第27話 あの、冬の日
―――――――――あなたは……わたしを、殺しにきたのでしょう。
時が、止まった。
セルフィエルは呼吸を忘れ、目を見開いたまま、動けずにいた。
それをアリーシャが黙って見つめる。
「………どうして………」
数秒後、セルフィエルがようやく言葉を発する。
アリーシャはわずかに微笑んだまま、淡々と返した。
「……あなたは……現国王陛下であらせられるザフィエル様の 弟君 、先王グリエル陛下の第二王子…………セルフィエル・エストレア殿下ですね」
「…………!」
淀みなく本名を告げられる。
どうして。なぜ。いつから。
次々に溢れる疑問符は言葉にならず、代わりに見開いた目でじっとアリーシャを見つめる。
凪いだ瞳。出会った時から変わらない、静かな鳶色の瞳。
(…………ああ)
ふいに気づいた。この娘は……わかっていたのだ。
知っていたのだ。セルフィエルの素性を。目的を。知っていてセルフィエルと行動を共にすることを承諾し、家に滞在することを許し、……そして周りの人全てがセルフィエルの想いは本物だと思う中、当の彼女だけは―――曖昧に笑って、否定していた。
少し困ったような、悲しそうな……その表情の意味。
彼女だけは知っていたのだ。彼女への好意を仄めかすセルフィエルの言葉が真実でないことを。
彼が本気でアリーシャに想いを寄せるなど、……絶対にあり得ないということを。
セルフィエルは、ふっと肩の力を抜いた。
「……よくわかったね。言動も、作法も、ボロは出していなかったと思うんだけど……。見事な庶民ぶりだっただろう?」
自嘲気味に言うと、アリーシャはまた泣きそうな顔をして笑った。
「……わかりますよ。一目見た瞬間にわかりました。……だってあなた、お父様にそっくりですもの。……あのお方のお顔、この10年、忘れたことなどありませんでした」
セインが瞠目する。そんなこと一度だって言われたことがなかった。そう言われるのはいつも、兄のザフィエルの方で。
そんなセルフィエルを見て、アリーシャは懐かしげに目を細めた。
―――――そう、彼を初めて目にしたときのように。
「顔の造作はそんなに似ていないのです。おそらくあなたはお母様に似たのでしょう。でも」
そう言って、何かを思い出すように目を閉じる。
「笑顔がそっくりなのです。笑った時に、瞳の色が光の具合で微妙に変化する……お父様そっくりに。あのとき……あなたが私の前に現れた時、ああ、とうとうこの時が来たと思いましたけど……わたしがこんなことを言う資格は絶対にないんですけど……」
「…………」
「……懐かしくて、あの方の笑顔をもう一度見られたのが嬉しくて……泣いてしまいそうでした」
大好きだった。先王のことも、祖母のことも。
ずっとそばにいられるのだと思っていた。
そしてその願いは、アリーシャが自分の手で壊さなければ、叶ったかもしれないもの。
「……本当に立派な方でした。自分の意見を通し過ぎるところがありましたが、多くの民に慕われて……ですから、いつかは こういう日が来ると、10年前に覚悟はすでにできていました。…………本当に、さぞや、お恨みのことでしょう。……どうぞ、お気の済みますように、なさってくださいませ」
その言葉に、唐突に怒りが湧く。感情のままに絞り出すように声を出す。
「……立派、だと…慕われていたと思っているなら、なぜ、殺した。父は……これからのこの国に、なくてはならない人だったのに」
アリーシャは一度唇を引き結び、そして開いた。
―――――寒い、真冬の日のことだった。
空気は凍えるように冷たく、昼を回ったあたりからどんよりと曇り始めていた。
ふわりふわりと白いものが舞い始めたエストレア国の首都ベルファールの小道を、一台の質素な馬車が走っていた。
ガタガタと音を立てて、馬車の窓が開けられる。紗幕が上げられ、黒髪の少女がひょこっと顔を出した。小さな手で窓枠を掴み器用に上体を空に向け、少女は歓声を上げた。
「うわあ、雪ですよ!どうりで寒いわけですね!風が顔にあたって冷たいです!」
さらに身を乗り出そうとすると、馬車の中からぐっと足首を掴まれる。
「……落ちるぞ。おとなしく座ってろ、アリーシャ」
風に黒髪を靡かせながら、少女―――アリーシャは、少々不満げに室内に頭を戻した。自分の足を捕らえている手の主を頬を膨らませて睨みつける。
「グリエルさまも見てみてください。すごくきれいですよ」
拗ねたように言われ、アリーシャの隣に座っている大柄な男がその紅茶色の瞳を細めて笑う。
「もう少しで城に着く。外に出たらいくらでも見られるから、今慌てて見る必要もない」
その言葉にアリーシャはおとなしく男――――グリエルの横に座り直し、うっとりとした顔でふにゃりと笑った。
「……それにしても、ヴァージニアさま、可愛らしかったです……4歳になられたばかりなんですよね?」
「ああ」
エストレア国国王グリエルと正妃メイシーラの長女ヴァージニアは生まれつき身体が弱く、一か月ほど前からメイシーラの生国で療養生活を送っていた。2人の息子は寄宿学校に入っており、今は王宮を空けている。
政務の合間に時間ができたグリエルはアリーシャを護衛に単独で正妃を迎えに行った。ヴァージニアの体調も良好とのことで、今夜中には王都に戻れるらしい。メイシーラとヴァージニアを連れて帰途に着く予定だったが今日中に決済の必要な仕事が残っていたため、グリエルは一足先に王都へ帰還することにした。王妃の屋敷に滞在したのは1日のみだったが、その間アリーシャはおぼつかない足取りで懸命に歩く愛らしいヴァージニアの姿に終始釘付けだった。
「お前は赤ん坊を見るのが初めてだったからな……。しかし何で抱いてやらなかったんだ?メイシーラは良いと言っただろう?」
目を輝かせてヴァージニアを見つめていたアリーシャだったが、王妃が促しても指一本ヴァージニアに触れようとはせずに、「見てるだけで幸せですから、いいんです」と笑顔で首を振るだけだった。
問われたアリーシャは少し考え、呟くように答えた。
「……わたしなんかが触ったら、だめです。ヴァージニアさまは、わたしが今まで見たどんなものよりも真っ白で、きれいですから。……わたしの、血のにおいのする手でさわったら……よごれてしまいます」
「…………」
アリーシャはすでに、グリエルの命令で王に反感を持つ重臣を何人か殺めていた。彼女は9つにして人命を奪うことに一片の躊躇も感じず、どんな状況でも任務を遂行できる技術と柔軟性を備えていた。
「でも、わたしはわたしの手が好きです。この手のおかげで、グリエルさまやメイシーラさまのお役にたてます。もっと大きくなったら、王子さま方もおたすけできます。そうやって、ヴァージニアさまがずっと真っ白で笑っていられるようにお守りできたら、すごく……しあわせです」
アリーシャはそう言って、夢見るように笑った。
そんなアリーシャを見て、グリエルも満足気に頬を緩ませた。
「……そうだな、生まれたときから俺が直々に仕込んだんだ、お前の腕は信用している。だから今回も、護衛は付けずにお前だけを共に出かけた」
暗殺者としての素質は申し分なく、王家への忠誠心は揺るぎない。一生表に出ることはなく、死ぬまで血に塗れた暗い道を歩むことに幸福を見出せるような―――理想の娘に、育ってくれた。
「……帰ったら訓練だ。今のうちに身体を休めておけ」
「はい」
アリーシャは心から嬉しそうに笑って答える。
城の門が開けられ、馬車は静かに城内へと消えていった。