第39話 もう一度、出会うところから
冷えた双眸に射抜かれ、アリーシャは混乱した。
必死に頭を回転させようとするが、うまくいかない。
セルフィエルは左膝を寝台の上に乗せると、息遣いが感じられるほどの距離でアリーシャの顔を覗き込んだ。
温度の感じられない声音でもう一度尋ねる。
「ねえ、それだけ?」
「え……と、それだけ……って」
「じゃあ今度は、俺の番」
セルフィエルはアリーシャの言葉を強引に遮ると彼女の頬に手を添え、おもむろにその額へと口付けを落とした。
「……っ…」
今度こそ、アリーシャの脳は完全に停止した。体が固まる。
そんな彼女の背中に両腕を回して軽く力を込め、身体を密着させて両手の指でアリーシャの滑らかな黒髪を弄ぶ。さらさらと流れる感触が心地よい。
そうして柔らかな身体を完全に自分の腕の中に収めると、セルフィエルは抑揚のない声で淡々と語り始めた。
「何から始めよう……ああ、まず身分ね。これはどうしようもない。俺も気になった。でも兄上に話したら、お前がそうしたいならいいよって言われた。何かほっとしているようだったよ。俺にそういう人ができたのが嬉しいみたい。ずいぶん心配されていたんだな……。まあ確かに自分でも誰かのことを本気で好きになるなんて思ってなかったんだけど。しかもよりによって、君を。人生って本当にわからないよね……。とりあえず、国王さまが許してくれたんだから、この問題は解決。俺は誰であろうと、俺がしたいと思った人と結婚できることになりました」
ふと言葉を切った唇に唐突に耳たぶを食まれ、アリーシャの背筋を甘い痺れが抜ける。
「……っ!」
思わず抗議を込めて潤んだ瞳で睨んでみるが逆効果らしく、かえって満足気に見返され、さらに甘い声で囁かれる。
「で、次。容姿。……これは論外。何故かというと、今の俺にとって この世で一番可愛くてきれいなのはアリーシャだから。これは自信持っていいよ。なんたって生まれたときから王都中の美女を見慣れている俺が言うんだから間違いない。……まあ、惚れた欲目もあるけど。ということで、容姿の問題も解決」
優しく抱きしめられ耳元で甘い声音に睦言を囁かれるという全く未知の体験にアリーシャの顔は真っ赤に染まり、瞳は羞恥に潤んでいた。
身体中に心臓の音が反響して、何も考えられない。
セルフィエルはそんなアリーシャを愛しげに見つめると、「可愛い。そんな顔、初めて見た」と言いながら今度はこめかみに口付けを落とす。
アリーシャはとうとう耐えきれずに両瞼をきつく閉じた。
「……あとは……教養。これは同意する。いくらお祖母さんの教育があったといっても、王侯貴族の令嬢には及ばない。でも安心して。俺は気にしないけど、アリーシャが学びたいって言うなら、最高の家庭教師をつけてあげる。礼儀作法、ダンス、歴史、文学、音楽……馬術や剣術は、アリーシャには必要ないね。君より上手い先生を探すのが大変だ」
アリーシャは混乱しながらも何とか口を挟もうとするが、
「え……と」
「そして最後、……過去」
真っ直ぐな紅茶色の瞳に射抜かれ、再び絶句した。
「これに関してはね……確かに消せない。公式の史実には残っていないが、君が父上を刺したのは事実だし、直接の死の原因を作ったのも動かせない真実だ。このままだと、いくら俺が君のことを好きだとか愛しているとか言っても君は素直に受け入れられないだろうし、引け目も消えないだろう。もしかしたら一生かかっても、本当に心から俺のことを愛するのも俺の言葉を信じるのも、無理かもしれない」
その通りだ。
現実に引き戻され、アリーシャは深呼吸をした。
これだけは、どうしても無理。だって、過去は、消せない。
「だからね、アリーシャ」
別れの時が、来たのだと思った。
だからあとに続いたセルフィエルの言葉に、アリーシャは心底驚いた。
「だからね、アリーシャ……自己紹介しよう」
「は?」
聞き間違いだろうか。
思わず奇声を発して目を見開くアリーシャから少し距離を取り、セルフィエルは右手を差し出して微笑んだ。
「俺の名前はセルフィエル・シャノン・エストレア。現王ザフィエル・エストレアの弟で、職業は王を警護する近衛部隊、王室師団の団長だ。……君の名前は?」
「………あの……」
「やり直そう、最初から。出会うところから。俺はもう一度、君ときちんと恋愛がしたい。だから教えて。……君の、名前は?」
アリーシャの目が、見開かれる。
唇が震えた。
鼻の奥が痛い。目頭が熱くなる。
彼の顔がみるみる歪んで、見えなくなった。
「……っ」
やり直す。出会うところから。
そんなことが、ほんとうに可能なのだろうか。
過去は消せない。
だけど、それを知った上で、この人はもう一度、やり直してくれるというのだろうか。
出会ったところから。全てが始まる前から。
目眩がするほど甘美な誘惑。
彼が与えてくれた選択肢。
常に他人の判断に身を委ねてきたアリーシャが自分の未来を選べる、おそらくは最初で最後の機会。
そんなことが、もしも、可能なのだとしたら。
……それはなんて、幸せなことだろう。
信じてもいいだろうか。やり直したいと、思ってもいいだろうか。
もう一度、最初から。……この人と。
震える声を、何とか押し出す。
涙で曇る彼の顔を、それでもしっかりと見つめて、アリーシャは名乗った。
「……アリーシャ。アリーシャ……ローラン。先王グリエル・エストレア陛下の乳母、アーシェ・ローランの、……孫娘です」
セルフィエルが、心の底から嬉しそうに笑った。
アリーシャがその表情から目を離せずにいると、腕をゆるく引かれ、優しく抱きしめられる。
「ありがとう、アリーシャ」
耳元で囁かれ、両目から新たな涙があふれる。
息もできないほどの幸福感に包まれながら、アリーシャは静かに瞼を閉じた。