幸福な結末のその先へ(3)
数瞬の沈黙の後、金髪の女性が我に返り、怒りに美麗な顔を歪めた。
「な……なんですって、使用人の分際で!生意気にも程があるわ!いいからその手をお放しなさい!」
バチン!セルフィエルの衣服を掴むアリーシャの手の甲に平手が飛んだ。
避けようと思えば避けられたであろうその平手を、アリーシャはあえて受けた。
白い手の甲がみるみる赤くなる。
「この……!」
それでも手の力を緩めないアリーシャに焦れ、今度はその頬目掛けて黒髪の女性が腕を振りかぶった。
しかしアリーシャの顔に到達する前に、ぱしんと軽い音をたててセルフィエルの手に受け止められる。
「え……?」
掴まれた自分の手首に呆然と目をやる彼女に、セルフィエルはにっこりと微笑みかけた。
「はい、そこまで。……ごめん、今日はこの子と帰るよ」
「え?殿下!」
「本当にごめんね。でも、俺簡単に暴力を振るう女の人って嫌いなんだ」
「……」
呆然と言葉を失った女性たちに背を向けて、セルフィエルはこちらもぼんやりと自分の袖を掴んだままのアリーシャの手を優しく取ると、赤く膨れ始めた手の甲に優しく口付けた。
そこから唇を離さずに女性たちを振り返る。
「勘違いしているみたいだけど、アリーシャは使用人じゃない。俺の婚約者になる予定の女性だ。……だから今後、もし彼女を傷つけるような真似をしたら俺が許さない」
そしていまだ放心した様子のアリーシャの肩を抱くと、
「行くよ、アリーシャ」
「あ、は……はい」
足早に家に向かって歩き出した。
***
ばたん、と2人の背後で扉が閉まる。
家に辿り着くまでの道中はずっと無言だった。
「…………」
ぴりぴりと肌を刺す空気の剣呑さに、アリーシャは全身を強張らせたまま顔を上げることができない。
最初に言葉を発したのはセルフィエルだった。
「…………で?」
で、……て、何だろう。
アリーシャはそう思いながらも、消え入りそうな声を絞り出した。
「……ごめんなさい……」
「何が?」
間髪入れずに問われる。
何が。確かにそうだ。自分は何に対して謝っているのだろう。
答えられないアリーシャに、セルフィエルは幾分口調を和らげてもう一度尋ねた。
「……アリーシャ、ちゃんと考えて。何で、こんなことしたの?」
「……すみません……」
「怒ってるわけじゃなくて、知りたいだけ。ねえ、ちゃんと考えて。何で?」
「…………わか、りません…………」
セルフィエルは小さくため息を吐いた。これでは埒が明かない。
(……まあでも、いいか)
アリーシャが自分のことをどう思っているのか、本当はいつも不安だった。
抱擁も口付けも、求めるのはいつもセルフィエルばかりで。
焦ってはいけないとわかっていても、今朝のようにアリーシャが他の男にとっても充分魅力的だということを再確認してしまうと、底のない焦燥感に支配されてしまってもう駄目だった。
本当は待ちたい。アリーシャが自分から気持ちを告白してくれるまで。
だがそうできるだけの余裕がセルフィエルにはなかった。
自信が欲しかった。彼女も自分のことを想ってくれているという確証が。それさえあれば、もう少しだけなら、待ってあげられる気がした。
(……わたしのもの、触らないで、か……)
先ほどのアリーシャの言葉を思い出し、思わず頬が緩みそうになるのをどうにか抑える。
おまけに名前で呼んでくれた、人前で。
それだけでも今日は、充分な気がした。
セルフィエルは苦笑を浮かべ、俯いたアリーシャの頭にぽんと手を乗せて優しく撫でた。
そして、「もういいよ、ごめんね。朝からアリーシャが恋文をもらっているのを見て、嫉妬しちゃったんだ。迎えにきてくれてありがとう。今日はもう休もう。明日の朝はまた、キスで起こしてね」というつもりで彼女の顔を覗き込んだ。
それがまずかった。
耳まで真っ赤に染まった顔。
伏せた長い睫毛の下の、潤んだ瞳。
キュッと引き結ばれた赤い唇。
「…………」
穏やかだった気持ちが一瞬にして一転した。
加虐心が頭をもたげる。
もっと、いじめたい。
「…………ねえ、ほんとはもうわかってるんでしょ?」
感情を抑えた声音に、アリーシャがはっと顔を上げる。
「俺が他の女の子と一緒にいるの見て、嫉妬したんだよね?」
瞠目して口を開いたアリーシャが何か言うよりも先に笑顔で畳み掛ける。
「でもさ、アリーシャって俺の何だっけ?恋人でもないのに、邪魔する権利、あるのかなあ?」
アリーシャは思考を停止した脳を何とか回転させ、震える唇を動かす。
「だ……だってセフィさま、わたしのこと……、その、……す、好きだって、あんなに……」
「んー、でも報われなさそうだし、たまに虚しくなるんだよね。見込みのない恋を続けるほど不毛なことってないと思うし。駄目なら傷の浅いうちに諦めたいっていうか」
「み……見込みが、ないだなんて……」
どうしてそんなことが言えるのか。
セルフィエルの考えが読めずにますます混乱するアリーシャの瞳を至近距離で覗き込む。
「……じゃあさ」
そして低めの声音で囁いた。
「今夜、アリーシャの部屋で寝てもいい?」
「…………っ」
一拍置いて、アリーシャがその意味を理解すると、見開かれたその瞳が本格的に潤み出した。
(……ここらへんかな)
充分意地悪を堪能したセインは、ぱっとアリーシャから離れた。
「なんてね、冗談。じゃあ俺もう寝るね。アリーシャも早めに寝なよ。おやすみ」
そう言って踵を返し、自室に向かおうとした。
しかし、
「……え?」
ぽすん、と。
遠慮がちに背中に柔らかいものが押し付けられ、固まっているうちに背後からくぐもった声が聞こえる。
「……好き、です」