の姓が加わってしまった。これに両家が唖然とし、可及的速やかに用意をし、結婚式を挙げる事になった。
そして初夜でわたしは、婚約者様が真剣にわたしを好きだという事、そして隠していた髪飾りは妻問に使おうと思っていた事、女性と会っていたのは女の好みや生き物としての注意事項……たとえば生理痛とか……を学ぶためだった事を聞かされた。
結論から言ってしまうと、彼はわたしに溺れていて、もう掬い上げられないところまでわたしにはまってしまっていたという事で、当然のように愛人は一人も作らなかった。
王宮から与えられた、比較的小さいながらも快適なお屋敷で、わたしは今も彼とうばやと、そこそこ満ち足りた生活をしている。