第29話 夢の終わり
「…………ーシャ!アリーシャ!」
「…………?」
身体を激しく揺さぶられて目を覚ます。目の焦点をどうにか合わせると、目の前に真っ青な顔の祖母が見えた。どうやら泣き疲れて気絶してしまったらしい。
「……おばあ……さま……?」
「ああ……アリーシャ……なぜ……こんなことに……」
祖母の両目からみるみる涙があふれ、強く抱きしめられる。目の端の雪が赤く染まっていて、さきほどのことは夢ではないとぼんやりと実感した。死に際の王の言葉を思い出す。
(……わたしだけじゃない……おばあさまも……罰をうけるの……?)
じわじわと恐怖が胸を這い上がる。何か言おうと息を吸った途端、ぐいと身体を離され痛いほどに両肩を掴まれた。涙に濡れた祖母の目に射抜かれ、動けなくなる。血と涙で汚れた孫の顔を見つめ、アーシェはゆっくりと口を開いた。
「……いいですか、アリーシャ。あなたは、今からここを出るのです。レスランカとの国境にある、シェットクライド州の州都ドーラムへ行きなさい。そこから一時間ほど歩くと、ニースという小さな村があります。わからなければ誰かに聞いて……。ニース村の村長は、わたしの古くからの友人です。彼を訪ねなさい」
アリーシャは弾かれたように目を見開き、思わず叫んだ。
「いけません!おばあさま。わたしはグリエルさまを殺してしまいました。罰はきちんと受けます」
「だめです。見つかったら確実に死刑です。あとのことはわたしに任せて、早く」
「できません!」
パァン!
乾いた音と頬の熱さに平手を張られたのだと気づき、呆然とした。
「……お願いだから、言うことを聞いて……」
押し殺した泣き声混じりの声に、アリーシャはのろのろと祖母の顔を覗き込む。
「……おばあさま……」
「……ずっと、引き取ったことを後悔していました。陛下がお前を引き取るのをお許しになった時、嬉しかった……孫と暮らせることになるなんて思っていなかったから……。でもまさか、暗殺者になるために育てられることになるなんて……」
そう言って、泣きながらアリーシャを抱きしめた。アリーシャは不思議だった。なぜそんなに悲しそうに言うのだろう。こんな風になってしまったけれど、わたしは……あんなにしあわせだったのに。
「ごめんなさいね……家族らしいこと、何もしてあげられなかった……だから、せめて今、あなたを逃がすことを許して。お願いだから、ここから出て、生きて、幸せになって。もう一生、人殺しなんてしないで」
アリーシャの目がみるみるうちに再び潤み始める。
それは大好きな祖母からの、紛れもない別れの言葉だった。
「アリーシャ、おばあさまは離れていても、ずっとお前のそばにいます」
そういうとアーシェは自分の髪を結いあげていた青い飾り紐を解き、アリーシャに渡した。
「これをおばあさまだと思って、大事にしなさい」
しばし呆然としていたアリーシャだが、やがて唇を引き結んで小さく頷いた。乾いた涙の跡を、新たな雫が辿る。
アーシェは孫を見つめ満足気に微笑むと、そっとアリーシャの背中を押した。
「ゆっくりしている暇はありません。さあ、早く出るのです」
窓の隙間から風が吹き込み、灯りがゆらりと揺れた。
「……その後は……ただひたすら、祖母から聞いた地名を呟いていたことだけを覚えています。正直、どうやってニース村までたどり着いたのか記憶にありません。お金は全く持っていませんでしたから、乗合馬車かどこかの商人の馬車にでも潜り込んだのでしょう。……真冬の早朝、泥と血に塗れて突然現れたわたしを、村長さん夫婦は何も言わずに介抱してくださいました。そしてわたしに行く場所がないとわかると、この村で暮らしさないかと言ってくださいました。自力で食べていけるようになるまで自分たちが面倒を見るから、と。……信じられませんでした。わたしに優しくしても、彼らには何の利もなかったからです。……でも一緒に暮らすうちに、彼らは……ここに住む人たちは、利害なんて考えていないんだ、ということに気付きました。……本当に、感謝しています」
アリーシャが言葉を切った。向かいに座るセルフィエルは両肘を卓子に付き組んだ指の上で額を支え、俯いたまま動かない。明るい栗色の髪が、灯りに照らされていつもよりも赤く見えた。
「……これで、わたしの覚えていることは全てお話しました。……気付かない振りをしていて、申し訳ありませんでした。最初殿下がいらした時、ついに10年前の罪が露見し、王弟殿下自ら捕縛にいらっしゃったのだと思ったのですが……なぜかわたしの仕事の手伝いを申し出て下さり、果てはわたしと恋仲だという噂がたっても笑っておられるので……正直とても混乱しました。顔に出ないようにするのが大変でしたよ」
セルフィエルがのろのろと視線を上げる。アリーシャはその顔を真っ直ぐに見つめて、わずかに微笑んだ。
「……でも今は……、なんとなく、わかる気がします。……間違っているかもしれないですが」
もし、アリーシャがセルフィエルの素性に気付かず、ただの旅の風土学者の青年と思っていたら。いつも優しく気遣ってくれ、真っ直ぐな好意を向けられて、果たして自分はそれを少しでも疑っただろうか。
答えは明らかだった。恋愛経験など皆無なただの村娘である。おそらく微塵も疑問を持たずに、恋に落ちてしまっていたに違いない。
そうなった時のことを想像し、アリーシャはぞっとした。
その後に待っているのが死であっても捕縛の末の尋問であっても、アリーシャには同じことだっただろう。
奈落の底に突き落とされる。そして思い知らされる。
誰かの特別になんてなれるわけがないって、わかっていたはずなのに、また同じことを繰り返して。
なんて滑稽で、浅はかで、醜いんだろう。
そしてたぶんもう2度と、暗闇から上がってはこられない。
――――だって、最初からわかっていた今でさえ、こんなに心が痛い。
彼が自分のことを好きだなんて、一度として信じたことなどなかった。
でも笑いかけられたら嬉しかったし、甘い言葉を囁かれれば心拍数が上がって、抱きしめられたら……安心した。
こんな自分が誰かに愛されるわけがないことは、10年前にわかっていたはずなのに。
セルフィエルから優しくされる度、笑顔を向けられる度、裂けるように胸が痛んだ。そして気付いた。……ああ、これが、この人の復讐か。当たり前だが、どれだけ恨まれていたかを再確認した気がした。
目の前で呆然とアリーシャを見つめる男に目をやる。
自分の計画が最初から破綻していたことに対する衝撃から未だ立ち直れていないように、アリーシャには見えた。
だから、言わない。
全てを知っていて なお、彼の言動に一喜一憂していたことも、さきほどの熱の籠った告白に今までで一番傷ついたことも……教えない。
「…………母が」
永らく黙っていたセルフィエルが、重い口を開いた。掠れた声。アリーシャは静かに深呼吸をして、彼の次の言葉を待った。
「母が……王太后が、他界したんだ。1カ月ほど前に」
「……はい、町で人が話しているのを聞きました」
おそらく10年前も国王崩御の報がドーラムにも届いたのだろうが、ニース村に来てからの数カ月を死人のように過ごしていたアリーシャの耳には入らなかった。
「母は臨終間際に10年前何が起こったかを語ってくれた。……城に戻って休んでいたら、夜更けに啜り泣く声が聞こえて窓から外を見たそうだ。そうしたら城門を飛び越える君の背中が見えて、不審に思い泣き声を頼りに庭に出た。そこで、父の乳母だった……君のお祖母さんが泣きながら父の亡骸の前に蹲っていて、王を殺してしまった、自分を処刑してくれと縋られたそうだ。母は彼女がそんなことをしたとはとても信じられなかったが、地面に落ちていた小刀と乳母の取り乱し方を見て何が起こったのかを悟ったらしい。……何故かはわからないが、暗殺者として育てられていた彼女の孫娘が王を殺し、乳母は孫を逃がして身代わりになろうとしているのだと。……母は悩んだそうだが結局乳母の意思を尊重し、君のお祖母さんは翌日……処刑された。……王殺しの罪で」
アリーシャの全身が震えた。自分の喉を掻っ切ってしまいたい衝動にかられるが、膝の上に両爪を立ててなんとか堪える。
「母に……頼まれたんだ。君に会って、なぜ王を刺したのか、理由を聞いてほしいと。そして君が望むなら、国外で生きていけるように取り計らってやってほしいとのことだった」
アリーシャは驚いた。かつての王子たち以上に、王太后には恨まれていると思っていた。なのに、最期の時に自分のことを気にかけてくれるとは。
(……優しい人だった)
脳裏にかつての王妃の顔が蘇る。
アリーシャが暗殺者として訓練されていることを知っていても、「ごめんなさいね」と悲しそうに笑って頭を撫でてくれるような、そんな女性だった。
「……俺は……ここに来て、君と直に会って話をして、想像以上に普通の娘で驚いた。……今日話を聞くまで、本当は心のどこかで期待していたのかもしれない。実は全部母の勘違いで、君は何もしていなかったんじゃないかって。……でも、どうやらその可能性はないみたいだ」
アリーシャには彼の言う意味はよくわからなかったが、突き放したような声音が胸に冷たく響いた。
セルフィエルが静かに立ち上がり、扉に向かう。
「俺は、王都に戻る。……まだ少し混乱しているし、兄と妹とも相談して……君の処遇を決めたいから」
「…………はい」
何か言わなければと思ったが、何も言葉が出てこなかった。しばし考え、結局ただ小さく返事のみを返す。座ったまま動けずにいるアリーシャに、セルフィエルは背を向けたまま告げた。
「…………君が、父を刺した理由は、……正直、理解できなくもない。幼い君にとって、父は世界の全てだっただろうから……。……父に捨てられたと思った時の君の絶望を、想像するくらいはできる。……でも」
扉に手を掛け、片足を外に踏み出す。
「だからといって、……許せるわけじゃない。理屈じゃないんだ。俺は、父を……先王を、とても尊敬していたから。……たぶん君と、同じように」
「……」
「……全部、話してくれたことには、感謝する。…………ありがとう」
そうしてセルフィエルは、硬直したアリーシャを一度も振り返ることなくニース村をあとにした。