第一章 出会いは楽屋
「祐奈、『クレセント・ムーン』好きだったよね。今からライブの取材に行くんだけど、一緒に行くはずだった同僚が都合で行けなくなって、パスが一枚余ってるの。行く?」
従姉妹の彩香姉ちゃんからあたしの携帯に電話があったのは、一学期の期末試験が終わって、夏休みを待ちわびているある日の夕方だった。
クレセント・ムーンっていうのは、今をときめく人気バンド。ヴォーカルのSAI、リードギターのHIKARI、サイドギターのITSUKI、ベースのSHOU、ドラムスのTAIJIの五人のメンバーから成る、ビジュアル系で、超カッコイイバンドなの。音楽も素敵で、アップテンポの曲はスカッと小気味いいし、バラードはどこかクラシックっぽくて溜息がでるような素敵なメロディだったりするのよ。そんな彼らのバックステージに潜入できると言われれば、このチャンスをモノにしない手はないわよねっ!
「行くっ!!」
あたしは即答した。
「オッケ。じゃあ、すぐ迎えに行くから用意しといてね。遅れるんじゃないわよ」
言って、彩姉の電話は切れた。
彩姉はあたしより八つ年上の二十四歳。才色兼備って言葉がぴったりの、あたしの憧れの女性なの。音楽雑誌の編集の仕事をしてる彼女はいろんなミュージシャンと知り合いだし、バックステージに取材に行くこともしばしば。羨ましいったらないわ。クレセント・ムーンのバックステージに誘ってもらえるなんて、彩姉の従姉妹に生まれてよかったぁ!
クローゼットを開けて服を引っぱり出し、あれこれ鏡に映してみる。ようやく服を決め、ポニーテールを結び直して身支度を整えた頃、玄関のインターホンが鳴った。彩姉だ! あたしは大急ぎで玄関に行った。
扉を開けると、いつもの華やかな姿の彩姉がいた。明るいブラウンの巻き髪。自然なピンク系のアイシャドウとはっきり描いたアイラインやマスカラが、その大きな黒い瞳を一層魅力的に見せている。派手じゃない自然な美しさに感じるのは、彼女のメイクの腕の為せる技なんだろうな。
「さ、行くわよ」
彩姉はそう言って背を向けたかと思うと、ふっと振り帰って、あたしをじっと見た。
「な……なに……?」
「祐奈ぁ、少しはメイクして来なさいよ。もうすぐ十七歳でしょ? 口紅くらい引いたら?」
「そっ、そぉ?」
「しょうがないわねぇ。確かピンクがあったと思ったけどな」
言って、彼女は自分のバッグをごそごそと探り、ルージュのパレットを出した。手際よく筆につけると、あたしの顎を持って唇に塗ってくれた。
「ついでにシャドウもつけといてあげるね」
なんだか知らない間にあれこれ構われて、あたしは不安が半分、ちょっと大人になった気分が半分。
「よしっ、行こっ」
くるっと向きを変えると、彼女はガレージに向かって歩き出し、あたしはすぐ後ろを追いかけた。
「今をときめくクレセント・ムーンのバックステージに行くんだから、祐奈、そのつもりでね」
「わ、わかってるよ」
とは言ったものの、あたしは人気バンドのバックステージなんて行ったことがない。今から数十分後、一体なにが起きてるんだろう。いろんなことを想像しながら彩姉の車の助手席に乗った。
コンサート会場に着くと、彩姉は少し年上くらいの男の人と合流した。がっしりした体格で、髪には少し白いものが混じってるけど、笑顔がどこか子供っぽくて可愛い感じ。
「カメラマンの高野さん」
「よろしく」
挨拶を交わすと、あたしたちはホールへの入口には向かわず、楽屋に直接続く入口に向かった。彩姉は歩きながらバッグに手を入れ、なにか取り出した。
「このパスを首から下げて。『関係者です』って印だから。ここから先はこのパスがないと通れないのよ」
そう言って、あたしにパスをかけてくれた。「2010 Summer Dream Tour/ファン感謝祭 Crescent Moon」ってロゴが印刷されている。ホントに彼らのライブの楽屋に行くんだ。あたしは急に自分が別人になったような気がした。
入口のところに警備員のおじさんが立っていた。彩姉の後に続いてパスを見せる。
「どうぞ」
彼は廊下を手で示し、あたしたちは何なく入れた。パスの力って、すごいわぁ。
廊下を歩いて行くと、ひとつのドアの前で彩姉が止まった。
「クレセント・ムーン様 控室」。
きゃー、いよいよ彼らとご対面よ。実際の彼らってどんなかな。緊張で死にそう。
そんなあたしの目の前で、彩姉はコンコンとノックすると、まるで自分の部屋に入るような気軽さでドアを開けた。
「失礼しまぁーす、おはようございまーす!」
言って中に入る彩姉。
「ちょっと彩姉、もう夕方よ。おはようはないんじゃないの?」
あたしが小声で言うと、彩姉はこそっと教えてくれた。
「業界関係者の挨拶は二十四時間『おはようございます』なの。覚えとくといいわよ」
そっ、そうなんだ。知らなかった。
そのとき、数人の男の人の「ウーッス」という声が耳に入り、あたしは中に目をやった。
一番最初に目に飛び込んで来たのは、ヴォーカルのサイの姿だった。いつもテレビや雑誌で見るのと同じ、金髪をツンツンに立てて、壁に向かって大きな声を出してる。発声練習みたい。やっぱフロントマンだけあって、目立つわぁ。ベースのショウはテーブルの脇に立ってビールを飲んでる。ドラムのタイジとギターのイツキは、床に座って足を伸ばし、ストレッチしてる。奥の椅子ではヒカリが座ってギターを弾いていた。
壁際で振り向いたサイがこっちをを見た。あたしはドキリとしてサイを見つめ返した。サイは黙ったままわずかの間不思議そうな顔であたしを見つめていた。ふと奥を見ると、ヒカリもギターを弾く手を止めて驚いたような顔であたしを見ている。
なんだろう……。あたし、なにか変かな。髪が乱れてるとか、口紅がほっぺたに付いてるとか。でも、ここで鏡を出して確かめることなんかできないし……。そう思って焦ってると、やがてサイが視線を彩姉に移して微笑んだ。
「彩香、久しぶり。タカさんも」
気さくに声をかけながら近づいて来る。
「今日は取材だっけ?」
「そうよ。次号で特集組むから、よろしく」
言って彩姉はパスを掲げてみせた。
「協力するから、いい記事書いてね」
サイは魅力的に笑い、彩姉の隣にいるあたしを再びをちらっと見た。
「隣の子は? 同僚?」
あ……あたしのこと? サイの真直ぐな茶色い瞳に間近で見つめられて、あたしはドキドキが止まらなかった。目の前の彼は白いお肌がスベスベで、金髪もツヤツヤで、背が高くてスリムで足が長くて……。ホントにカッコイイ。気後れしちゃう。
ど、どうか、あたしの髪や口紅が変になってませんように! 祈るような気持ちのあたしの横で、彩姉は普通に友だちと喋るみたいに答えた。
「同僚は急に来れなくなっちゃって。この子、あたしの従姉妹の祐奈。高校二年生。よろしく」
彩姉って、彼らと親しいんだ。羨ましいな。とは言え、ここはきちんと挨拶しとかなきゃね。
「森下祐奈です。よろしくお願いします」
あたしはペコリと頭を下げた。
「よろしく、ユウナちゃん」
サイがにっこりと微笑んであたしにそう言った。その笑顔は光が輝き立つようで、あたしはなんて綺麗なんだろうと見愡れてしまった。
そのとき、あたしの携帯が鳴って、周りにいたみんなの目が一斉にあたしに向けられた。うわっ、どうしよう。
「ご……ごめんなさい」
あたしは慌てて鞄から携帯を取り出し、画面を確認した。親友の智ちゃんからのメールだった。
《明日の映画、十時に駅でね。遅れんなよ!》
明日は智ちゃんと一緒に映画を見る約束をしてたんだった。でも、こんなときにメール送ってこなくたって……。あたしは恥ずかしくって、慌てて返信のメールを書いて送った。
《了解。帰りにH&M付き合ってね》
あたしがメールを打つのを見て、サイが驚いた顔をして言った。
「ふわぁ……。さすが女子高生は打つのが早いなぁ」
すると、サイの横からヒカリが身を乗り出してきた。
「あっ、それ、ドコモの最新型じゃん。薄いねぇ。見てもいい?」
ヒカリが手を出すから私はその手に自分の携帯を渡した。
「どうぞ」
「サンキュ」
ヒカリは携帯を受け取ると、ピッピッとボタンを押し、テーブルから別の携帯を取り上げると、あたしのと並べてもう一度ピッとボタンを押した。
えっ、それって……、電話番号とメールアドレスの交換よぉ! マジぃ??
あたしはもう言葉が出なかった。あの、クレセント・ムーンのヒカリの携帯番号とアドレスをゲットすることになるのよっ!! どーしよっ……。
「やった! ユウナちゃんの番号ゲット!」
子供のような顔で無邪気に笑って、ヒカリは自分の携帯のディスプレイを確かめた。周りのメンバーやスタッフらしき人たちが「オーッ!」と声を上げた。
「ヒカリ、やるぅ」
ヒューッと高い口笛を吹きながら、サイがヒカリの肩に手を乗せて携帯を覗き込んだ。
ヒカリは、肩に掛かる長めの黒髪を揺らしてふっと顔を動かし、私を見つめた。うわっ、今度はあのヒカリがあたしを見てる……。あたしはパニックになりそうだった。真剣な目をあたしに向けて、ヒカリは言った。
「迷惑だったかな。気に障ったら消すよ」
「いっ、いえっ。迷惑だなんて、そんなことないです!」
あたしはしどろもどろになってそう言い、後ろにいたカメラマンの高野さんに笑われた。ヒカリの携帯番号をゲットしたのに「いらない」なんて言えるわけないわよ。大事にするわ、ヒカリの番号!
「ユウナちゃん、悪用はしないから安心してね。驚かせたお詫びっちゃナンだけど、ケーキ食べる? さっき差し入れでもらったんだ」
サイはそう言うと、どこからか持って来たケーキやクッキーをテーブルに置き、お茶もいれてくれた。彩姉は遠慮なく出されたものを食べながら、彼らと話をしている。あたしはフルーツがたっぷり載ったショートケーキを食べながら、彼らの話を聞いていた。
やがて、関係者らしい人がドアを開けて顔を出した。
「クレセント・ムーンの皆さん、そろそろスタンバイお願いしまーす」
「オィーッス」
みんなは大声で発声練習なんかしながらどやどやと部屋を出て行く。あたしと彩姉も付いて行った。
廊下を過ぎ、階段を降りて、舞台裏に続く通路に出る。ステージの裾から大音量の音楽が聞こえ、会場の緊張感が伝わってきた。
クレセント・ムーンのメンバーは会場のほうを見て囁きあったり、スタッフたちとなにかを確認したりしていたけど、みんな幾分緊張してるのが伝わってきた。
それからメンバーとスタッフが輪になって掌を重ね合わせる。サイがみんなを鼓舞するように言った。
「今日も楽しいステージにしましょう! よろしくお願いしまーす!」
やがて大きなブザーが鳴り、会場に流れていた音楽が止んで照明が消えた。メンバーたちはステージに向かっていく。
「祐奈、行くよ!」
突然彩姉に言われて、あたしは彼女に振り返った。
「どこへ?」
「会場よ」
言うが早いか彩姉が歩き出したので、あたしは急いで付いて行った。
バックステージの階段を降り、ロビーの分厚いドアを押し開けると、そこは薄暗い観客席だった。彩姉は壁側の通路を少し歩いて止まり、あたしは隣に並んだ。会場を見回すと、座席はびっしりと埋まっている。さすがトップ・アーティストと言っていいクレセント・ムーンのコンサートだ。誰もが大きな期待を抱きながら、コンサートの始まりを待っているのがわかる。
突然、耳を劈くようなギターの音がし、続いて畳みかけるようなドラムスの音が響いた。会場からは「わぁーっ!」とか「キャー!」って叫び声が上がった。ステージ上の巨大なスクリーンにメンバーの映像が次々と映し出され、弥が上にもステージが始まる高揚感を誘う。次の瞬間ステージが眩しい光に包まれ、メンバー全員の姿がはっきりと浮かび上がった。
「キャーッ!!」ひときわ高い女の子たちの歓声にサイが満足したように微笑み、ビートの効いた曲を歌い始める。サイがリズムをとって動くたびに金髪がしなやかに揺れ、彼が一回りも二回りも大きく見えた。リードギターのヒカリ、サイドギターのイツキ、ベースのショウも楽屋でのリラックスした表情とは違って、真剣な顔でギターを見ながら、あるいは宙を見つめて自分の音を確かめるように弦をつま弾く。タイジが力強くドラムスティックを降り降ろす。みんなカッコイイ! 五人の創り出す音が洪水のように溢れて、あたしの全身を包み込む。あたしは夢中で彼らのステージに見入っていた。
一時間のステージはあっと言う間で、彼らは二度のアンコールに応えた。その音やパフォーマンスに心地よく酔っていると、彩姉が耳元で言った。
「祐奈、行くわよっ!」
「えっ? どこへ?」
「バックステージよ」
会場に来たときと同じように、身を翻して颯爽と歩く彩姉の後ろを、あたしはひょこひょこと付いて行った。
バックステージで待っていると、ライブを終えたクレセント・ムーンのメンバーが戻って来た。
「お疲れさま」
彩姉がにっこりと笑い、メンバーと会話を交わしながら控室に向かう。あたしはただ彩姉に付いて歩くだけだった。
控室で、彩姉はしばらく彼らにインタビューをしていた。あたしは彩姉の横で、テキパキと会話をする彼女はホントにカッコイイな、とか、クレセント・ムーンのメンバーはやっぱり素敵だな、とか思いながら、夢を見ているような気分で時間を過ごした。
やがて彩姉がにっこりと笑いながら立ち上がった。
「ありがと。じゃ、特集楽しみにしててね」
「おうっ。事務所に何冊か送っといてよね」
「もちろん」
あたしたちはドアに向かい、サイがそれを見送ってくれた。
「じゃ、彩香、タカさん、またね」
「うん」
そして、サイは視線をあたしに向けた。
「ユウナちゃん、また遊びにおいで」
サイがあたしの名前を覚えてくれてる! あたしはびっくりした。サイって、記憶力がいいのかしら。人の名前を覚える天才とか。
「は……はいっ」
結局、あたしは終始緊張がほぐれることのないまま、会場を後にした。
家に帰ってお風呂に入ると、やっといつもの生活に戻った気がした。ドレッサーの前に座り、ドライヤーで髪を乾かす。
今日は、ホントに夢を見てるみたいだったなぁ。クレセント・ムーンの楽屋に行ったなんて。しかも、サイに名前覚えてもらっちゃったし……。
会場での出来事をあれこれ思い出してると、手元の携帯が鳴った。智ちゃんかなと思った。
携帯を開き、メールの中身を確かめてみる。
《クレセント・ムーンのヒカリです》
「はっ!?」
あたしは思わず叫んだ。な、なんでヒカリからメール!?
慌てて本文を読む。
《夜遅くにごめん。まだ起きてるかな? 今日はコンサート観てくれてありがとう。楽しんでもらえた? 勝手に携番とアドレスコピーさせてもらってゴメンね。イヤなら削除するから言ってね》
あたしの脳裏に、楽屋で見たヒカリの、無邪気にはしゃぐ姿が甦った。
ホントにヒカリからのメールみたい……。半信半疑だけど、ヒカリがあたしの携番をコピーしたのを知ってるのは、クレセント・ムーンのメンバーと関係者、それに彩姉だけだもんね。ヒカリが他の誰かにあたしのアドレスを教えたんじゃなければ、これは本人からに間違いない。
勝手にコピーしたこと、まだ気にしてるんだ。そんなに気にしなくていいのに。
《コンサート、とっても楽しかったです。感動でした! 携番のこと、気にしないで下さい。私も教えてもらって嬉しかったから》
あたしはそう書いて送信した。ヒカリからすぐに返信が来た。
《ありがとう。そう言ってもらえて安心したよ。またメールしてもいい?》
うわっ、あたし、ヒカリとメルトモ? そりゃ、嬉しいけど……。
《メールいつでもどうぞ。楽しみに待ってます》
からかわれてるのかなぁと、半ば心配な気持ちで返信すると、また返信が来た。
《ありがと。またメールするね。おやすみ、ユウナちゃん》
またメールって……ホントかなぁ……。とりあえず、あたしもあいさつを返した。
《おやすみなさい》
そしてしばらく待ってみたけど、ヒカリから返信は来なかった。そうだよね、「おやすみ」って挨拶したんだものね。
それっきり鳴らない携帯に、ちょっと寂しい気持ちと、この携帯の向こうにヒカリがいるんだっていう不思議な気持ちを抱えて、あたしは眠った。
* * *
次の日は、予定通り智ちゃんと映画を観に行き、帰りにH&Mに寄ってTシャツを買った。
智ちゃんに昨日のことを話そうかと、あたしはずっと迷っていた。でも、結局それはできなかった。あのクレセント・ムーンのヒカリから個人的にメールをもらったなんて信じてもらえないだろうし、もしこのことが他の人に知れたら、ヒカリに迷惑がかかるかもしれないと思ったから。
智ちゃんに秘密を持ったような気がして、どこかしらうしろめたさを感じながら、その日は家に帰った。
ヒカリから二度目のメールがあったのは、その翌日の夜だった。
《今週末、ロゼのコンサートを覗きに行く予定なんだけど、よかったら一緒に行かない?》
ロゼって言ったら、クレセント・ムーンと同じくらい人気があるバンドなのよ。ヴォーカルのダイチは、背が高くてスリムでカッコイイの! 先週に続いて、またもビッグバンドのコンサートに誘ってもらえるなんて。しかも、ヒカリから! あたし、普通の女子高生なのよ? そんなことがあっていいのかな……。
と心の底で思いつつ、ここはせっかくの機会だからっ。
《ありがとうございます。行きますっ!》
《よかった。じゃ、前日に詳しいことメールするよ》
うわ、なんか、すごいことになったぞ。ヒカリと二人で行くのかな? それともバンドのメンバーと? あるいは他の関係者も一緒とか?
詳しいことが全くわからないため、あたしは期待と不安を半分ずつ抱えたまま週末を待った。
* * *
その週の金曜日は、一学期の終業式だった。やっと一学期が終わった安心感と、見たくない通知表をもらう憂鬱と、そして明日からの補習に向けて気持ちの切り替えをする。
そして、もうひとつ忘れちゃいけないのが、学園祭の準備。二学期が始まると、すぐに学園祭があるの。だから、夏休みの開始と共に準備にかからないといけない。
あたしたちのクラスはお化け屋敷をする予定。コースの概要、大道具、小道具、衣裳、宣伝など、いろいろなグループに分かれて準備をしていく。
あたしは効果音担当で、男子三人、女子三人の合計六人グループで作業することになった。
放課後、早速効果音のメンバーが教室の隅に集まり、今後の手順について話し合った。仕切るのは、クラスでも人気が高い小野竜樹。中学のときに同じクラスだったこともあって、竜樹のことはよく知っている。比較的背が高く、ジャニ系のイケメンで、頼れる存在だから、女子にはかなり人気。一年のときに同じクラスの子と付き合ってたらしいけど、二年になってすぐに別れたって噂を聞いた。今はフリーらしい。
「放送室に効果音集のCDがいくつかあるみたいだから、探してみようぜ。とりあえず、どんな効果音が必要かリストアップしていこう。森下、メモってくれる?」
竜樹がちらっと視線をあたしに向けながら言う。
「あ、うん」
突然、書記のご指名だったけど、あたしは鞄から小さなノートを出して書き始めた。
『・放送室で効果音CDを探す。
・必要な効果音リスト』
「ヒュー、ドロドロ、は絶対いるよな」
「木魚の音とかあったほうがよくね?」
「お経をあげてる声とか?」
男の子たちは既に盛り上がって、次々とアイデアが出る。
「悲鳴を大音量で流したら、廊下通った人の興味引くだろうな。ギャアァァーーーッ! ってさ」
「やーん、やめてよぉ」
内容が内容だけに、女の子たちは一歩退いてしまう。あたしは鉛筆片手に、そんなみんなの様子を面白おかしく見ていた。
結局、基本的な効果音は準備しておき、残りの音はコースの中身がはっきりした時点でもう一度作り直すことになった。
「遅くなったな。さ、帰るべ」
「おう、帰ろ、帰ろ」
あたしたちはそれぞれに鞄を持って教室を出た。
廊下に出ると、あたしは不意に竜樹に声をかけられた。
「森下、帰り道同じ方角だったよな」
「あ、うん、そうだね」
「一緒に帰ろうぜ」
えっ……、なんで……? それまで竜樹と一緒に帰ったことはなかったので、一瞬びっくりした。ま、この状況だからいっか。
「う、うん」
あたしたちは、昇降口を出ると並んで歩き出した。
「今日もあっちーなー」
竜樹が片手を額に当て、焦げ茶色の髪をさらっと揺らしながら空を見上げる。背がすらりと高く、整った優しいマスクの彼は、とっても絵になる。隣で見上げるあたしも「イイナァ」って思わず思ってしまう。去年付き合ってたっていう彼女と、なぜ別れたんだろう。
竜樹がふっと視線を下げてあたしを見たので目が合い、あたしは一瞬ドキンとした。
「行こうぜ」
「う、うん」
竜樹が大きなストライドで一歩踏み出し、あたしも後に付いて歩いた。
「来週から補習かぁ。だりィなぁ」
学校から続く午後の並木道を、あたしたちはゆっくりと話をしながら通り過ぎた。
「だね。予習もしなきゃいけないし」
「だよな。毎日何時間も机に座ってお勉強ってのは苦手だよ、俺」
竜樹が子供のような口調で言うので、あたしは吹き出しそうになってしまった。
「そうだね、竜樹は体育会系だもんね。バスケ部だっけ?」
「ん?」
彼はあたしに視線を下ろして、何気ない口調で言った。
「バスケは辞めたんだ、二年になったとき」
中学のときからバスケ部で人気があった竜樹だから、まだ部活を続けてるものだとばかり思ってた。辞めたなんて意外だった。
「そうなんだ。中学でも三年間ずっとやってたでしょ。勿体ないじゃん」
「まぁね」
ちょっとぶっきらぼうな彼の口調が、このことについてはあまり触れられたくないと言ってるような気がしたので、あたしは話題を変えた。
「ホントに暑いね。アイス買って帰ろっかな」
すると竜樹はいたずらっ子みたいに顔を輝かせて言った。
「っていうより、食ってこうぜ。買って帰ったって、家に着いた頃には溶けてるよ。『シェ・ブラン』行かね?」
『シェ・ブラン』っていうのは、通学路の途中にある喫茶店。ちょっとオシャレで気軽に寄れる雰囲気のお店なので、部活帰りの生徒たちがよくたむろしてる。でも、一応学校帰りには寄り道しちゃいけないってことになってるのよね。
「先生に見つかったら……」
「大丈夫。俺が上手く言うから」
半ば竜樹に押し切られる形で、あたしたちは『シェ・ブラン』に寄った。
扉を開けて中に入ると涼しい風が身体を包み、生き返った気がした。冷房がほどよく効いている。
壁際のテーブルに竜樹と向い合せに座る。
「なににしよっかなー」
言いながら、竜樹がメニューを開く。
「あたし、チョコパフェ!」
言うと、竜樹が笑いを堪えたようにあたしを見た。
「なんだよ、速攻か?」
「うん! だってここのパフェ美味しいんだもん。お腹すいたし」
「確かに腹はへったけどなぁ……。それより氷。俺、宇治金時!」
竜樹は、やって来たお姉さんにオーダーを告げてメニューを閉じた。
やがてお姉さんがパフェとかき氷を持ってきて、あたしたちはそれらを食べながら取り留めのない話をした。
初めてゆっくり話をした竜樹は思っていたより人懐っこく、でもしっかりしていて頼れるクラスメイトって感じだった。人気があるのがわかるなぁと思った。
夜、ヒカリからメールが来た。
《明日のロゼのコンサート、ユウナちゃん家に迎えに行くよ。どこらへん?》
えっ! そんな、ヒカリに迎えに来てもらうなんて、ヤバイよっ!
《大丈夫です。会場まで行きます》
あたしはそう返事したんだけど、ヒカリは家まで行くからって言うんで、結局家の近くの公園の駐車場で待ち合わせることにした。
* * *
翌日の夕方、あたしが五分前に公園に行くとヒカリはもう到着していて、歩いて公園に入るあたしを見つけ、車から出て来た。
「ユウナちゃん、久しぶり」
モノトーンのカジュアルなスーツに身を包み、サングラスをかけて煙草を片手に持つヒカリは本当に絵になる。このルックス、いかにもミュージシャンだ! クレセント・ムーンのヒカリだ! 本物だよっ! あたしは彼が人気アーティストであることを改めて感じた。なぜ、あたしなんかを誘ってくれるんだろう?
「来てくれてありがとう」
言いながら彼は車の反対側に回り、ドアを開けてくれた。あたしは今までそんな扱いを受けたことがなかったので、なんだか大人の男の人を見たような気がした。
「いえ、あたしこそ、誘ってくださってありがとうございます」
しどろもどろでそう言って車に乗り込む。
「どこか寄りたいとこある? あったら行くけど」
エンジンをかけながら、ヒカリが訊いた。
「いっ、いえ。ないです」
あたしが言うと、彼はちらっとこっちを見て、にっこり微笑んだ。
「そう。じゃ、会場に直行するよ」
「はい」
煙草を消して、ヒカリはゆっくりと車を走らせた。
カーステレオから英語の歌が聞こえてくる。男の人のヴォーカル。誰だろう? あたしがつまらなそうな顔をしてたからか、ヒカリが訊いてきた。
「音楽、うるさい?」
あたしは首を振った。
「いいえ。これ、誰の曲ですか?」
ヒカリは小さく笑いながら答えた。
「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ。知ってる?」
なんとなく聞いたことある。
「名前だけ……」
あたしがそういう音楽を聴かないと思ったのか、ヒカリはダッシュボードを指差して言った。
「そこにCDがいくつかあるから、好きなの選んでいいよ」
へぇ、ヒカリってどんな音楽聴くんだろう。あたしは目の前のダッシュボードを開けて、無造作に置かれたCDから何枚かを掴んだ。一番上にレッド・ホット・チリ・ペッパーズのケース。今流れてるのはこれなんだ。その下はマライア・キャリー。それからAquaTimes、Dir en grey、Marilyn Manson、シド、ラルク……。へぇ、ヒカリってこんなの聴くんだ。
その下には、少し雰囲気の違うジャケットのCDがあった。どこまでも続く草原のような風景に、ひらひらと風に靡く女性の白いスカートが印象的な絵。「IPPOLITOV IVANOV : CAUCASIAN SKETCHES」淡い黄緑色の文字でタイトルが書かれてる。……イッポリトフ・イワーノフ? クラシックみたい。そんなのも聴くのかな、意外。
「いいのあった?」
ヒカリの言葉に驚いて顔を上げた。
「この、イッポリトフ・イワーノフって?」
ヒカリは、あぁ、と小さく頷いた。
「『コーカサスの風景』ね。時々聴きたくなるんだ」
言って彼はあたしの手からCDを取った。
「でも、こんな場でクラシックもナンだから」
かけてくれるのかと思ったら、後部座席にポイッと投げてしまった。
「気に入ったのあった?」
「このままでいいです」
「そう」
車内には変わらずレッチリの重い音楽が流れている。
しばらくしてヒカリが口を開いた。
「ユウナちゃんてさ、名前、どんな字書くの?」
「ユウはシメスヘンに右、ナは奈良県の奈です」
「そっか。可愛い名前だね」
「ありがとうございます」
ヒカリに可愛い名前なんて言われて、ちょっと恥ずかしかった。
「ヒカリさんは、本名なんですか?」
あたしが訊くと、ヒカリは可笑しそうに笑った。
「ヒカリさんなんて言われたの初めてだ。ヘンな感じ。ヒカリでいいよ。本名だよ」
ヒカリでいいよ、なんて言われると、今度からヒカリって呼び捨てにしなきゃいけないのかな。複雑な心境。
「名字は? 訊いていいですか?」
「いいけど……」
言って、ヒカリはあたしをチラッと見た。
「公表してないから、教えるには条件を出したいな」
「な……なに?」
ヒカリに流し目で見られて条件だなんて、あたしはドキッとした。なにを言われるんだろう。
「俺と話すときに、敬語を使わないこと。本名知ってる子と敬語で話すなんて、嫌だもん」
なんだ、そんなことか。あたしはホッと小さく息をついた。
「はい」
「はい、じゃなくて、うん、だろ」
「あ……う、うん」
促されてそう言うと、ヒカリはアハハと楽しそうに笑って教えてくれた。
「本名は大橋光。オオハシは大きな橋ね、ヒカリは光るって字」
「へぇ……そんな普通の名前なんだ」
「そっ、どこにでもありそうな名前だよね」
ヒカリが敬語禁止にしてくれたおかげで、あたしたちは会話が弾んだ。
「サイは? サイも本名なの?」
「うん、そうだよ」
「どんな字? 彩るとか?」
するとヒカリはまたアハハと笑った。
「サイは渾名なんだよ。本名は斉藤和弥。斎藤のサイさ」
「なぁーんだ」
カッコイイ名前のサイが斎藤の斎だとわかって気が抜けそう。
「でも、ローマ字でSAIって書くと、ちょっとイイだろ」
「うん、すっごくオシャレな感じ」
「それが斎藤の渾名だって知ったら、ファンはガッカリするだうな」
「うん、あたしもちょっとびっくりした」
あたしたちは、他愛無い会話を続けた。タメ口で話してると、急にヒカリに親しみを感じるようになった。以前から知ってる近所のお兄さんとか、そんな感じ。ちょっと不思議だった。
やがてロゼのコンサート会場に着いた。
「はい、これ。使い方は知ってるだろ」
あたしはヒカリからパスをもらい、首から下げた。
カツカツと靴音を立てながら廊下を歩き、ロゼの楽屋に着いた。ヒカリはノックもしないでドアを開ける。
「ウーッス!」
中の人たちの視線が一斉にヒカリに注がれるのがわかった。
「おうっ、ヒカリ!」
うわっ、ロゼのダイチだっ! 生ダイチだっ! ギターのタツも、ベースのヒロもいる。本物だぁ! カッコイイーッ!
「あれ? 女の子連れとは珍しいな。彼女?」
ダイチに訊かれて、ヒカリは少し照れたように答えた。
「違うよ。この前知り合った子」
「なんだ、そっか」
そのとき、彼の向こうにあたしはよく知った顔を見つけて驚いた。
「彩姉……」
「祐奈……」
あたしたちは同時に名前を呼び合い、お互いにキョトンとした顔をしていた。でも考えてみれば彩姉は音楽雑誌の編集者だし、ここにいても全然不思議じゃない。
「取材?」
あたしが訊くと、彩姉は苦笑いして否定した。
「ううん、今日はプライベートでコンサート観に来たの」
「あっ、そうなんだ。いいな、プライベートでこんなとこ来れて」
「あんただって来てるじゃん」
そっ、そうだった。でもあたしは今日は特別にヒカリに連れて来てもらっただけだけど、彩姉はこんな風に自由にプライベートでミュージシャンの楽屋に訪問できるのかな。彼女が羨ましく思えた。
「知り合い、彩香?」
ダイチが訊いた。
「うん。っていうか、従姉妹の祐奈」
「へぇ、言われてみれば、どことなく似てるね、目元とか。ユウナちゃん、ケーキあるけど食べる? ヒカリも甘いもの好きだろ」
ダイチがショートケーキやらクッキーやらを出してくれたので、あたしたちはそれらをいただきながら、他愛のない話をしていた。
テレビや雑誌で見るダイチはちょっとワイルドで妖しい魅力を感じるけど、私たちにケーキやクッキーを薦めてくれる彼は気さくで優しくて、どこか頼もしい雰囲気すらした。この間サイと会ったときもそう思ったけど、ミュージシャンって、みんなこんなにイメージと実際の人柄って違うのかな……。
やがて男の人の大きな声が聞こえた。
「スタンバイお願いしまーす!」
「ウーッス!」
ダイチは大きな声で発声練習をしながら出て行き、他のメンバーやスタッフもそれに続いた。ヒカリが彩姉に話し掛けた。
「彩香は客席から観るの?」
「ううん、あたしはソデから」
「そっか。俺たちチケット取ってあるから、客席回るわ。じゃ、またな。ユウナちゃん、おいで」
ヒカリに言われて、あたしは彼と観客席に行った。
ステージ上のダイチは、やっぱりワイルドでどこか妖しい魅力があった。さっきの楽屋での印象とは違う。意図的にそんなイメージを作ってるんだろうか。
サイも、話してるときは親しみやすくてヤンチャな感じがしたけど、ステージでは一回りも二回りも大きく、大人に感じられた。なによりオーラがあって近寄り難い雰囲気だった。
あたしは、自分の隣にいるヒカリをちらっと見た。彼はどうだろう。この前クレセント・ムーンのステージを見たときはサイにばかり目がいって、他のメンバーのことはそれほど気にしていなかった。ヒカリはどうだったかな……。あたしは一生懸命思い出してみたけど、ただ黙々とギターを弾く彼の姿を断片的に思い出すだけで、それ以上の記憶はなかった。
ヒカリのこと、もっと知りたいな……。そのときあたしはそう思った。
コンサートが終わると、あたしたちは再びロゼの楽屋に行って挨拶し、会場を後にした。
駐車場で車のドアを閉めながら、ヒカリが訊いた。
「よかったら、夕食一緒にどう?」
あ、嬉しいな。そう思ったけど、時間はもう十時が近い。悲しいことに、あたしは女子高生なのよね。
「ありがとう。でも、もう帰らないとお母さんが心配するから」
「そっか、そうだね……」
ヒカリがチラリと車の時計に目をやりながらそう言った。
「じゃあ、また今度誘ってもいい?」
「うん!」
またヒカリと会えるかも。そう思うと、あたしは有頂天だった。
その夜、家の前まで送ってくれたヒカリの車を、あたしは見えなくなるまで見送った。
家に入ると、お母さんがダイニングでテレビを見ていた。
「お帰り、祐奈。遅かったね」
「うん、友だちとコンサートに行ってたから」
嘘じゃないけど、本当は、メインはコンサートのほうじゃなくてヒカリと会うほう。でもお母さんはなにも疑うことなく、お菓子を食べながらテレビを見続けていた。
「十時までには帰りなさいよ。それと、遅くなるときは電話してね」
「はぁい」
よかった。そんなに機嫌悪くなさそうだ。あたしはホッとして二階に上がった。
それ以来、ヒカリから時々メールや電話が来るようになった。
補習の帰り、智ちゃんと歩いてるときにメールが来ると、あたしは慌てて名前を確認した。そこに「ヒカリ」とあったら、隠すようにしてこっそりと内容を読む。智ちゃんが不思議そうな顔をして覗き込む。
「なに? 誰から?」
「なんでもない。知り合い」
「なんでもないなら、隠さなくたっていいじゃん。ヒカリ? 誰?」
あたしは焦ってバックレた。
「従姉妹の友達だよ」
「ふぅ〜ん」
智ちゃんがとりたてて疑ってる風でもないことに内心ホッと胸をなで下ろす。罪悪感半分で……。
学園祭の準備のために、補習の後お弁当を食べ、それから放送室で担当のみんなとワイワイ言いながら効果音を録音する日もあった。クラスの仲間と面白可笑しく話をし、笑い、ときには真剣に討論する時間。いつもの学校での時間とちょっぴり違って楽しかった。
そんな日々の中、あたしは心のどこかで、ヒカリは今なにをしてるんだろうって考えていた。寝てるのか、起きてるのか。部屋に一人でいるのか、バンドの仲間と仕事してるのか、他の友達といるのか。笑ってるのか、寂しい思いをしてるのか、困ってるのか……。ヒカリのことを知りたかった。
* * *
ロゼのコンサートから十日ほど経った夜だった。
「十時か……」
時計を見たあたしは、翌日の補習の予習をしなきゃ、と机に向かった。数学の教科書を広げたとき、携帯が鳴った。「ヒカリ」と表示が出ている。あたしはドキドキしながら携帯をとった。
「はい」
「ユウナちゃん?」
間違いなくヒカリの声だ。瞬間、あたしの心は舞い上がった。
「ヒカリ……」
「遅くにごめん。寝てた?」
優しい声。ヒカリの声を聞いたら、たとえ寝ててもすぐ起きちゃうよ。
「ううん。明日の予習をしようと思ってたとこ」
「予習? 夏休みじゃないの?」
「夏休みなんだけど、毎日補習があって」
「へぇ、大変だね。進学校なんだ」
「う、うん」
そのとき、あたしはふと思った。ヒカリの高校時代はどんなだったんだろう?
「ヒカリは、進学校だったの?」
彼はすぐに返事をしなかった。訊いちゃいけない質問だったのかな……? 少し間があってから、ゆっくりした口調で教えてくれた。
「まあ……、進学校と言えばそうだったかな。公立高だったね」
「そうなんだ。大学、明治だものね。すごいね」
彼が小さく笑ったのがわかった。
「よく知ってるね。俺たちのバンドは大学に入ってから作ったんだよ。サイとは高校のときからの仲間だけど」
「そうみたいだね。いいなぁ、大学生って楽しそうで。あたし、早く試験のない生活したい」
「キャンパスライフったって、楽しいことばっかじゃないぜ。でも、とにかく今頑張んないと希望の大学にも行けないからね。しっかりやりなよ」
「うん……」
まるでお兄さんみたいな口ぶり。七つも年上のヒカリから見たら、あたしなんてお子ちゃまなんだろうな。ヒカリはあたしの知らないキャンパスライフを知ってるし、大学受験も経験してるんだもの、当然かもしれない。あたしは取り残されたような気分になって、なんだか悲しくなった。
「そうそう、ユウナちゃん」
「なに?」
「俺、明日休みとれそうなんだけど、この前約束した食事、付き合ってくれない?」
ロゼのコンサートに行ったとき、夕食に誘われて断ったから、改めて誘ってくれるんだ。ヒカリはちゃんと覚えてくれてる。あたしは嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「うん、喜んで」
あたしがそう言うと、ヒカリも嬉しそうだった。
「よかった。なに食べたい?」
「んーと……。イタリアン!」
ヒカリがちょっと笑いながら言った。
「わかった。じゃ、六時に迎えに行っていい? この前の公園で待ってて」
「うん!」
「じゃ、明日ね」
電話はあっけなく切れた。忙しい中電話してくれたのかな。
翌日の夕方、ロゼのコンサートに行くときに待ち合わせた公園で待ってると、約束の時間にヒカリの車がすっと目の前で止まった。ピカピカのダークグリーンのワーゲン。この間と同じ車だ。
「ユウナちゃん、お待たせ」
運転席から出たヒカリが助手席に回ってドアを開けてくれた。あたしが乗り込むとヒカリはドアを閉め、運転席に戻って車を走らせた。
「行きたい店、ある?」
「ううん、あたし、イタリアンレストランなんて行ったことないから、一回行ってみたかったんだ」
「そっか」
イタリアンレストランどころか、そもそもレストランなんて、家族で年に二、三回行くくらいで、ほとんど知らないのよ。友だちとファミレス行くのがせいぜいだもの。
「道玄坂のほうに美味しい店があるんだけど、行ってみる?」
「うん!」
豪華なレストランを想像してたけど、ヒカリが連れていってくれたお店はこじんまりしてアットホームな雰囲気だった。女の子同士で来ている人も何人もいて、気さくでお洒落な感じ。
あたしたちはクリームパスタや生ハムのサラダやオマール海老なんかを食べて、喋って、笑って、お腹一杯になった。
「満足した?」
「うん、大満足! ごちそうさま!」
薄暗くなってきた駐車場への道を歩きながらヒカリが訊いたので、あたしは素直にそう言った。ヒカリはあたしを見下ろして嬉しそうに微笑んだ。
「どういたしまして。喜んでくれたならよかった」
「ヒカリは? 満足した?」
「ん、俺も満足。女の子と一緒に食べると美味しいね」
む、聞き捨てならない後半の台詞。
「よく女の子と食事するの?」
あたしが訊くと、ヒカリはとどこか遠くを見るように前を向いて、少し寂しそうに笑った。
「いや、しない。何年ぶりだろう、女の子と二人で食事したの」
「えっ……」
デビューして三年目の人気バンド、クレセント・ムーンのギタリストだしカッコイイから、ヒカリには女の子がいくらでも寄って来て、よく食事に誘ったり誘われたりするものだとばかり思ってた。そうじゃなくても彼女とかいるのが当たり前だって、あたしは決めつけてた。一緒に食事をする女の子がいないって、どういうことだろう。信じられない。
「ヒカリって……そんなにモテないの?」
あたしが言うと、ヒカリはアハハと笑った。
「どうかな」
そして、チラッとあたしのほうを見た。
「ユウナちゃんは? 彼氏いないの?」
うっ……、あたしに振らないで。いないわよ。悪いですか!?
「う……うん」
するとヒカリはあたしの顔を覗き込むようにして訊いた。
「ほんとに?」
あたしは返答に困ったけど、嘘言うわけにいかないし、頑張って正直に言った。
「ホントよっ」
「へぇ。イマドキの女子高生って、みんな彼氏がいるもんだと思ってた。そうでもないのかな」
「確かに彼氏いる子は多いけど、みんなってわけじゃないよ」
「そうなんだ。じゃさ」
ヒカリがまた上からあたしを見下ろす。
「また誘ってもいい?」
「えっ……」
あたしは驚いてヒカリを見上げた。目の前には優しい瞳があって、冗談やからかってる風には見えなかった。あたしを包み込むように輝いている。あたしたちの距離は今まで以上に近付いた気がした。この瞳をずっと見ていたい、そして、この瞳にずっと見つめられていたいと思った。ヒカリの誘いを断る理由は、ない。
「うん」
あたしは素直に頷いた。
帰りの車の中で、ヒカリは教えてくれた。今はアルバム制作前の準備段階で、プリプロダクションとかいう打ち合わせが続いてるんだって。それでアルバムの方向性が決まれば、ヒカリは今まで作ってきた曲を手直しして、それからアルバム収録のリハーサルに入る。つまり、プリプロダクションが終われば一気に忙しくなって、アルバム制作が終わるまでほとんど自由な時間がとれないって。
「それって、どのくらいの時間がかかるの?」
「んー、一か月じゃ終わらないだろうね」
「そんなにかかるの? その間、ずっと休みなし?」
ヒカリはハンドルに添えられた両手に顎を乗せて小さな溜息をつき、薄暗くなってきた街に灯る赤い信号を見ながら、答えてくれた。
「全く自由時間がないってわけじゃない。でもアルバムの収録中は精神的にもかなり追い詰められるから、遊びに行こうなんて気も起きないね。四六時中音楽のことばかり考えてる」
「そうなんだ……」
ミュージシャンってけっこうお気楽な仕事かと思ってたけど、思いのほかたいへんなんだな。知らなかった。
っていうか、そのプリプロダクションとやらが終わったら、ヒカリとあまり会えなくなるのかな。そう思うと、あたしの心が「寂しい」って呟いた気がした。
信号が緑に変わり、再び車が動き出す。
「プリプロダクションが終わるまでに、どこかに遊びに行こうか、ユウナちゃん?」
「ホント?」
あたしは嬉しくて思わずヒカリのほうを向いた。ヒカリはそんなあたしの反応が面白かったのか、小さく笑って言った。
「どこに行きたい?」
「えーっと……」
あたし、ホントに男の人とデートらしいデートってしたことないのよ。どこに行けばいいのかな。
「ディ……ディズニーランド……」
ヒカリは気乗りしないって風に答えた。
「ディズニーランドかぁ、ヤバそうだなぁ……。でもせっかくのユウナちゃんのご希望だから、行こっか」
ヒカリはそう言って、あたしのほうを向いてニコッと笑った。
ヤバそう? なにが? よくわかんなかったけど、ヒカリが連れていってくれるっていうんで、あたしの頭にはもうヒカリとディズニーランドを歩いている想像しかなく、夢ごこちだった。
時間を追うごとに暗くなっていく街は、車のライトや信号の灯りがカクテル光線のように瞬いて眩しくさえ感じる。そんな空間の中をヒカリの車は静かに加速していった。
葵です。
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