その2
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僕の大学時代の友人、山崎光一が突然、白櫻館を訪ねてきた。
彼は引っ越し祝いだと言ってワインのボトルを見せて笑ったが、その顔色は悪く無理して明るく振る舞っていることはすぐに分かった。彼は勧められるままソファーに座ったが落ち着かず、しきりに何かを気にして部屋の中をきょろきょろと見回している。
「彼ならまだ寝ているよ」
と、ついに笑って僕は言った。
「引っ越し祝いは口実。本当は彼に会いに来たんだろう?」
僕の言葉を聞いた途端、山崎の顔から笑みが消えた。彼はすがるように僕を見て、そして頭を抱えた。
「・・・すまない。とても困っているんだ。・・・そうだよな、不自然だよな。長く疎遠だったのに急に訪ねてきて引っ越し祝いもないよな」
「ワインは僕も彼も好物だよ。大歓迎だ。・・・そんなに落ち込まないでくれよ。紅茶でもどう?」
「石川、お前は相変わらずだな。見た目はいかついのに異様に優しい」
山崎は笑っているのか泣いているのか分からない複雑な表情で僕を見た。僕も複雑な表情で彼を見返す。
「それ、褒めてるか?」
「褒めてるよ」
山崎の肩から少し力が抜けたのを感じて、僕はお茶の用意をするべくキッチンに向かった。茶葉の缶を物色しながら、カウンター越しに山崎に声を掛けた。
「オレンジ・ペコとディンブラ、お前はどっちがいい? あ、アールグレイもあるけど」
「お前、何だってあの人と同棲しているんだ」
「・・・同棲じゃなくて同居だ」
憮然としながら、ティーセットをトレイに乗せて山崎のところに戻って言った。
「それに知っているだろ、高校の同級生なんだよ、あいつは」
「うん。ずっと世話を焼いていたってのは聞いているけど、でも、同棲・・・じゃなくて同居を何で今頃になって始めたんだ? 付き合いは長いんだろ」
「あいつは高校を卒業してから大学には進学しなかった」
「就職したのか」
「できると思うか、あの慢性憂鬱病の男が」
「・・・じゃあ、どうしたんだよ?」
「ニートだよ。実家が裕福なのをいいことに、ずっと家に籠って絵を描いてた。絵を描くことだけには情熱があったからな」
「そうか、あの人、本職は絵描きだもんな」
「うん。いい絵を描くんだよ」
彼の絵を思い出してうっとりとしてしまった僕を、山崎は気味悪そうに眺めた後、言った。
「それで、賞を獲ってデビューしたんだっけ?」
「そうだよ。それ自体は大きな賞じゃなかったんだけど、彼の絵は瞬く間に評判になってね。・・・賞に応募させるだけでも大変だったけど・・・」
「そこもお前が世話焼いてたのか」
「お前も知っての通り、僕は大学一年の時に児童文学の賞を獲って作家の仕事を始めてただろ。有村の絵が欲しかったんだよなあ、僕の作品に。それでまずはデビューを目論んだ」
「お前、有村さんの人生設計までやってんのか」
「大げさだよ」
僕はオレンジ・ペコのお茶を、山崎に差し出した。ミルクと砂糖、アカシアのはちみつ、それからお皿に載せたショートブレッドも置く。これは有村の好物だから欠かせない。
「有村のご両親は仕事の都合で海外で暮らしていて、たまにしか帰ってこない。実家には有村と、エリートのお兄さん、しっかり者の弟さんの三兄弟で暮らしていたんだ。家では有村の世話はそのしっかり者の弟さんがやっていたんだけど、昨年、彼は高校を卒業し、遠方の大学に入学が決まった。実家から通える距離じゃないから大学の寮に入ることになった。そしてそれと同時に、エリートのお兄さんも結婚が決まり、身重のお嫁さんが有村家に嫁いでくることとなった」
「あー、だんだん読めてきたよ。それじゃあ、有村さんの居場所もお世話係もなくなってしまうというわけだ」
「そう。で、弟さんから兄をよろしくと頼まれた。お兄さんのお嫁さんもとてもいい人で、自分が有村の世話係を引く継ぐと言ってくれてたらしいけど、さすがにこれから初めての出産をし、子育てを始めるお嫁さんにそこまでは望めないだろ? で、丁度、引っ越しを考えていた僕のタイミングとも合ったから、彼との同居に踏み切ったというわけだ。まあ、その方が仕事もしやすいから」
「なるほど。いきさつは判ったよ。それで・・・」
何か言いかけた山崎が不意に口をつぐんだ。視線を追って振り返るとそこには自分の部屋から幽霊のような存在感の無さでぼーっと現れた有村がいた。彼は知らない人間がそこにいることを不審そうにしていたが、結局何も言わず、そのまま歩き出した。
「有村!」
僕が呼び止めると、ぴたりと止まる。
「今、お前が向かおうとしているドアは玄関のドアだ。そのままだと外に出てしまうぞ。回れ右してその奥にあるドアを開けろ。そこがトイレだから」
小さく頷くと、彼は言われた通り回れ右して奥のドアに消えた。やれやれだ。
「・・・石川、あの人が有村さん?」
「そうだが」
「本当に?」
「だからそうだって」
「・・・帰るわ」
「まあ、待て」
腰を浮かしかける山崎の腕を掴んで引き留めた。
「話しだけでもしていけよ。困っているんだろ?」
「・・・うん」
また暗い顔になって山崎は崩れるようにソファーに腰を落とした。
「どうしよう、石川。こんなことになるなんて・・・双子座が」
その名を聞いた途端、僕の背中に悪寒が走った。
やっぱり、彼が絡んでくるのか。
予感はあった。それでもやはり聞きたくない名前だった。
「助けて・・・欲しいんだ。有村さんにしか頼めない・・・」
「判ったよ」
引きつる顔の筋肉を無理矢理、笑みの形にして僕は言った。
「助けるよ。大丈夫」
その言葉に、山崎も無理に笑顔を作って頷いた。
(次回につづく)
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