第20話 寝台上の攻防
「……なんか、ごめんね」
「……いえ……、謝らないでください。わたしの方こそ、すみません」
その日の夜、セルフィエルはアリーシャの家にいた。
あのあと勢いのついたメリーベルが酒場に寄って事態が把握できないセルフィエルを引っ張り、2人を無理やりアリーシャの家に放り込んだのだ。
去り際に残されたメリーベルからの言葉は、「セインさま、多少強引でも構いません!アリーシャをモノにしちゃってください!」。
ちなみにアリーシャ宛には、「もう何も考えずにセインさまに任せなさい!」。
足音荒くメリーベルが去った後、2人の間に気まずい沈黙が下りた。
「あー……どうする?もしあれなら、俺は外で寝ても良いよ。近頃暖かいしね、風邪は引かないと思う」
セルフィエルが自分の荷物を抱えたまま言う。
アリーシャは弾かれたように首を振る。
「だめです!そんなことはできません」
「でも……じゃあどうしようか」
アリーシャの家は非常に簡単な造りだ。家の中に仕切りはない。同じ空間に台所、寝台、椅子とテーブルがある。
そして当然だが、予備の布団はない。
「……メリーは……どういうつもりで……家に寝具が一つしかないのを知っているはずなのに」
呟くアリーシャに、セルフィエルはやや呆れたように返した。
「そりゃあ……俺と君の関係を進展させるためでしょ。一線を越えさせるため」
あけすけで冷静な物言いに、アリーシャは戸惑いを通り越し逆に感心しながらセルフィエルを見返した。
「なんというか……落ち着いてますね、セインさま」
「まあね……俺の方は全く慌てる理由がないから。むしろ喜ぶべき事態?……でも」
荷物を床に置き、セルフィエルは楽しそうに笑いながらアリーシャに向かって一歩踏み出す。アリーシャは反射的に一歩後ずさる。
「でも、君にとっては困った状況かな?」
「……困るだなんて……ただ、恋仲でもない男女が同じ部屋で夜を過ごすのは、どうかと……。……2人で寝台を使う……のは、さすがに窮屈ですよね。ではセインさま、寝台をお使いください。わたしはどこでも寝られますから」
考えながら言葉を紡ぐアリーシャをしばらく見つめ、セルフィエルはため息を吐いた。
前髪を掻き上げながら言う。
「……アリーシャはさ、ちょっとずれてるよね。同じ部屋で過ごすなら、一緒の寝台で寝ても別々に寝ても変わらないって?……こんなことになっても、君が心配しているのは自分の身じゃない。この村とドーラムでの俺の評判だ。正確には君と一つ屋根の下で寝て、俺がみんなに噂されて嫌な思いをするんじゃないか、ってことでしょ。君にとって問題なのは同室で一晩過ごすことで、実際に何が起こるかじゃない」
……そうなのだろうか。アリーシャは思案する。
きちんと論理的に考えていなかったからわからないが、言われてみればそんな気もする。
少なくとも自分の身を案じているのではないというのは当たっているので、たぶん彼の言うとおりなのだろう。
大体にしてアリーシャは、この村に来てから一度も、自分の身に何かが起こるのを心配する、という事態に陥ったことがなかった。
「……自分でもよくわからない、って顔だね。でも俺は間違っていないと思うよ。自慢じゃないけど この半月で、君のことはずいぶんと理解できるようになったつもりだ」
「……」
セルフィエルは微笑んだまま、無造作にアリーシャに近づいていく。それに押されるように、彼の目を見つめたままアリーシャは後退を続け、やがて足が寝台に当たり、ぽすっと腰掛けた。
セルフィエルはアリーシャの目の前に立つと、腰をかがめてアリーシャの顔を覗き込む。そして、口角を上げたまま囁いた。
「……教えてあげる。普通、こういう場面で女の子が一番に心配すべきことはね、目の前の男に何かされるかもってことだよ。つまり、自分の身体の心配ってこと」
「普通……ですか」
「そう」
セルフィエルは目線を合わせたまま、アリーシャの横に腰を下ろした。アリーシャは自分をじっと見つめる熱のこもった瞳に耐えきれなくなり、視線を外す。そして呟く。
「わかりません……普通、は……。それに今までは……」
「困ったことなんかない?自分で何とかしてきた?……正直、今俺に押さえつけられても、振り払えると思ってるでしょ」
「……はい」
そんなことは想像すらしなかったが、もし実際起こったとしたら可能だろう。それは自信ではなく確信だった。アリーシャにとっては事実。それ以上でもそれ以下でもない。
「そう、じゃあ試してみる?」
「セ、セインさま!?」
ふいに、セルフィエルの両腕がアリーシャの背中に回る。そのままきつく抱きしめられた。頬が彼の胸に密着し、規則正しい心音が聞こえる。顔がかぁっと熱くなるのがわかった。
「セ……セインさま、あの、離してくださ……」
「いいから。押しのけられるかどうか、やってみて。……全力で、だよ。手加減なし」
「……っ」
耳元で囁かれ、息遣いを直に感じる。くすぐったくて、アリーシャは思わず首をすくめた。頭が混乱する。
「どうしたの?ほら、早く」
わずかに腕の力が増し、密着度がさらに上がる。それに比例し、アリーシャの心拍数も上がる。
「……っ!」
身体にうまく力が入らない。それでも懸命にセルフィエルの胸と自分の身体に挟まれた腕に力をこめ、なんとか隙間を空けようとする。そして愕然とした。
(……うそ……びくともしない……)
様々な角度を試すが、微動だにしない。
(……どうしよう……関節を外せば、抜けられるかも……)
思いつくが、実行するのは躊躇する。……それはたぶん、『普通』ではない。
アリーシャは焦った。焦るとますます混乱する。するとますます焦る。悪循環だ。
セルフィエルがさらに小声で追い打ちをかける。
「……まさかこれが本気?……俺はまだまだ余裕なんだけど。ねえ、このまま押し倒されて純粋に力勝負になったら、敵わないのがわかる?男の腕力を見縊ったら駄目だよ、そもそも造りが違うんだから。今俺がその気になったら、君がいくら本気で抵抗しても泣き叫んでも関係なく、最後までやられちゃうよ。……それがわからないほど、……相手との力量差を正確に計れないほど、君は未熟じゃないよね?」
「……っ……は……はい……っ」
やっとの思いで返事をすると、セルフィエルが微笑むのがわかった。
「……いい子だね。じゃあ、約束して。こういう状況になりそうになったら、身体を押さえられる前に逃げること。……わかった?」
故意なのか偶然なのか、そう囁くセルフィエルの唇がアリーシャの耳たぶを掠める。思わず「ひゃっ……」という声が漏れた。
一瞬、セルフィエルの腕の力が緩むのを感じた。その瞬間を逃さずに彼の腕から逃れ、ぱっと離れる。そしてその勢いに任せ、動転した頭で一気に喋る。
「わっ……わかりました……!わかりましたから……!わたしが悪かったです、すみませんでした……っ」
なぜ自分は謝っているのだろう。頭の片隅で思うが、今はどうでもいい。
セルフィエルはその答えを聞くと、満足そうに笑って立ち上がった。
「うん。わかってくれたなら良かった。さて、じゃあ俺は行くよ」
再び荷物を担ぐと、出口に向かい始める。
「えっ……ど、どこへですか……?」
宿屋へは戻れないはずだ。セルフィエルは扉を開けながら答える。
「今日は村長の家の馬小屋で寝るよ。それで、明日になったら宿屋で余った布団を借りてくる。そうしたら、ここにお世話になってもいいかな?」
「もっ……もちろんです……!」
小刻みに首を縦に振るアリーシャを見て、セルフィエルはふっと笑った。
「もう、同じ寝台でもいいから一緒に寝ましょう、とかは言わないんだね。学んでくれたみたいで何より」
アリーシャは再び絶句して赤面する。
「じゃ、おやすみ」
固まったままのアリーシャを残し、セルフィエルは静かに扉を閉めた。
(……面白い子だなぁ)
村長の家に向かいながら考える。
思わず苛めてしまった。
笑みが漏れるが、それはすぐに哀しみを含んだ微笑に変わる。
そして思う。
(…………殺すのは……可哀想だな……)
自然にそう思えた。
こんな風に出会っていなかったら、何かが変わっていただろうか。
空を見上げると、王都とは比べものにならない数の星が瞬いていた。