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新しい生活



「……下、殿下、起きてください」


控えめな声とともに身体が遠慮がちに揺すられる。

本当は彼女が部屋の扉をノックしたときから目覚めてはいたが、瞼は上げずに寝たふりを続けた。


「…………」


「……殿下。遅刻してしまいますよ」


彼女の困り果てた声がため息とともに吐き出される。そんな彼女の背中を後押しするべく、セルフィエルは目を閉じたまま口を開いた。狸寝入りなど、彼女にはどうせ初めからばれている。


「……どうすればいいかは知ってるだろう。早くしてくれ。遅刻する」


「……」


あまりに身勝手な言い草と言われたことをそのまま返す子供っぽさにアリーシャは眩暈がした。

しかし言うとおりにしない限り目を開けそうにない。アリーシャは本日2度目のため息を小さく吐くと、火照る頬を小さく叩いた。

そして小声で「失礼します」と断り身を屈めて寝台に両手を付くと、セルフィエルの頬に唇を寄せた。


「……約束ですよ、起きてください、でん……っ!」


顔を赤らめながら身を起こそうとした腰を突然絡めとられて思わず均衡を崩す。

とっさに重心を移して寝台に再び手を付こうとするが、それよりも早く半身を起こしたセルフィエルの胸の中に抱き込まれた。

気が付けばアリーシャの全身は彼の立てた膝の間にすっぽりと収まっている。


「危ないじゃないですか!」


アリーシャの抗議の声を無視し、髪に頬ずりして彼女の匂いを楽しみながらセルフィエルは言った。


「ぎりぎり及第点というところかな。アリーシャ、目覚めのキスは頬にじゃなくて唇にってお願いしたはずだけど」


「……あれが精一杯です。だいたい、私が入ってくる前から起きていらしたではないですか!毎朝毎朝、なぜこんな意味のないことを……」


「意味のないことってひどいな。俺はただ、愛する人の口付けで目を覚ましたいだけなのに」


愛する人。直球にそう言われて、アリーシャはますます顔を赤くして黙った。……嬉しいけど、恥ずかしい。

彼の顔をちらりと見上げると、起き抜けとは思えない爽やかな笑顔を返された。


「おはよう、アリーシャ」


「……」


その笑顔に毒気を抜かれて、アリーシャも小さく微笑んだ。

なんだかんだいって、彼とのこの新しい日常を、彼女も気に入っているのだ。


「おはようございます、殿下。さ、早く顔を洗って、着替えて降りてきてください。くるみのパンが焼けていますよ」



***



アリーシャの作ってくれた朝食を食べながら、セルフィエルはこうして彼女と穏やかに日々を過ごせる幸せを噛み締めていた。

セルフィエルがシェットクライド州の知事に就任してから1ヶ月が経った。着任式のパレードでドーラムの町を一周した次の日には2人揃って周囲の人々から質問攻めにあったが、セルフィエルがセインと名乗っていた頃を知る人々は妙に納得していた。メリーベルとターニャ曰く、「学者の先生にしては小綺麗で洗練されていると思ったのよね」。


通常、知事は町の中心に造られた州知事公邸に住む。2階建ての瀟洒な建物の1階は公務に使われ、2階は知事の居住スペースとなる。また同じ敷地内には州知事や官僚などの主な仕事場となる州会議事堂があり、州知事に就任すれば1日のほとんどをその限られた区域で過ごすことになるのだが――――。


「じゃあ行こうか、アリーシャ」


「はい、殿下」


出かける支度が整い、2人揃って家を出る。

彼らの住まいはドーラムの町からニース村へ上る道の入り口にあった。セルフィエルから、町の中心にある州知事公邸ではなくここに住むのだと言われた時は驚いたが、反面ほっとしたアリーシャだった。10年間小さな山小屋で暮らしてきたアリーシャにとって、公邸は大き過ぎて少々落ち着かない。

そんなアリーシャの内面を見透かしたように、セルフィエルは言った。


「あんな大きな屋敷、アリーシャ一人じゃ掃除するのも大変でしょ。アリーシャ以外の使用人は雇うつもりないし。でもここなら村も近いし、今までとあまり環境も変わらずに生活できるよ」


というわけで、アリーシャは現在、住み込みの家政婦兼護衛という立場でセルフィエルと同居している。「まだ、一緒にいる大義名分が必要でしょ。アリーシャには」。あっさりと告げられ、つくづく見抜かれているとアリーシャは思う。また彼女専用の寝室も与えられており、寝るときは別々だ。

同じ寝室で寝るのかと密かに危惧していたアリーシャは、それを知った時こっそりと胸を撫で下ろした。


「アリーシャ、足元気をつけてね」


「はい、ありがとうございます」


セルフィエルは家の前で待っていた馬車の前でアリーシャに向かって手を差し出した。

その上に自分の手を重ねて先に乗り込むという一連の流れにも、もうだいぶ慣れた。


(掴まらなくても、乗れるんだけど……)


以前そう言って断ろうとしたら、「そういう問題じゃない」と一蹴された。こうして男性がエスコートするのがマナーらしい。そう言われてしまえばアリーシャには何も言えなかった。

アリーシャのあとにセルフィエルも続き、御者が一礼して扉を閉める。毎朝こうしてセルフィエルを官邸まで護衛し、買い物をしながら歩いて帰り掃除、洗濯などの家事をこなすのがアリーシャの日課になっていた。


(ええと、今日の夕ご飯は……)


早くも夕食のメニューを考え出したアリーシャをセルフィエルが愛おしそうに見つめる。


鞭の音が聞こえ、馬車は静かに走り出した。




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