第五章 もう付き合えない……
ヒカリが会いに来てくれた朝から一週間が過ぎた。
クレセント・ムーンの東京での千秋楽が終わった日曜日の夜遅く、ヒカリからメールが来た。
《今から打ち上げ。今夜は遅くなる。明日は一日家にいると思うから、学校の帰りに遊びに来る? それとも、どこかで待ち合わせて映画でも行こうか》
ヒカリが東京に帰って来た。待ち合わせて会える距離にいるんだ。あたしはワクワクして返事を打った。
《帰りに寄る。待ってて》
《了解。気をつけて》
彼のメールを読んでから、あたしは携帯を握りしめた。明日はやっとヒカリに会える。ツアーに出てから三週間ぶりに、あの朝から一週間ぶりに会える。その日は嬉しくて、明日が待ち遠しくて眠れなかった。
次の日、授業が終わるとすぐにヒカリのマンションに向かった。
「ヒカリ!」
玄関のドアを開けて中に入ると、部屋から彼が出て来た。
「いらっしゃい、ユウナちゃん」
あたしが知ってるいつものヒカリ。元気そうだ。よかった。あたしたちは自然に抱き合い唇を重ねた。
「映画、行く?」
何事もなかったように唇を離し、ヒカリが訊く。
「次の上映は何時かな?」
「六時半。今から出れば、マリオンで見られるよ」
「じゃ、行こっか」
「オッケ」
あたしたちは映画を見て、次の休みにはシーパラに行って、時間をみつけて食事に行ったり、ケーキを食べに行ったり、公園に行ったり、ヒカリのマンションで一緒に食事したりして、できる限り一緒にいられるようにした。そうした時間を重ねると、このままヒカリと結婚してもいいと思うようになり、やがて、彼と早く結婚したいと思うようになった。あたしは本当にヒカリが大好きになり、彼がかけがえのない人になっていることに気づいた。
* * *
そんなある日のこと、思いも寄らない出来事があたしたちに起こった。
いつもと変わりなく学校を終えた午後だった。あたしはまっすぐ家に帰った。
家の手前で、玄関の前に数人の大人がいるのが見えた。男の人も女の人もいる。なんだろう? 怪訝に思ったそのとき、そのうちの一人があたしを見つけて叫んだ。
「あ、ユウナさん!」
知らない人から名前を呼ばれ、あたしは戸惑った。その人はあたしに駆け寄り、言った。
「クレセント・ムーンのヒカリさんとお付き合いされてるそうですが、ほんとうですか?」
心臓が飛び出そうになった。これは……マスコミの人たちだ。あたしとヒカリとのことを知って駆け付けたに違いない。
他の人たちも次々にあたしのところに来て、マイクを突き付けて言う。
「ヒカリさんとの交際は順調ですか?」
「いつ頃からお付き合いされてるんですか? 知り合ったきっかけは?」
あたしは驚いて、なんて答えたらいいのかわからず、逃げるように玄関に入るとすぐにドアを閉めロックした。心臓がバクバクしてる。
どうしよう……。どうしよう、どうしよう……。
でもどうすることもできず、フラフラと部屋に上がった。そのとき、携帯が鳴った。彩姉からだった。
「はい」
「バカッ! ドジッ! アホ祐奈っ!! あれだけ気をつけろって言ったのにっ!!」
うっ……。
「ごめん……」
「バレちゃったもんは仕方ないわ。祐奈、明日発売の『週刊ショット』のこと、知ってる?」
「え? 『週刊ショット』がどうかしたの?」
「『どうかしたの』じゃないわよ。あんたとヒカリのことがスッパ抜かれてんのよっ!!」
「えっ……?」
瞬間、パニクった。「週刊ショット」、あたしとヒカリが、スッパ抜かれて……。言葉が切れ切れに頭の中でフィードバックする……。
「祐奈、今どこにいるの?」
「家……だけど……」
「今からすぐそっち行くから。いい、家から出るんじゃないわよ。なにがあっても、友だちが来ても出るんじゃないわよ。ちゃんと玄関の鍵かけとくのよ。しっかりしなさいよ、いいわね」
それだけ言うと、電話は切れた。
あたしは、携帯を持ったまま、動けなかった。どうやら、週刊誌にあたしとヒカリのことが書かれいて、たいへんなことになってるらしい。それが原因であの人たちが家の前にいるんだ。どんな記事なんだろう。なにが書かれてるんだろう。
次第に息苦しくなり、血の気が引いて、それから胸の鼓動が激しくなるのがわかった。頭が混乱して、そのまましばらく動けなかった。どのくらいそうしていたかもわからない。
携帯の音で我に返った。ディスプレイを確認する。「彩香」。彩姉からだ。
「はい……」
「祐奈、今着いたから、玄関開けてくれる?」
「……うん」
階段を降りて玄関の前に立つ。さっきの人たちはまだいるだろうか。まさか彩姉と一緒に入って来ることはないよね……。嫌がる心に鞭を打つように仕方なく鍵を開けた。カチャリと音がして、扉を少し開くと、大きなショルダーバッグを肩から下げた彩姉が身体を滑らせて中に入った。
「ユウナさん!」
「ユウナさん、ひとことだけお願いします!」
彩姉の背後にさっきの人たちの声が聞こえる。彩姉はすぐにドアを閉めて鍵をかけてくれた。髪を整えながら言う。
「もう何件も張り込んでるのね。叔父さんと叔母さんは?」
「二人ともまだ仕事」
「そう、よかった」
いつものようにダイニングの椅子に座りながら、彩姉はあたしに目をやった。
「祐奈、こっち来て座んなさい」
ドアの前で固まってたあたしは、全身緊張しながら彼女と向い合せに座った。
彩姉がショルダーバッグから一冊の本を出し、あたしの前に置いた。
「これよ。『週刊ショット』」
表紙に目をやる。大きな見出しが目に入った。
『ショック!! クレセント・ムーンのヒカリに女子高生の通い妻!!』
それは、あたしが想像していたよりずっとショッキングな見出しだった。通い妻ってなによ!? 目の前が真っ暗になって、動くこともできなかった。
そんなあたしの心中を察してか、彩姉が本を取り、記事が書かれているページを開いてくれた。
「だいぶ前から追けられてたみたいね。気づかなかったの?」
恐る恐る記事を見てみる。ヒカリの大きな写真とあたしの写真があり、ディズニーランドらしいところで並んで笑っていたり、街中を二人で手を繋いで歩いているものもある。あたしの顔には、目のところが黒く塗りつぶされていた。まるで犯罪者みたい。ひどい。あたしはなにも悪いことしてないのに。
「幸い、あんたは一般人で高校生だから顔全部は出てないけど、見る人が見たら一発であんただってわかるわよ」
記事は、相手の女性は都内の公立高校に通う二年生で、夏頃から付き合い始めたようだ、とか、彼女は毎日のようにヒカリのマンションを訪れ、合鍵を使って自由に出入りしている、とか、一緒にディズニーランドでデートしたり食事に出掛けたりする姿が見られた、といった内容だった。本当に、ずっと追けられてたんだ。全く気づかなかった。
それだけじゃなかった。
『かなりのモテ子!?』
その小さな見出しの続きには、同級生らしいイケメンの男の子と学校の帰りに喫茶店で話し込むなど、学校内でもモテている様子、といったことが書かれている。竜樹のことだってすぐわかった。竜樹と並んで下校する写真もある。
どうしよう! 自分のことやヒカリのことだけじゃなくて、竜樹にまで迷惑かけちゃう。あたし、そんなんじゃないのに……!
「祐奈、後悔してもダメよ。この雑誌は明日発売で、もう全国の書店に渡ってるんだから。明日になれば店頭に並んで、いろんな人が買ってくのよ」
怖い……!!
「まず、ここに書かれていることは、事実なの?」
彩姉が、落ち着いた口調であたしに訊く。あたしは頷いた。
「でも、違うの。彼のマンションに行ったのは、彼の猫の世話をするためだったの。レコーディングやツアーでほとんど留守してる間、あたしが猫をみてたの。それを……」
「それを、通い妻にされちゃったのね」
彩姉は溜息をついた。
「理由はいいわ。とにかく、ここに書いてあることは客観的には事実なわけね」
あたしは悔しくて、怖くて、どうしていいかわからなくて、涙が出た。
「泣いてる場合じゃないのよ、祐奈。どうなの?」
なにも言えず、ただ頷くしかなかった。
「わかった。じゃあ、早くヒカリと連絡をとって、どう対処するか相談するのね。それと、今日からあんたの周辺は騒がしくなるから、覚悟しときなさい。家にはあのとおり記者がずっと張り込むだろうし、学校でもいろいろ噂を立てられると思うよ。この制服の写真で学校を特定できるからね」
そうだ。学校がわかったら、同級生にバレるに違いない。どうしよう……。
「叔父さんや叔母さんにも取材が来るかもね。ちゃんと言っとくのよ。ヒカリとのことは、叔父さんや叔母さん、知ってるの?」
あたしは頷いた。
「ツアーの前にうちに来てもらって、紹介した」
「そう。ならよかった」
言って彩姉は雑誌をショルダーバッグにしまった。
「じゃ、あたしは帰るけど、祐奈、しっかりするのよ」
彩姉が帰ると、お母さんが帰るまであたしは一人になる。どうしたらいいの? 電話が鳴ったら、玄関の呼び鈴が鳴ったら、インターホンが入ったら、どうすればいいの? 怖い……!!
「彩姉、帰らないで!!」
あたしは、思わず立ち上がる彩姉に叫んだ。彩姉はあたしに振り返り、落ち着いた口調で言った。
「あたしだって一緒に居てあげたいけど、今だって編集長に無理言ってここに来させてもらったのよ。すぐ社に帰らないといけないの。叔父さんや叔母さんには、あたしからも電話しておくから」
あたしの肩を掴み、顔を覗き込んで念を押した。
「いい、しっかりするのよ、祐奈。なにか困ったことがあったら、すぐあたしの携帯に電話するのよ。とにかくあんたが今することは、ヒカリと連絡をとってマスコミへの対応をどうするか相談すること。それと、取材の記者がなにか言ってきても、あんたは返事せずに無視して黙ってなさい。一言でもなにか言うと余計ややこしくなるから。玄関の鍵はちゃんとかけとくのよ。呼び鈴が鳴っても出るんじゃないわよ。電話は番号を確認して、知らない番号には出ないように。いいわね!」
彩姉の言葉が終わるか終わらないかのうちに、あたしは彩姉に抱きついて、わんわん泣いた。怖いのと心細いのとで。
「なんで……、なんで、こんなことに……なるの……?」
途切れ途切れに言うと、彩姉はあたしの背中を撫でながら小さく溜息をついた。
「あんたたちはマスコミにとっては恰好の餌なのよ。だからあれだけ注意するように言ってたのに。あんたが悪いんだからね。……って言っても、あんたはあたしと違ってシロウトだから仕方ないよね……」
それからあたしを抱いて、言葉を続けた。
「祐奈、この前、ヒカリは結婚を考えてるって言ってたよね。祐奈のほうはヒカリとこれからどうしたいの? 結婚するつもりでいるの?」
あたしは、泣きじゃくったまま頷いた。
「なら、マスコミの攻撃は遅かれ早かれ通らなきゃいけない道なのよ。ヒカリと幸せになりたいんなら、今は我慢することよ。ヒカリがなんとかしてくれるから、彼を信じて、時間が過ぎるのを待ってなさい。いいわね」
そうしてあたしの背中をぽんぽんと叩いて、帰っていった。
その後、ヒカリに電話しようかどうしようか、あたしはずっと迷っていた。彼が忙しいのはよく知ってるから、あたしから電話をかけたことはない。今度のことは遅かれ早かれヒカリの耳にも入るはずだ。恐らく彼のほうでも、もう騒ぎになってるだろう。ならば待っていればいいと思った。
思った通り、しばらくしてヒカリから電話があった。
「ユウナちゃん、大事な話があるんだ。今、大丈夫?」
あたしはすぐに大事な話の意味がわかった。彩姉が帰ってから、ずっとこの電話を待ってたんだもの。
「『週刊ショット』のことでしょ」
ヒカリは驚いたようだった。
「……知ってたんだ。誰から聞いたの?」
「さっき彩姉が来てくれて、見せてくれた。家の前にも知らない人が何人もいて……」
「そうか」
電話の向こうで、ヒカリが小さく溜息をつくのがわかった。彼も困っているみたいだった。目の前に彼がいなくても、顔が見えなくても、電話から聞こえる彼の声のトーンとかリズムで彼の様子や気持ちが手に取るようにわかる。不思議だ。
「記事、読んだんだね。ごめん、ユウナちゃん。俺がちゃんとしなかったから、こんなことになって。傷ついただろ」
ヒカリが謝ることじゃない。あたしが不注意だったんだ。
「ううん、あたしが気をつけてなかったら……。あたしこそ、ごめん、迷惑かけちゃって……」
言いながら涙が出て、言葉の後半は涙声になった。ヒカリはそれを察したみたいで、穏やかな声であたしに言った。
「ユウナちゃん、落ち着いて。俺、本当はそっちに行って、ユウナちゃんと会って話したいと思ってる。でももう記事は漏れてるから、うかつに動けないんだ。事務所にもメディアからの問合せがひっきりなしに来てる。だから、今は大事なことだけ話すね」
「うん……」
「今、事務所でマネージャーや社長やメンバーと、今回のことをどう対応するか相談してる。方法は三つある。ユウナちゃんの考えを聞きたい。まずひとつは、『プライベートなことだからコメントは出さない』っていうコメントを出す方法。これは一般的には、この記事を認めたと受け取られる。こっちからは否定も肯定もしないから、世間的には比較的早くこの件が下火になるメリットがある。一方で、記事の真偽をはっきりさせないために、俺たちの周りにはいつまでも記者がうろつくだろうことを覚悟しなきゃいけない」
なるほど、彩姉が言った、あくまでも無視するっていうことね。でも、あたしたちはずっとマスコミに付け回されるんだ。それはイヤ。
「二番目に、『彼女は友だちのひとりです』っていうコメントを出す方法。世間一般、あるいはファンに対する対策としては一番無難だ。でも俺の場合、これには問題がある。俺の周りにいる女の子は、ユウナちゃんだけだからだ。今まで、ほとんど女の子と付き合って来なかったからね。親しいのは、せいぜい聖月くらいだ。だから深く探られると、ユウナちゃんが特別な女の子だってのはすぐバレる」
そっか。ヒカリは本当に硬派だったんだ。あたしはちょっと安心したし、嬉しかった。あたしがヒカリの特別な女の子になっていることに。でも、今はそんなこと喜んでる場合じゃない。たいへんなときなんだ。
「そして三番目。『彼女とは真剣に付き合ってます』って認めてしまう方法。これにはリスクがあって、中には心無いファンもいるから、バッシングや嫌がらせに遭うかもしれない。幸いユウナちゃんは一般人で高校生だから、メディアの記者にもそれを考慮してプライベートな情報は流さないよう頼むことはできる。すべてのメディアが理解してくれるとは思えないけどね。それに、もう写真が出てるから、ネットも絡んで当面は騒ぎになるだろう。その間は辛いかもしれない。ただ、二か月くらい我慢すれば落ち着いてくると思うから、そうすれば堂々と会うこともできるし、大きな問題はなくなると思う」
二か月の我慢か。我慢って言われても、今までこんな経験ないから、なにをどんな風に我慢すればいいのかわからない。とにかく彩姉が言ってたように、黙ってときが過ぎるのを待ってたらいいのかな。
「ユウナちゃんはどうしたい?」
訊かれて少し考えたけど、ヒカリを信じて彼に任せようと思った。
「ヒカリがいいと思った方法に従う」
彼は少し考えて、言った。
「俺は、認めてしまうのが一番現実的で堅実な方法だと思ってる。ただ、噂が下火になるまでの騒ぎは半端じゃないって想像できる。恐らくユウナちゃんも誹謗中傷に遭うだろうし、根も葉もないことを言われて傷つくことがあるだろう。俺は、ユウナちゃんがそれを乗り越えられるかが心配だ」
ヒカリが本当にあたしのことを心配してくれてるのがわかる。でも、これを乗り越えないと、あたしたちはいつまで経ってもメディアに振り回され、びくびくしながら毎日を送らなければならないっていうことだよね。それなら、二か月だけ我慢するなんて、きっとどうってことない。それを過ぎれば、ヒカリと堂々と手をつないで街を歩くことができるかもしれないんだもの。
彩姉だって、ダイチとのことをみんなに認めてもらえるように頑張ってるんだ。あたしだって、きっと頑張れる。ううん、頑張ってみせる。
「あたしなら大丈夫。心配しないで」
あたしは努めて明るく言った。
「ユウナちゃん、恐らく、現実はユウナちゃんが考えてる以上に厳しいよ。覚悟しておかないと」
ヒカリが念を押してそう言う。
「あたし、ヒカリと付き合ってることをみんなに認めて欲しい。だから頑張る」
短い間をおいて、彼は優しい声で言った。
「ありがとう、ユウナちゃん。俺も俺の全部でユウナちゃんを守るよ。一緒に頑張ろう」
「うん」
ヒカリがあたしを守ってくれる。だから、あたしたちは一緒に頑張れる。ヒカリに付いて行って、一緒にこの事態を乗り切ろうとあたしは心に決めた。
「じゃあ、こっちからコメントを出すことにするよ。いいね」
「うん」
それからヒカリは、あたしたちの今までのことを正直に公表してもいいか確認し、もちろんあたしはそれを了承した。次に、あたしにいくつかの注意点を指示した。記者になにか聞かれても、あたしからはなにも答えないこと。もししつこく聞かれたら、事務所を通して聞いてくださいって言うこと。友だちになにか聞かれても、なにも言わないでいること。なにかあったらすぐにヒカリに連絡すること。もしヒカリと連絡がつかない場合は、事務所に電話すること、など。彼の真剣な言葉を聞きながら、あたしは本当に大変なことが起こってるんだと感じていた。
薄暗くなる頃、お母さんが帰って来た。
「祐奈、なんなの、あれは。家の前で知らない人からいろいろ聞かれたわよ」
彩姉が会社にいるお母さんに携帯で大まかなことは話てくれたらしい。彩姉、ありがと。お陰でお母さんも心得ていたようで、マイクを突き付けるメディアの記者たちになにも言わず、急いで家に入ったと言った。
「ごめんなさい……」
「ヒカリさんは、よっぽど人気者なのねぇ」
お母さんが呑気にそんな風に言ってくれたお陰で、あたしは救われたような気がした。
翌日は雨になった。どんよりした空を見ると、気持ちまで暗くなってくる。でも、今からそんなんじゃいけないと、あたしは自分を奮い立たせて家を出た。
思っていた通り、家の周りには何人もの記者がいて、あたしに次々と質問をしてくる。あたしはそれを無視して傘を広げ、学校に向かって歩いた。あたしは普通の高校生なのに、なにもしてないのに、なんでこんな風になっちゃったんだろう。そう思うと辛かった。
学校まで三十分くらい歩く。学校が近付くと、同じ制服を着た生徒たちを見かける。あたしの後ろで、同じ学校らしい男子二人の話し声が聞こえた。
「昨日、クレムンのニューアルバム買ったよ」
「へぇ、どうだった?」
「すんげぇ、カッコイイ。貸そっか」
「おう、頼む」
クレセント・ムーンのニューアルバムは彼らのツアーに合わせてリリースされ、初登場でオリコンの一位をとったと報道されていた。ツアーが終わった今でもベストテンに入るほどの売り上げを維持している。やっぱ人気あるんだ。嬉しい。
「クレムンて言えばさ、お前、知ってる? ウチの学校にギターのヒカリの彼女がいるらしいぜ」
あたしは息が止まりそうになった。もう噂になってる……。
「え、マジ? うそ? あいつ、高校生と付き合ってんの? うそだろ?」
「マジ、マジ。2ちゃんで夕べすげぇ話題になってた。二年の森下ってやつ。お前知ってる?」
うそ……。名前まで特定されてる。なんでわかるの? 目の前が真っ暗になっていくのを感じる。
「いや、知んねえなぁ。ひとつ下かぁ。部活の後輩に聞いてみるわ」
この調子だと、あっと言う間に全校生徒の話題になるのは間違いない。嫌だ。このまま帰ってしまおうかと思った。そのとき、ヒカリの言葉を思い出した。
——ちゃんと学校に行って授業受けないとね。これからは一時間だって無駄にできないよ。
あの早朝のヒカリの声が、あたしを後押ししてくれる。ヒカリの言葉に、ヒカリの信頼に、そしてヒカリの気持ちに応えたい。あたしたちはなにも悪いことはしてないんだもの、堂々としていよう。そう思って足を早めた。
学校に着くと、昇降口ではいくつかのグループがかたまっていて、あたしを見てヒソヒソ囁いているのに気づいた。
「来たよ、ほら、あの子」
「えっ、マジ?」
「思ったより可愛いけど、ヒカリってあんな趣味? 信じらんないよ」
教室に向かう廊下でも聞こえる。
「あっ、来た来た。ほら、あのポニーテールの」
「へぇー」
教室に入ると、やっばり一部のクラスメイトたちが噂している。
「マジ?」
「うそ」
そんな声があちこちで聞こえる。
休憩時間には、あたしのクラスの廊下に人だかりができた。その人だかりで噂が噂を呼び、余計に騒ぎになる始末。
智ちゃんが、あたしの肩を抱いて慰めてくれたのが救いだった。
「祐奈、気にするんじゃないよ。なにも悪くないんだからね。なにかされたら、あたしがガツンって言ってやるよ」
「ありがと、智ちゃん」
智ちゃんに正直に話しといてよかった。智ちゃんがいてくれてよかった。あたしは心底智ちゃんに感謝した。
放課後、担任の先生があたしのところに来て言った。
「森下、ちょっと職員室に来い」
なぜ呼ばれたかの想像はすぐついた。
職員室で、先生は噂の真偽を確かめた。そして、学校にも取材の電話が来ていることを教えてくれて、芸能人なんかと付き合うとロクなことがないと散々お説教された。
あたしは、まず騒ぎになっていることを先生に詫びた。それから、彼と真面目に付き合っていて両親にも紹介済みだと説明すると、夜家に電話をかけて両親に確かめることであたしを放免してくれた。
親に紹介しといてよかった。でも面倒臭い。本当に面倒臭い。なんでヒカリと付き合うのに、こんな思いをしなきゃいけないんだろう。あたしたちは普通に付き合ってるのに……。
学校を出ると、朝のように記者たちに囲まれた。あたしは、なにも言わず、待ってくれていた智ちゃんと一緒に家に帰った。
夜、ヒカリから電話があった。
「昼、会見を開いたよ。全部話した。明日のワイドショーはそれで持ちきりだろうな。そっちはどうだった?」
「うん。外ではマスコミの人たちに囲まれて、学校でも噂の的になってるみたい……」
「大丈夫?」
ヒカリの声はあたしの顔を覗き込むように優しくて、あたしはヒカリの腕の中で泣きたかった。でも、彼に心配かけたくない。だから平静を装った。
「うん……」
本当は、もう学校になんか行きたくない。外にも出たくない。でも、それをしてしまったら、ヒカリがもっと心配するだろう。彼に心配かけることはできない。
「しばらくは会えないけど、許してね。なにかあったら電話するんだよ。俺からも、また電話する」
ヒカリの声を聞いて少し安心したけど、今日ヒカリが開いた会見のことで、また明日騒ぎになるだろう。あたしの心は重かった。静かにして欲しい。もう放っておいて欲しい。なぜみんな、あたしのことを騒ぎ立てるの? でもそれを声にすることは許されない。
翌日は想像通り、ワイドショーの影響でか、昨日よりたくさんのメディアが家の外にいた。その日もあたしは彼らを無視して学校に行き、学校での噂も無視した。息が詰まるような時間の中、智ちゃんはずっとあたしと一緒にいてくれて、それだけがあたしの救いだった。
放課後、廊下で声を掛けられた。
「森下」
恐る恐る振り返ると、竜樹だった。彼は遠慮がちにあたしに近付いて来た。
「ちょっと、いい?」
「……うん」
彼は周囲に人がいないことを確かめ、言葉を選びながら言った。
「あの……さ、この前、森下、好きな人がいるって言ってただろ。あれって、クレムンのヒカリだったの?」
この問い掛けに正直に答えていいものか、あたしは一瞬悩んだ。答え倦ねてるあたしに、竜樹は慌てて言った。
「あっ、いいんだ。言いたくなければ、無理に聞こうとは思ってないから」
他の人だったら答えてない。でも竜樹だから、正直に話しておきたかった。
「ううん、大丈夫。当たり」
それを聞くと竜樹は小さく息をつき、笑顔を作ってみせた。
「そっか。森下の好きな奴って誰だろうって、ずっと気になってたんだ。ヒカリだったら、俺なんか相手にならないよな。これでスッキリしたよ」
無理して作ったような竜樹の笑顔が痛々しかった。
「ごめん……」
「なに謝ることがあんだよ。そいつと上手くいってんだろ?」
「ん……」
「なら、よかった。仲良くやれよ」
片手を上げてそう言って身を翻す彼に、あたしは慌てて呼び止めた。
「竜樹!」
彼は振り向いてあたしを見つめた。
「ごめん……」
ふわりと微笑んで、竜樹はあたしの肩をポンと叩いた。
「気にすんなって」
「ううん、そうじゃなくて……。んと、それもだけど、あの……、週刊誌にいろいろと書かれたこと。竜樹のことまで……」
「ああ、あれか。全然気にしてねーよ。森下も気にすんなよ」
竜樹がさらっとそう言ってくれたから、あたしは随分救われた気持ちになった。
「ありがと……竜樹」
竜樹はにっこりと笑ってくれた。
次の日の昼休み、別のクラスの女子数人に呼ばれ、トイレで因縁をつけられた。
「あんた、何様だと思ってんのよ。ちょっとヒカリを知ってるからって、いい気になるんじゃないわよ!」
お腹や胸を殴られ、足を蹴られて倒れたとろを智ちゃんが庇ってくれた。あたしは、その後トイレで泣いた。
廊下を歩いていて、わざと足を引っ掛けられたこともある。その生徒は、あたしが転ぶのを見て、してやったりという顔で笑っていた。
休み時間にこっそり呼ばれて、ヒカリのサインをねだられたこともある。ヒカリにはずっと会ってないし、しばらく会う予定がないからと断った。
そんな日々が何日も続いた。智ちゃんがいつも隣にいて助けてくれたし、最初の一週間は気を張っていたこともあって乗り切れた。けど二週目になるとさすがに心も身体もズタズタになってきた。智ちゃんにも、こんなことに巻き込んで申し訳ないって気持ちが大きくなっていって、誰にも自分の気持ちを話すことができなくなっていった。あたしは誰とも言葉を交わすことなく、ひとりで辛さや苦しさやストレスを抱え込んだ。
家の前には時間を問わず知らない人たちがウロウロしている。一歩外に出ればマイクを突き付けられる。今までなにも考えずに当たり前のようにしていた外出すらできない。インターホンや電話が鳴ればビクビクする。部屋にいてもカーテンすら開けられない。今まで毎日のように見ていた空や通りの向こうの家の屋根を、もう何日も見ていなかった。月も星も、暗い空でさえ、以前見たのはいつだろうって感じだった。机に伏して何度も泣いた。ベッドに入るといつも涙が出た。
夜も眠れない。やっと寝入ったかと思ったら、マスコミに囲まれたり、知らない人に追いかけられたり、わけのわからない夢をみて、恐怖で目がさめる。それを数回繰り返すと夜が明ける。寝不足のまま学校に行く。
なぜ、こんなになっちゃったんだろう。そして、いつまでこんな生活を送らなくちゃいけないんだろう……。いっそのこと、自分がいなくなってしまえばいい、この世界がなくなってしまえばいいと思うこともあった。あたしはそのくらい、神経が参っていた。
ヒカリからは毎日のように電話があった。携帯電話は盗聴される可能性があるので、込み入った話はできない。ただ彼の声を聞くだけでもあたしは元気が出た。でも、それも最初の何日かだけだった。
三週間目が過ぎようとした頃、あたしの心はもう折れそうになっていた。
「ユウナちゃん、元気がないね」
あたしがヒカリの声を聞いて彼の姿が目に浮かぶように、彼も声の調子であたしの様子がわかるらしい。
「ヒカリ……」
「ごめん。辛いだろ」
「あたし……、あとどれだけ我慢すればいいの? もう何日も、学校に行く以外外に出てないし、部屋のカーテンも閉めたままだよ。いつになったら、今までの生活に戻れるの?」
「ユウナちゃん……」
ヒカリは少し黙ったままなにかを考えているようだった。それから、突然言った。
「ユウナちゃん、デートしよっか」
「えっ?」
意外な提案に、あたしは彼の言葉を聞き間違えたかと思った。
「デート? だって、家の前にはまだ週刊誌やテレビ局の人たちがいるんだよ。きっとまたなにか書かれるよ」
「俺は、ユウナちゃんと真面目に付き合ってるってちゃんと公言したよ。デートしたって責められることじゃないだろ」
ヒカリの言葉は落ち着いていた。でもあたしには、彼のようには考えられなかった。
「公言したからって、いつ結婚するのか、とか、お泊まりデートとか、また変な風に書かれるんだもん。あたし、なにもしてないのに……。もうイヤ……」
電話口で涙が出る。
「ユウナちゃん。かなり参ってるみたいだね。会って、もう一度ゆっくり話をしよう。今から出れる? 迎えに行くよ」
「ダメだよ。写真とか撮られるよ」
「俺は構わないよ」
「あたしはイヤ!」
彼の言葉を拒否すると、彼は大きな溜息をついた。
「ユウナちゃん、俺たちは今、会って話すことが必要だと思う。今から行くから。来てくれるまで待ってる」
「あたしは……」
拒否しようとするあたしに、彼は一方的に言って電話を切った。
意地悪! ひどい! なにか行動すれば絶対変な風に書かれるのに。それであたしがどんなに傷つくか、ヒカリはわかってない……!!
あたしは絶対に家から出ないと決めた。
でもそれから三十分くらい経って彼がいつも公園に来るくらいの時間になったら、落ち着いていられなくなった。彼はもう公園の駐車場に着いたかな。マスコミの人たちに尾けられていないかな。あたしが来るのをじっと待ってるかな。そんな心配が次々心に浮かんできて、そわそわせずにいられなかった。
四十分、五十分と時間が経つと、彼がじっと車の中で待っている姿が頭から離れず、結局あたしはジャケットを着て外に飛び出した。ポツポツと雨が降っていた。
「祐奈さん、どこへお出掛けですか?」
「ヒカリさんとは連絡取れてますか?」
想像した通り、マスコミの人たちは家の前でずっと待ち伏せしている。もう、イヤ! あたしがどこへ行こうと、ヒカリと連絡が取れていようといまいと、関係ないでしょ。放っておいて! 心の中でそう叫び、あたしは走り出した。彼らが追いかけて来る。髪に、肩に、静かに雨が落ちる。でも傘を取りに戻る余裕なんてなかった。
あたしは公園に向かって暗い道を走った。うしろからずっと誰かが追いかけているような気がして、夢中で走った。
「祐奈さん、どこへ?」
その言葉が繰り返し耳にこだまする。実際に声をかけられているのか、それとも空耳かなんて、もうわからなかった。あたしには確かにずっと声が聞こえていた。声が、マイクが、カメラが、化け物のようにあたしに纏わりつく。逃げても逃げてもつきまとってくる……。嫌だ! 怖い! 振り払わなくちゃ。声が聞こえなくなるところまで逃げなくちゃ。どこに行くつもりなのか、どこに行けばいいのか、そんなこと考えもせずに、あたしはただ走った。
「ユウナちゃん!」
頬を叩かれて、はっと我に返った。目の前にヒカリの顔があり、心配そうにあたしの顔を覗き込んでいる。彼の髪に雨の滴がかかり、街灯に照らされてキラキラと光っていた。
「ヒカリ……」
実際になにが起きているのか、一瞬わからなかった。両方の二の腕が痛い。ヒカリの両手が強くあたしの腕を掴んでいる。
「大丈夫か?」
彼が驚いたような、真剣な目であたしを見ている。それであたしは、彼が電話で待ってると言ったいつもの公園にいるのだと気づいた。
「う……」
彼の顔を見て、今まで不安に耐えていた気持ちがぷつりと切れ、あたしはせきを切ったように泣いた。彼は両腕でしっかりとあたしを抱きしめた。
「ユウナちゃん、とにかく車に乗って」
助手席のドアを開けて、あたしを乗せてくれた。自分も運転席に座ると、彼は車のドアをロックした。
「ごめん……」
静かにそう言うと、彼は身体を捻ってあたしをそっと抱きしめた。
「辛かったね……」
あたしは涙が止まらなかった。確かに辛かった。いつもあたしの周りにマスコミの大人たちがいること。彼らに面白半分のようにマイクを突き付けられること。自由が全くないこと。根も葉もないことをさも本当であるかのように週刊誌に書かれること。学校に行けば生徒たちに興味本位の目で見られること。嫌がらせをされること。数え上げたらきりがない。そうしたことをずっと我慢して、あたしが泣ける場所は、同じ辛さを味わっているだろうヒカリの前だけだった。
ひとしきりあたしが泣くのを見守ってから、ヒカリはゆっくりと腕を解いて言った。
「どこか行こうか。行きたいとこ、ある?」
あたしは止まらない涙をしゃくり上げながら答えた。
「どこでも……いい。誰も……いないとこ……だったら……」
「そうだね……」
彼はゆっくりと車を走らせた。あたしたちは黙ったまま、しばらく車に揺られていた。
やがて海岸に着き、車が静かに止まった。彼がゆっくりと口を開いた。
「学校は、どう?」
学校でのみんなの興味本位の目を思い出して、あたしはまた気持ちが沈んできた。
「学校でもどこでも同じ。みんながあたしを不良みたいに見てる。そうじゃなきゃ、あれがヒカリの彼女だって面白可笑しそうに噂してるの。あたし、自分がいけないことしてるみたいな気持ちになる……」
ヒカリは辛そうな顔をしてあたしの話を聞いていた。まるで、あたしの胸の内を共有するように。
「ユウナちゃん」
あたしの名前を呼んだその声は、静かな中にも力強さがあった。
「ユウナちゃんは、なにも悪いことはしてないよ。堂々としてればいい」
「あたしだって、そうしたい。だけど誰もそんなこと思わないよ。週刊誌にあれだけ書かれて」
「でも、悪いことはしてないだろ? お泊まりデートとか、未成年なのにエッチしたりとか、そんなことなにもないだろ? 授業をサボって遊びに行ったり、一晩ゲーセンで夜明かししたことも、ないだろ?」
「そうだけど……」
そうだけど、そう言ったって、誰も信じてくれない。家族と智ちゃんを除いたら。
「じゃあ、堂々としてようよ。人前でデートしようよ。誰からも、なにも言われないように、外で会おう。それが誤解を解いてみんなに納得してもらえる一番の方法だと思うよ」
あたしは返事ができなかった。それで事態が沈静化するとは思えなかったのだ。でも、どう言ったらヒカリに解ってもらえるだろう。一体、なにをすれば、世間のみんなにあたしたちのことを解って、静かに見守ってもらえるだろう。あたしはそれらの答えを見つけようとして、一生懸命頭を働かせた。でもすぐには答えは見つからなかった。だって、今までも散々考えてきて、それでも答えが出なかったことだもの。そもそも、答えがあるのかどうかもわからない。あたしはもう疲れ切っていた。
「帰りたい。車、出してくれる?」
あたしが返事をしなかったことに、ヒカリは少しがっかりしたようだった。でも彼は、それを非難することはなかった。
「わかった」
言ってエンジンをかけ、彼は静かに車を走らせた。
ヒカリが外で会おうと言ってくれたのは嬉しかった。いろいろと考えて、今の状況を改善するため、あたしたちのためにそれが一番いいと結論づけて提案してくれたんだろう。彼の立場ではそうかもしれない。
でも、あたしにとってはそうじゃない。あたしが高校生だからだ。高校生という、それだけで、あたしは日本中の興味の対象になっているのだ。人気ミュージシャンと、芸能人でもなんでもない一般の高校生のカップル。人々が興味本位の目で見る理由は、それだけで十分だ。
あたしだって、もし当事者じゃなければ興味を持つだろう。普通ならなんの接点もないようなこの二人はどこで、どうやって知り合ったんだろう。どうやって連絡を取り合って、どんなデートをしてるだろう。七つも歳が違うこの二人は、お互いにどこが好きになったんだろう。一方がまだ高校生なのに、結婚するつもりで付き合ってるんだろうか。そうした疑問は、当たり前に感じるだろう。十七歳の高校生と二十四歳のミュージシャンが恋に落ちる。そのゴシップに興味を持たないわけがない。
ただ、その当事者の片方が自分だってことが問題だった。仮に堂々と外でデートしたって、あたしが高校生である限り、彼らの興味が削がれることはないだろう。あたしが卒業するまでは、あと一年半もある。それまでずっとこの生活が続くなんて、その間にあたしの頭と心はどうにかなっちゃう。
雨が車のフロントガラスを激しく叩き始めた。街の風景が雨に濡れ、それに街灯やネオンが反射して、いつもよりキラキラ輝いている。この風景はこんなに綺麗なのに……。あたしの周りとはなんて違いだろう……。
車は住宅街に入り、車に乗り込んだときと同じ公園の駐車場に静かに止まった。彼がエンジンを止めると、あたりはひっそりとしていて、ただ雨粒だけがあたしたちを取り囲むように大きな音をたてている。
あたしはその音に抵抗するように、勇気を出して言った。
「ヒカリ……、ごめんなさい。あたし、もう付き合えない……」
ヒカリは一瞬心臓が止まったかのように目を見開き、息を殺してあたしを見つめた。
「頑張ったんだけど……。もう……ダメ。今みたいな生活を続けること……できない。このままでいると、あたし、きっと頭がおかしくなる」
言いながら、ポーチからヒカリのマンションのスペアキーを出し、それをヒカリに差し出した。
「ごめんなさい……」
胸が痛む。本当はこんなこと言いたくない。優しくて、本当にあたしを大切にしてくれるヒカリと、大好きなヒカリと、このまま普通に付き合っていきたい。結婚したい。いつも一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。でも……。
ヒカリは固まったように動かなかった。あたしは赤いリボンの付いたキーをダッシュボードの上に置いた。
「今まで、ありがとう」
もうヒカリの顔を見ることはできなかった。自分の弱さが情けなく、彼に申し訳なかった。でもこうする以外、どうすることもできなかった。
車のドアを開けると同時に、ヒカリの凍り付いたような声が聞こえた。
「ユウナちゃん……」
その声に反応して、一瞬、身体が止まった。
ダメ。ここで彼の声を聞いたら、あたしの心は揺らいでしまう。そしてまたあの苦しみの中に身を置くことになるんだ。
あたしは意を決して車から出て、土砂降りの雨に打たれながらドアを閉めると駆け出した。それと同時にパワーウインドウの音がして、強い雨の音に混じって彼の声が聞こえた。
「ユウナ!!」
聞き慣れた彼の声。最後に「ちゃん」が付いていない呼びかけは初めてで、あたしは思わず振り向いた。雨と涙で滲む視界の向こうに、運転席から身を乗り出すようにしてくいいるようにあたしを見る彼が見えた。ぼんやりとした姿の中で、真剣な黒い瞳がすがるようにまっすぐあたしを見つめている。それだけがはっきりと見えた。「ユウナ、なぜだ!」と。「戻って来てくれ!」と。ふたつの瞳があたしにそう訴えている。
でもそれに応えるには、あたしの心も頭も身体も、全てが弱り過ぎていた。もう、なにもしてあげられない。涙が溢れる。
ごめんなさい! 心の中でそう叫び、あたしは身を翻して走り出した。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。
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