第38話 すれ違う思い
やっと、信じてくれた――――?
そう言ってセルフィエルはアリーシャに笑いかけた。
微笑んではいるが、その瞳は真剣だった。
(……ああ、どうしよう)
深い紅茶色に輝く双眸に見つめられ、アリーシャはようやく理解した。
どうしよう。この人、本気だ。本当に、わたしのことが好きなんだ。
しかし、そうなるとますます疑問が深まる。
「でも……わたしは、あなたのお父様を」
「……そのことなんだけど」
セルフィエルはアリーシャに城であったことを語り、
「本当は最後までどうしたらいいかわからなかったんだけど、全てがはっきりしてふっ切れた。今でも父のことは尊敬している。でも、アリーシャへの気持ちも本物だ。ずいぶん悩んだけど、どちらかを捨てるんじゃなくて両方の気持ちを持ったままでもいいことに気付いたんだよ」
晴れやかに笑った。
「……でもわたし、殿下にそんなに想っていただけるようなこと、何もしてません」
父への思いとの板挟みになっても諦めずにいてくれるほどの好意。
そんなものを寄せてもらえるような心当たりなど、まるでなかった。
憎しみから転じて、一体なぜそういうことになるのだろう。
「……正直なところ、自分でも何でこんなに嵌ったのかよくわからない。君に会う前は正直どんな人間かなんて想像もしてなかったんだよ。その必要もないと思ってたし」
答えながらセルフィエルは寝台に腰を下ろした。ぎっ、と小さく寝台が軋む。
急に近くなった距離に、アリーシャの心臓がどきりと跳ねる。
「でも実際会ってみて、すごく普通の女の子で驚いた。周りの人に慕われて頼りにされているのを見て、ここに来てから君はきっと必死に自分の居場所を見つけようとしてたんだなって思ったら……ふと興味が湧いたんだ。いったい何をして、どんな思いで、この10年間を過ごしてきたんだろうって」
左手をついて上体を軽くひねり、半身を起こしたままのアリーシャと視線を合わせてわずかに口角を上げる。
「……最初は、笑顔に目を奪われた。何気ない瞬間に本当に嬉しそうに笑う君を見て、何でこんな風に笑えるんだろうって思ったんだ。もう過去を忘れたからなんだって思ったけど、違った。忘れたんじゃなくて受け止めて、誰も恨まず今に感謝して精一杯生きる君の強さを素直にすごいと思った。俺はまだ、10年前のことを引き摺っていたから」
眩しそうに目を細められ、アリーシャは思わず視線を逸らして俯いた。
「……違います。過去を受け止めているとか、精一杯今を生きているとか……もしもそんな風に見えて殿下がわたしに好意を持って下さったんだとしたら、それは誤解です。わたしは10年前のことをずっと後悔して、何度死のうと思ってもお祖母さまを言い訳に実行できなくて……でも心地いいこの場所を出ていく勇気もなくて、優しくしてくれるみんなを騙し続けて。……わたしは、臆病な卑怯者です」
そうだ。
自分は彼が言ってくれたような、きれいな存在じゃない。
本当はもっと醜くて、ずるくて、汚い。
でも消え入りそうな思いで吐露した本音にも彼の表情は変わらない。
それどころか いっそう優しげな眼差しを向けられ、どうしていいかわからなくなる。
「……そうだとしても、そうやって悩みながら生きようとするアリーシャの姿に、俺は魅せられた。闇に堕ちようと思えば簡単なのに、光に焦がれてそれをぎりぎりで踏み止まっている、君の強さと弱さにどうしようもなく惹き付けられる。時折見せる寂しそうな顔も、不意に見せる心からの笑顔も、全部俺のものにしたい」
アリーシャは再び頬が火照り始めるのを感じ、俯いた顔をさらに限界まで下向けた。
その拍子に肩を長い黒髪がさらさらと何筋か零れ落ち、赤くなった顔を隠してくれる。
しかしほっとしたのもつかの間、正面から伸びてきたセルフィエルの指がアリーシャの顔にかかった髪をかき分け、温度を増した頬を優しくなぞる。
「……っ」
「……いっぱい、嘘吐いてごめんね。君の言う臆病なところも卑怯なところも、一見要領が良さそうだけど実はどうしようもなく不器用で後ろ向きなところも、全部ひっくるめて今のアリーシャを心から愛しいと思う。過去があったから今の君がいる。俺は、許されるならこれからもずっと傍にいて、どんな表情の君も見ていきたい。……だから、今すぐにじゃなくていいから、俺との未来を考えてくれないかな」
セルフィエルはそこまで言うと、黙ってアリーシャの反応を待った。
しかし、
「……なに、その顔」
自分を凝視するアリーシャの表情を目にし、セルフィエルは思わず素直な疑問が口をついで出る。
さきほどまで赤面して俯いていたアリーシャが、いつの間にか顔を仰向けて目をまん丸に見開き信じられないものを見る顔でセルフィエルを見つめている。
しばしののち、アリーシャは言い辛そうに口を開いた。
「……それはちょっと……お人好し過ぎやしませんでしょうか?」
「……は?」
今度はセルフィエルが面食らう番だった。……お人好し?
アリーシャはゆっくりと、セルフィエルに言い聞かせるように続ける。
「殿下、冷静になって、落ち着いて考えて下さい。……わたしは、確かにあなたのお父様に致命傷を負わせたのではないかもしれませんが、命を落とす原因を作ったのは確かです。わたしが、お父様の仇である事実に変わりはないのですよ。そんな女を……本気で好きだと仰るんですか」
「うん」
頷けば、アリーシャが困ったように眉尻を下げた。
「……わかりました。いいですか、本当に五百歩くらい譲って、あなたがそれでもわたしのことを好きなんだとしましょう」
「だからそう言って」
「黙って聞いてください」
我慢強い方ではないセルフィエルが進展しない言葉の応酬に焦れて口を挟むが、アリーシャが一言で黙らせる。
もはやかろうじて丁寧な言葉遣いをしていることを除けば、王族に対する礼儀は皆無だった。その光景はまるで姉が弟に向かって説教をしているようで。
(……まあ、この方がいいけど)
アリーシャが真剣な眼差しで自分の目を見て、自分に話しかけている。風土学者のセインではない、セルフィエル自身に。
セルフィエルがそのことがたまらなく嬉しかった。いつもの一線を引いた穏やかな笑みも悪くはないが、本音をぶつけてくるアリーシャの方が断然いい。
(一生懸命な顔も可愛い……)
初めて見る表情に頬が緩むのを感じながら澄んだ鳶色の瞳を見つめ返す。
そんなセルフィエルの心中も知らず、アリーシャは続けた。
「仮にそうだとしても、あなたは王弟殿下です。現国王陛下の弟君で、近衛部隊の隊長です。そんな立場にある方が、一介の村娘と結婚などと、そんなことが許されると思いますか?その上、わたしは一介の村娘よりもたちが悪い。大逆罪の、前科者なのですよ」
彼女自身を貶める発言に、セルフィエルの機嫌がだんだんと傾いていく。
しかし必死なアリーシャは彼の変化に気付かない。一息を吐き、
「だから……正気に戻ってください。王都に帰って、あなたにふさわしい貴族の御令嬢を見つけて、幸せになってください。わたしではなにもかも……身分も、容姿も、教養も、……過去も……あなたには全く、釣り合いません」
顔を歪めて言いきった。
――――しん、と沈黙が落ちる。
アリーシャは呼吸を整えながら顔を伏せた。……これで、わかってくれただろうか?
自分で言ったことに思いのほか深く傷つきながら、アリーシャは考えた。
胸が酷く痛む。何だろう、ずいぶんと久しぶりだが、この痛みには覚えがある。
そうだ、お祖母さまを残して王宮を出るときに感じた痛みと一緒だ。
寂しい、悲しい。喪失感。嫌だ、離れたくない。おいて、いかないで。
鼻の奥がツンとする。何故だろう、昨日思い切り泣いてから涙腺が壊れたようだ。
でも、どうにもならない。今回も、あの時と同じ。悲しいけど、寂しいけど、アリーシャに選択肢はない。だいじょうぶ、きっと。時間が癒してくれる。もしもまだ許してもらえるのなら、この村を出て、国外へ行こう。まったく新しい世界で、今度こそ一人で生きていくのだ。そうしたらもう二度と、誰かと別れなくていい。こんな思い、しなくていい。優しくされて、愛してもらって、……そんなのは、もう。
「言いたいことは、それだけ?」
静寂を破ったのは、聞いたこともないほど冷たいセルフィエルの声だった。
「え?―――っ」
アリーシャは弾かれたように顔を上げ、次いで思わず手元の毛布を握りしめる。
ついさっきまで温かい光を湛えていた瞳は、今は深い赤色でひんやりとアリーシャを見返している。
暖色なのに全く温度を感じさせない視線にわずかに寒気を覚えながらも、その色の変化がまるで本当にカップの中を覗き込んでいるようでアリーシャは状況も忘れて思わず見蕩れた。