第42話 夏の終わり
「……じゃあこれ、預かってた小刀と弓。刃は研いで、弓は弦を張り替えておいたから」
2日ぶりに目にする愛用の仕事道具を、アリーシャは微笑みとともに受け取った。
「ありがとう、ターニャ。……いつものことだけど、本当にいいの?」
「当たり前じゃない。アリーシャが心配しなくても、うちにはもっとお金持ちの常連さんがいっぱいいるから気にしないで。また時々余分に収穫があった時、分けてくれたら充分だわ」
「……わかった。ほんとにありがとう。うん、これから山菜もたくさん採れるし鳥獣類も活発になる時期だから、期待しててね」
猛暑もようやく和らぎ、季節は晩夏に差し掛かっていた。
日中はまだ太陽が強く照り付けるが、朝晩はずいぶん過ごしやすくなっている。じきに夏が終わり、アリーシャにとって稼ぎ時の秋がやってくるまでもう何日もないだろう。
「これでまた明日から頑張れる。お休みの日にお邪魔してごめんね、ターニャ。じゃあ、おやすみなさい」
「アリーシャ」
踵を返そうとしたアリーシャに、ターニャは数秒の躊躇いの後に声をかけた。
小首を傾げながら振り返ると、落ち着かずに伏せた視線を彷徨わせたターニャの姿が目に入る。
「……?」
滅多に見ない親友の姿に、アリーシャの心がわずかに心配に曇る。そういえば今日はずっとこんな様子だった。何か相談事でもあるのだろうか。
「どうしたの、ターニャ」
戸口に向かいかけていた身体を反転させ、再び友人のもとに歩み寄る。顔を覗き込むと、ターニャは意を決したように口を開いた。
「あ……あのね、アリーシャ。その……アリーシャは彼のこと、まだ待ち続けるつもりなの……?」
遠慮がちながらきっぱりと投げかけられた問いに、アリーシャは静かに瞠目した。同時にここに来てからの彼女の態度にも合点がいく。この言葉を切り出す機会を窺っていたのだろう。いや、正確には尋ねるべきか否かを、ずっと迷っていたに違いない。
セルフィエルが「三日後にまた来る」という言葉と仄かな感触を唇に残して消えたあの日が、アリーシャが彼を見た最後だった。
それから彼からの連絡は途絶えた。
初めは都合が悪くなって少し遅れるのかもしれないと思った。
しかし1日、また1日と過ぎ、一ヶ月が経ったが彼は現れなかった。
アリーシャはセルフィエルの身に何か起こったのではないかと心配でたまらなかったが、彼の安否を確かめる手段は何もない。
三ヶ月ほど不安を抱えて過ごした後、アリーシャの頭に当然のように一つの懸念が浮かんだ。
―――――彼はもう、戻ってこないかもしれない。
この考えに辿り着くまでに、アリーシャは三ヶ月を要した。しかし考えてみれば、心配性の彼女の友人たちはもっとずっと早くにその可能性に気づいていたに違いない。
「…………」
アリーシャは数秒無言で硬直したが、伏せられたターニャの顔を見つめているうちにふと小さな笑みが漏れた。親友の心中が手に取るようにわかったからだ。
こんなことは訊きたくない。だけど、彼が消えてもう半年だ。
半年もなんの連絡もなく姿を消したままの彼のことを、アリーシャはきっと今も待ち続けている。
その結果、彼が戻ってくればいい。どんなに時間がかかっても、最終的にアリーシャが幸せになれるならば、それで。
……でももし、戻ってこなかったら?もうすでにアリーシャのことなどすっかり忘れて、新たに相手を見つけていたら。
若い娘にとって、何の音沙汰もない半年という期間は長すぎた。
現実的に考えて、彼が戻ってくる可能性は低い。ならば早く諦めた方が、アリーシャの傷は浅くて済む。
その可能性を言葉にすることで、嫌な思いをさせるかもしれない。最悪の場合、嫌われてしまうかも。
それでもアリーシャの将来の幸福のためなら辛いことでもあえて口にするのが、友人である自分の役目だ。
「……ありがとう、ターニャ」
そんな思いが緊張に強張る彼女の全身から伝わってきたから、アリーシャは静かに礼を言った。そしてターニャの心からの気遣いに応えるべく、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……正直なところ、自分でもよくわからないの。ちょっと前まではね、期待しちゃだめだって思っても、もしかしたら今日は来てくれるかもしれない、今日がだめなら明日かも、てそわそわしてたんだけど、毎日期待してがっかりしてって繰り返すうちに、これじゃいけないって思ったんだ」
彼が生かしてくれた人生だ。こんな風に彼のことだけを頼りに待っているだけの時間の過ごし方を、彼が知って喜ぶはずがない。
わたしはもう、自分では何も決められない他力本願な人間でいることはやめたのだ。
「だからね、彼のこと、いつかまた会いに来てくれる人、じゃなくて、思い出すと元気がもらえて暖かな気持ちになれる人、て思うことにしたの。仕事が大変なときや落ち込みそうになったときはね、彼のことを考えるの。そうすると自然と笑顔になれて、彼に会うときまで頑張ろう、会った時、自慢できる自分でいようって思えるんだ」
あれ、これってやっぱり待ってるってことなのかな?アリーシャはそう言って苦笑した。
「……でもね、そういう風に生きていたら、もしも仮に彼にもう会えなかったとしても、自分を誇って、人生を送ることができる気がするの」
晴れやかな笑みを浮かべて、ターニャの瞳をまっすぐに見る。
「それが今の、正直な気持ち。もちろん、もしずっとずっと期待しちゃうのを止められなくて想い続けて、どうしようもなく辛くなって疲れちゃったら……ちゃんと本気で頑張って、待つのをやめて諦めるから。……だから、心配しないでね」
しばらくアリーシャの顔を見つめたあと、ターニャは身体の力を抜いてわずかに微笑んだ。
二人の間が暖かな空気で満たされた直後、アリーシャの視線が弾かれたように戸口に向けられる。
「……アリーシャ?」
その様子を訝しんだターニャの問いかけと同時に、扉の外から声が聞こえた。
「……それは困るな」
アリーシャとターニャの瞳が見開かれる。ゆっくりと扉を開け、大きくなった町の喧騒とともに現れたのは、
「長い間、待たせてごめんね。……会いたかったよ。ただいま、アリーシャ」
紅茶色の瞳を細めて笑みを浮かべ、わずかに息を切らせて額に汗を滲ませたセルフィエルだった。