ともしびフード Gentle Voice
「どうした、お嬢ちゃん。そんなに泣いてしまっては、折角の綺麗な顔が台無しじゃよ。」
地獄のような日々から逃れたくて、あの街から逃げた。しかしながら、こちらの街でも止むことはなかった。止まらない負の連鎖は、しかし私にはどうすることもできなかった。
どうして良いことをするのが、悪いことなのか、さっぱり分からなかったからだ。
悪魔である私の任務は、人に嫌がらせをすること。
私には到底向かない仕事で、だからといって辞めることができない使命。
結局のところ私は、どこにいたって自分の仕事を全うできない。
絶望感に苛まれ、失望感に包まれた私は今日、老紳士と出会った。
何十年も使っていると思われる汚れた麦わら帽子。努力の証が刻まれたまばらな白髪に、人生を謳歌している者だけが許されているのであろう屈託のない笑顔のしわ。その中で、厳しい半生だったと言わんばかりの傷だらけの手のひら。優しい声。優しい、台詞。
頭を撫でられた私は、それだけで体中が熱くなった。
泣きやみそうになっていたのに。この人は、どうして。
研ぎ澄まされたナイフのように。
百戦錬磨の戦士のように。
一番嬉しい言葉を、言ってほしいタイミングで、言ってくれるのだろう。
「あの、お名前は?」
「わしはな、葉長じゃ。乙亥葉長じゃ。」
「ハナガ・・・イツガイ。」
「そうじゃよ。もしかして、海外の方かな?」
「ええ、ヘスティアです。」
「そうか…。今は、お一人かい?」
「はい。」
「友達とかは、いないのか?」
「ええと…そうですね。」
「じゃあ、ちょっと遊び来たらどうじゃろう?」
「えっと…どこへ?」
「わしの隠れ家じゃ。」
島の反対側じゃからと言っていたので、ある程度歩くことを覚悟してはいたけれど、このおじいちゃんの歩くスピードに合わせていると、やはり時間はかかった。
人のいないような島の反対側で農業を営んでいたこのおじいちゃんは、一変して町のなかでは人気者だった。と言っても、人気があるのはやはりおじいちゃんおばあちゃんで、若い人は見向きもしていなかった。色んな人が声をかけてくるなかで、少しずつ気になっていたことを聞いてみた。
「あの…」
「ん?なんじゃ?」
「ハナガって、島長なの?」
「おやおや、バレてしもうたか。」
「島長って、何をしているの?」
「特に仕事はしていないよ。皆の幸せが、わしの仕事じゃから。」
「それって、綺麗ごとじゃないの?」
「おっと、言われてしもうたなぁ。君は、綺麗ごとは嫌いかね?」
「ええ、まあ。状況が一変するわけでもないですから。そういった一時しのぎで姑息な言い訳みたいなことは、あまり好きではないです。」
むしろ嫌いだ。いじめられているときに限って、みんなそういうことを言う。まるで、RPGゲームの村人Bのように、口をそろえてそう言うのだ。
だれも苛められたことなんてないくせに。何が分かるだよ。分かるわけないだろ。
「そうか。でも、現実逃避もたまにはしなきゃ生きていけんのじゃ。君もまた同様だと、わしなんかは思ってしまうがのう。」
「現実…逃避?」
「もしかすると、誰かに逃げてはいけないと言われたかもしれんが、わしはそうは思わん。逃げたいというのは、立派な本能じゃからのう。」
その言葉に、息をのんだ。ハッとさせられた。反論なんてできない。言葉に詰まる。
逃げてもいい。逃げたいと思うのは本能。
「おや、そんなことを言っている間に着いたぞ。」
看板を見れば…というか、その佇まいを見れば一目瞭然だった。
「役場ですか。隠れ家って。」
多分実家より有名ですよね。何から隠れているんですか、これって。
「裏をかく戦法じゃよ。」
ニコッと笑うハナガは、凄くいたずら好きな少年のようだった。




